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1943年(昭和18)11月27日,カイロ会談の結果,第2次大戦の連合国米・英・中3国が共同で発した宣言。日本の戦後処理に関する連合国の基本方針が,戦時中ここに初めて明示された。具体的には領土問題に関連して,南洋委任統治地域の放棄,満州・台湾・澎湖(ほうこ)諸島の中華民国への返還,朝鮮の独立などが定められた。同時にこれらの目的を達成するために,3国が引き続き協力して日本の無条件降伏に至るまで対日戦を遂行することが確認された。この基本線は以後変わることなくポツダム宣言へとうけつがれた。
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…こうしたなかで1950年代後半から発展途上国の経済開発をめぐって種々の困難が顕在化し,とくに貿易の伸び悩み,国際収支の不均衡が問題となり,発展途上国からの輸出の拡大が焦眉の急となったことがその成立の直接的なきっかけであった。 61年には第16回国連総会で1960年代を〈国連開発の10年〉とする決議がなされ,62年には国連主催の貿易会議を早期に開催することを要求したカイロ宣言が発せられた。そして同年の第17回国連総会で64年のUNCTAD開催が正式に決定され,同時に準備委員会が設立された。…
…第2次世界大戦中の連合国の首脳会談の一つで,対日戦争と戦後処理について具体的に討議した最初の会議。米英ソの〈三巨頭〉が初めて会談したテヘラン会談に先がけて1943年11月22日より26日までカイロで開催され,アメリカ大統領ローズベルト,イギリス首相チャーチル,中華民国総統蔣介石が出席し,対日戦の軍事面での協力と将来の領土について話し合い,11月27日カイロ宣言を発表した。宣言は,(1)対日戦について米英中間の戦争遂行の決意と協力を述べ,その目的はあくまで日本の侵略を阻止し罰することにあり,いかなる領土拡張の念ももたないことを明らかにし,(2)領土については,第1次大戦開始以降日本が奪取,占領した太平洋のすべての島は取りあげられ,満州,台湾,澎湖島のような中国より奪取した領土は中国に返還され,その他日本が暴力と強欲によって略取した地域においても日本は駆逐されるとした。…
…まず43年1月25日のカサブランカでの会談では,ローズベルト・アメリカ大統領とチャーチル・イギリス首相が日独伊3国に無条件降伏を要求すると言明し,同年10月19~30日モスクワで開かれた米英ソ3国外相会議では,日独伊など〈敵国〉の占領統治は直接その国を軍事占領した連合国が排他的な実権を握って実施することが決定され,席上,スターリン・ソ連首相は,ドイツ降伏後に対日参戦を行うと初めて述べた。次いで同年11月27日のカイロ宣言(〈カイロ会談〉の項を参照)では,満州・台湾・澎湖諸島の中国への返還,朝鮮の独立,日本の無条件降伏などが定められ,45年2月11日のヤルタ協定(〈ヤルタ会談〉の項を参照)では,南樺太のソ連への返還と千島列島のソ連への引渡しを条件とするソ連対日参戦が決定され,さらに7月26日のポツダム宣言は,日本が非軍事化と民主化を2本の柱とする対日処理方針を受諾し,即時無条件降伏することを求めていた。これに対し日本では,45年2月14日の近衛文麿元首相の天皇への上奏文提出を契機に,和平工作が木戸幸一内大臣らの宮中グループを中心に進められた。…
…中国はようやく不平等条約の打破に成功したのである。11月には蔣介石主席はF.ローズベルト・アメリカ大統領,チャーチル・イギリス首相とカイロ会談を行い,台湾・澎湖島の中国返還,朝鮮の独立,日本の無条件降伏をめざすカイロ宣言を発表した。
[終戦]
マリアナ敗戦で1944年7月に東条内閣は倒れ,小磯国昭内閣が成立すると,最高戦争指導会議は〈満州国〉の存立だけを条件に中国と和平する方針を決めた。…
※「カイロ宣言」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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