カイロ会談(読み)カイロかいだん

改訂新版 世界大百科事典 「カイロ会談」の意味・わかりやすい解説

カイロ会談 (カイロかいだん)

第2次世界大戦中の連合国首脳会談の一つで,対日戦争と戦後処理について具体的に討議した最初の会議。米英ソの〈三巨頭〉が初めて会談したテヘラン会談に先がけて1943年11月22日より26日までカイロで開催され,アメリカ大統領ローズベルト,イギリス首相チャーチル中華民国総統蔣介石が出席し,対日戦の軍事面での協力と将来の領土について話し合い,11月27日カイロ宣言を発表した。宣言は,(1)対日戦について米英中間の戦争遂行の決意と協力を述べ,その目的はあくまで日本の侵略を阻止し罰することにあり,いかなる領土拡張の念ももたないことを明らかにし,(2)領土については,第1次大戦開始以降日本が奪取,占領した太平洋のすべての島は取りあげられ,満州台湾,澎湖島のような中国より奪取した領土は中国に返還され,その他日本が暴力と強欲によって略取した地域においても日本は駆逐されるとした。また,(3)朝鮮についても言及され,〈しかるべき時期〉に自由かつ独立のものとする決意であるとし,最後に,(4)以上の目的のために,日本が無条件降伏するまで戦争を続行することを明らかにした。
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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カイロ会談」の意味・わかりやすい解説

カイロ会談
カイロかいだん
Cairo Conference

第2次世界大戦中連合国の首脳が,アジアでの戦略方針および対日処理方針を主要な議題として,エジプトのカイロで開いた2回の会議。 (1) 第1次会談  1943年 11月 22~27日 F.ルーズベルト大統領 (アメリカ) ,W.チャーチル首相 (イギリス) ,蒋介石総統 (中華民国) の3首脳間で開催。政治問題では,対日戦の協力について協議したうえ,日本の領土問題について連合国の基本方針を決め,カイロ宣言として発表した。軍事問題では,ビルマ作戦を重視するルーズベルトと蒋介石からアメリカ,イギリス,中国3国軍によるビルマ (現ミャンマー) への新作戦に関する提案が行われたが,チャーチルはイギリス軍上陸用舟艇のアンダマン諸島への回送に反対し,決定にいたらなかった。また,北フランス侵攻を絶対的に優先させようとするアメリカの構想に対し,チャーチルはイタリアと東部地中海へも全兵力の4割をさくよう提案し,結論は出なかった。 (2) 第2次会談 同 43年 12月2~7日ルーズベルトとチャーチルの間で開かれ,連合軍の北フランス,南フランス上陸作戦を優先させ,アンダマン諸島を含むビルマ作戦を放棄して,重慶政府に対してはヒマラヤ越えの空輸による物資援助を増大するにとどめることを最終的に決定した。

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百科事典マイペディア 「カイロ会談」の意味・わかりやすい解説

カイロ会談【カイロかいだん】

第2次世界大戦中,1943年11月チャーチルローズベルト蒋介石が出席してカイロで開かれた連合国首脳会談。会議終了後の12月1日,ビルマ奪回作戦開始,戦後日本の領土処理問題などポツダム宣言の基礎となる内容をもつ共同宣言(カイロ宣言)を発した。続いて4〜6日チャーチル,ローズベルト,トルコ大統領イネニュが出席した首脳会談では3国親善関係が確認された。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「カイロ会談」の解説

カイロ会談(カイロかいだん)

第二次世界大戦中,1943年11月23~27日カイロで,アメリカ大統領ローズヴェルト(フランクリン),イギリス首相チャーチル,中国主席蒋介石(しょうかいせき)による会談。その内容は翌12月1日「カイロ宣言」として発表された。ここでは日本の無条件降伏を要求し,降伏後の領土については,第一次世界大戦以後に日本が得た太平洋の島嶼の剥奪,満洲台湾・澎湖島(ほうことう)などの中国への返還,朝鮮の自由と独立,の方針が表明された。なおテヘラン会談後再び3国首脳はカイロに会し(第2次カイロ会談),ソ連の対日参戦の意向を考慮し,対日作戦の若干の変更(ビルマ作戦中止)が決定された。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「カイロ会談」の意味・わかりやすい解説

