カイロ宣言(読み)カイロセンゲン

デジタル大辞泉 「カイロ宣言」の意味・読み・例文・類語

カイロ‐せんげん【カイロ宣言】

第二次大戦中の1943年、米国大統領ルーズベルト・英国首相チャーチル・中国総統蒋介石しょうかいせきカイロ会談し、発表した宣言日本無条件降伏要求と、降伏後の日本領土決定などを内容としたもので、テヘラン会談ヤルタ会談を経て、ポツダム宣言基礎となった。

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精選版 日本国語大辞典 「カイロ宣言」の意味・読み・例文・類語

カイロ‐せんげん【カイロ宣言】

  1. 第二次世界大戦末期、日本に対する連合国の基本方針を明らかにした宣言。一九四三年一二月一日、エジプトのカイロでアメリカのルーズベルト、イギリスのチャーチル、中国の蒋介石の会談の結果発表された。領土の拡張を否定し、南洋群島満州台湾澎湖島返還朝鮮独立などを目的として、日本の無条件降伏まで戦い抜くことを宣言している。これがポツダム宣言の基礎になった。

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「カイロ宣言」の意味・わかりやすい解説

カイロ宣言
カイロせんげん
Cairo Declaration

1943年 11月 27日,第1次カイロ会談の最終日にアメリカの F.ルーズベルト,イギリスの W.チャーチルおよび中華民国の蒋介石の3首脳が署名し,同年 12月1日に発表された対日戦の基本目的についての宣言。おもな内容は次のとおり。 (1) 3国は「日本国に対する将来の軍事行動を協定した」こと,(2) 3国は「野蛮な敵国には仮借のない圧力を加える決意を表明した」こと,(3) 日本の侵略を「制止し処罰する」が,3国とも領土拡張の意図はないこと,(4) 第1次世界大戦後日本が奪取または占領した太平洋における一切の島嶼の剥奪,ならびに満州,台湾,澎湖列島などの中華民国への返還,日本が暴力と貪欲によって略取したすべての地域からの日本の駆逐,(5) 朝鮮を解放,独立させる決意を有すること,(6) 以上の目的で,3国は日本の無条件降伏まで,日本と交戦中の他の諸国と協力して長期間の行動を続行する旨を明らかにした。このうち,日本の領土問題に関する方針などは,45年のポツダム宣言に取入れられ,日本によって受諾された。

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「カイロ宣言」の解説

カイロ宣言
カイロせんげん

1943年(昭和18)11月27日,カイロ会談の結果,第2次大戦の連合国米・英・中3国が共同で発した宣言。日本の戦後処理に関する連合国の基本方針が,戦時中ここに初めて明示された。具体的には領土問題に関連して,南洋委任統治地域の放棄,満州・台湾・澎湖(ほうこ)諸島の中華民国への返還,朝鮮の独立などが定められた。同時にこれらの目的を達成するために,3国が引き続き協力して日本の無条件降伏に至るまで対日戦を遂行することが確認された。この基本線は以後変わることなくポツダム宣言へとうけつがれた。

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旺文社日本史事典 三訂版 「カイロ宣言」の解説

カイロ宣言
カイロせんげん

第二次世界大戦中の1943年,アメリカ・イギリス・中華民国の3国首脳によるカイロ会議の結果発表された,日本の戦後処理に関する連合国の基本方針
アメリカ大統領ローズヴェルト・イギリス首相チャーチル・中華民国主席蔣介石がエジプトのカイロで会談し,(1)日本の侵略は防止するが自国は侵略目的をもたない,(2)第一次世界大戦以来の奪取または占領した太平洋諸島の放棄,(3)満州・台湾などの中国返還,(4)朝鮮の独立,などを規定。ポツダム宣言の基本となった。

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旺文社世界史事典 三訂版 「カイロ宣言」の解説

カイロ宣言
カイロせんげん

カイロ会談

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世界大百科事典(旧版)内のカイロ宣言の言及

【UNCTAD】より

…こうしたなかで1950年代後半から発展途上国の経済開発をめぐって種々の困難が顕在化し,とくに貿易の伸び悩み,国際収支の不均衡が問題となり,発展途上国からの輸出の拡大が焦眉の急となったことがその成立の直接的なきっかけであった。 61年には第16回国連総会で1960年代を〈国連開発の10年〉とする決議がなされ,62年には国連主催の貿易会議を早期に開催することを要求したカイロ宣言が発せられた。そして同年の第17回国連総会で64年のUNCTAD開催が正式に決定され,同時に準備委員会が設立された。…

【カイロ会談】より

…第2次世界大戦中の連合国の首脳会談の一つで,対日戦争と戦後処理について具体的に討議した最初の会議。米英ソの〈三巨頭〉が初めて会談したテヘラン会談に先がけて1943年11月22日より26日までカイロで開催され,アメリカ大統領ローズベルト,イギリス首相チャーチル,中華民国総統蔣介石が出席し,対日戦の軍事面での協力と将来の領土について話し合い,11月27日カイロ宣言を発表した。宣言は,(1)対日戦について米英中間の戦争遂行の決意と協力を述べ,その目的はあくまで日本の侵略を阻止し罰することにあり,いかなる領土拡張の念ももたないことを明らかにし,(2)領土については,第1次大戦開始以降日本が奪取,占領した太平洋のすべての島は取りあげられ,満州,台湾,澎湖島のような中国より奪取した領土は中国に返還され,その他日本が暴力と強欲によって略取した地域においても日本は駆逐されるとした。…

【太平洋戦争】より

…まず43年1月25日のカサブランカでの会談では,ローズベルト・アメリカ大統領とチャーチル・イギリス首相が日独伊3国に無条件降伏を要求すると言明し,同年10月19~30日モスクワで開かれた米英ソ3国外相会議では,日独伊など〈敵国〉の占領統治は直接その国を軍事占領した連合国が排他的な実権を握って実施することが決定され,席上,スターリン・ソ連首相は,ドイツ降伏後に対日参戦を行うと初めて述べた。次いで同年11月27日のカイロ宣言(〈カイロ会談〉の項を参照)では,満州・台湾・澎湖諸島の中国への返還,朝鮮の独立,日本の無条件降伏などが定められ,45年2月11日のヤルタ協定(〈ヤルタ会談〉の項を参照)では,南樺太のソ連への返還と千島列島のソ連への引渡しを条件とするソ連対日参戦が決定され,さらに7月26日のポツダム宣言は,日本が非軍事化と民主化を2本の柱とする対日処理方針を受諾し,即時無条件降伏することを求めていた。これに対し日本では,45年2月14日の近衛文麿元首相の天皇への上奏文提出を契機に,和平工作が木戸幸一内大臣らの宮中グループを中心に進められた。…

【日中戦争】より

…中国はようやく不平等条約の打破に成功したのである。11月には蔣介石主席はF.ローズベルト・アメリカ大統領,チャーチル・イギリス首相とカイロ会談を行い,台湾・澎湖島の中国返還,朝鮮の独立,日本の無条件降伏をめざすカイロ宣言を発表した。
[終戦]
 マリアナ敗戦で1944年7月に東条内閣は倒れ,小磯国昭内閣が成立すると,最高戦争指導会議は〈満州国〉の存立だけを条件に中国と和平する方針を決めた。…

※「カイロ宣言」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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