カイロ会談
かいろかいだん

第二次世界大戦中の1943年11月22~26日、エジプトのカイロCairoで開かれたF・D・ルーズベルト、チャーチル、蒋介石(しょうかいせき)の米英中三国首脳会談。対日戦遂行の協力と戦後処理が主要議題で、27日調印されたカイロ宣言では、太平洋上の日本領諸島の剥奪(はくだつ)と、日本が中国から奪った全領土の返還、さらに朝鮮の独立、連合国が日本の無条件降伏まで一致して戦うことなどが表明された。このカイロ宣言は、45年7月のポツダム宣言でも確認され、日本の降伏に関する最初の基本方針となった。なお、この会談(第一次カイロ会談)は、米英首脳がテヘラン会談に向かう途中開かれたもので、テヘランからの帰路、12月3~6日にふたたびカイロで米英首脳とトルコ大統領イノニュとの会談(第二次カイロ会談)が開かれた。席上、米英はトルコに対し連合国側での参戦を勧告したが、トルコはあくまで中立を維持するとして参戦を拒否した。

[藤村瞬一]

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旺文社世界史事典 三訂版 「カイロ会談」の解説

カイロ会談
カイロかいだん
Cairo Conference

第二次世界大戦中の1943年11月22〜26日,アメリカ大統領 F.ローズヴェルト,イギリス首相チャーチル,中国国民政府主席蔣介石 (しようかいせき) がエジプトのカイロで行った会談
会談の結果,カイロ宣言が発表された。その内容は(1)3国は日本の侵略を制止懲罰するが,領土拡大の意図はない,(2)日本が1914年以後に獲得した太平洋上の諸島を剝奪する,(3)満州・台湾・澎湖 (ほうこ) 諸島の中国返還,(4)朝鮮の自由独立,などを規定しており,日本が無条件降伏するまで戦争を継続するとしている。この領土条項は,のちのポツダム宣言に取り入れられた。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「カイロ会談」の解説

カイロ会談
カイロかいだん

1943年(昭和18)11月22~26日,エジプトのカイロで開催された米・英・中3国首脳会談。米大統領F.D.ローズベルト,英首相チャーチル,中華民国主席蒋介石(しょうかいせき)が列席。議題は対日戦の戦略と戦後処理問題であった。この会談は連合国の協力関係の誇示と,4大国の一つとしての中国を内外に明示するものでもあった。会談後,日本の領土問題に関するカイロ宣言が発せられた。

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世界大百科事典(旧版)内のカイロ会談の言及

【太平洋戦争】より

…まず43年1月25日のカサブランカでの会談では,ローズベルト・アメリカ大統領とチャーチル・イギリス首相が日独伊3国に無条件降伏を要求すると言明し,同年10月19~30日モスクワで開かれた米英ソ3国外相会議では,日独伊など〈敵国〉の占領統治は直接その国を軍事占領した連合国が排他的な実権を握って実施することが決定され,席上,スターリン・ソ連首相は,ドイツ降伏後に対日参戦を行うと初めて述べた。次いで同年11月27日のカイロ宣言(〈カイロ会談〉の項を参照)では,満州・台湾・澎湖諸島の中国への返還,朝鮮の独立,日本の無条件降伏などが定められ,45年2月11日のヤルタ協定(〈ヤルタ会談〉の項を参照)では,南樺太のソ連への返還と千島列島のソ連への引渡しを条件とするソ連対日参戦が決定され,さらに7月26日のポツダム宣言は,日本が非軍事化と民主化を2本の柱とする対日処理方針を受諾し,即時無条件降伏することを求めていた。これに対し日本では,45年2月14日の近衛文麿元首相の天皇への上奏文提出を契機に,和平工作が木戸幸一内大臣らの宮中グループを中心に進められた。…

※「カイロ会談」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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