基本情報
正式名称=カタル国Dawla al-Qaṭar/State of Qatar
面積=1万1607km2
人口(2010)=171万人
首都=ドーハDoha(日本との時差=-6時間)
主要言語=アラビア語
通貨=カタル・リヤルQatar Riyal
アラビア半島から北へ向かってペルシア湾に突出した半島を国土とする国。カタールとも呼ばれる。
半島の長さ約160km,最大幅約85km。地形は概して平たんで,標高が100mを超す地点はない。全体が砂漠であるが,ところどころの低地にオアシスがあってナツメヤシの木立がみられたり,冬の雨季にのみ水の流れるワジ(涸れ川)に草が生えていたりする。飲料水はきわめて少なく,現在の住民は主として淡水化した海水に依存して生活している。半島の付け根に塩分の多い谷地形があって,かつて半島が島であったことを示している。夏は高温多湿で,最高気温は40℃を超すのがふつうである。降雨量は年平均30mm程度で,夏の生活は容易ではない。住民の主体はアラブであるが,イラン人,パキスタン人,インド人などもいる。国籍でみると非カタル人の方が多く,全人口約60万人(1996)のうち80%近くを外国人労働者が占める。宗教では隣国サウジアラビアと同じワッハーブ派のイスラム教徒が主であるが,シーア派教徒もいる。
第2次大戦後の考古学的調査によって,前3000年から前2000年ころの石器時代や鉄器時代の遺物が発見されているが,それ以後近代までの歴史はいまだ不明である。現在の首長家,サーニーThānī家がカタル半島に移住したのは比較的遅く,19世紀ごろといわれている。19世紀中ごろまでカタルを支配していたのはバーレーンのハリーファ家であったが,1868年カタル土着の名家の要請により,イギリスがハリーファ家の支配に終止符を打った。これによりカタルの独立とサーニー家による統治が確立した。
カタルは1871年にはオスマン朝の支配を受け入れ,カーイムマカーム(総督)の地位を与えられる。しかし,オスマン朝の支配は徐々に衰退,さらにはサウード家のアブド・アルアジーズによるハサー地方征服などもあり,1916年,当時のカタル首長アブド・アッラーフ(アブドゥッラー)はイギリスとの保護領協定に署名した。カタルはイギリス以外のいかなる国にも領土を割譲したり租借に供したりしないこと,またイギリスの同意なしには他国と外交関係を結ばないこと,その代りイギリスはカタルへの海からの侵略を防衛し陸からの攻撃の際には援助を与えることが決められ,カタルは事実上イギリスの保護国となった。68年にイギリスのペルシア湾からの撤退が決まると,ペルシア湾岸の首長国による連邦結成が計画されたが,結局カタルは連邦に加盟せず,71年に単独で独立してイギリスと友好条約を結ぶことによって保護から脱し,同年アラブ連盟と国連に加盟した。
国家元首を首長(アミールamīr)と称し,独立時の首長はサーニー家のアフマドであった。アフマドは独立前の1970年に暫定憲法を制定するなどしたが,その後は国政に熱意を示さなかったため,72年,皇太子兼首長代理であったハリーファが他のサーニー家一族の支持をえてみずから首長になった。新首長は国の近代化に取り組み,1970年の暫定憲法を廃止し,新たに72年暫定憲法を制定,一族の特権の制限や社会開発事業の推進に努め,30名の議員からなる諮問会議を発足させた。しかし1995年6月,同首長の外遊中に皇太子のハマドが宮廷クーデタを起こし,首長に就任した。その後ハマドはさまざまな民主化政策を進め,諮問評議会の定数を35名に増員したほか,地方議会,商工会議所理事会の公選制導入などを目指している。また72年の暫定憲法を改定し,首長位継承も明文化,96年10月には三男のジャーシムを皇太子に任命した。
外交面ではGCC諸国の一国として他の5ヵ国と共同歩調をとっているが,サウジアラビアやバーレーンとは国境問題をかかえている。サウジアラビアとの国境は1965年に合意が成立したが,92年には武力衝突が発生した。その後,国境画定のための交渉が進んでいる。一方,バーレーンとの領土紛争は両国のほぼ中間にある砂州をめぐるものであるが,歴史的な経緯もあり,きわめてこじれている。当初サウジアラビアの仲介によって交渉が開始されたが,1991年カタルは国際司法裁判所(ICJ)に提訴,現在はICJを舞台に両国のかけひきが続いている。
カタルの経済は1930年代までは真珠採取など水産業が中心であったが,日本の養殖真珠などにより壊滅的打撃を受けた。しかしそれとほぼ入れかわるかたちで,石油開発が始まった。1935年,アングロ・ペルシアン石油会社とアブドゥッラー首長が石油開発利権協定に署名したのを皮切りに,39年にドゥハーン油田が発見され,第2次大戦をはさんで49年に最初の輸出が行われた。現在は74年に設立された国営のカタル・ジェネラル・ペトロリアム・カンパニー(カタル石油公社)が石油政策全般をとりしきっている。
カタルの石油生産は日産約50万バレルで,政府歳入の70%以上を占める。政府は豊かな原油収入を背景に大規模な経済開発を進め,国民1人当りのGNP1万4540ドル(1994)という富裕国となっている。カタルにとって石油以上に有望とされるのが世界最大級といわれる構造性天然ガス田であり,1996年12月から年間600万tの液化天然ガスを日本に輸出するカタル・ガス・プロジェクトが開始された。一方,こうした石油依存体質を改善するため,ウンム・サイードに大規模な重工業プロジェクトが建設されている。また公営企業の民営化を進めるとともに,雇用創出のためカタル人化政策を推進している。
1997年には中東・北アフリカ経済会議がドーハで開催された。
執筆者:冨岡 倍雄+保坂 修司
粘液を分泌する粘膜細胞に炎症が起き,その結果多量の粘液分泌を起こす状態をいい,このような炎症をカタル性炎catarrhal inflammationという。ギリシア語のkatarroos(下へ流れる)からきた言葉である。炎症のはじめに生ずる血管拡張が粘液腺を刺激し,粘液細胞による粘液産生と分泌が亢進する。したがって,この炎症では粘液細胞が死滅せずにむしろ活発に機能していることになる。通常の風邪に伴う多量の鼻汁の流出が典型的である。鼻カタルnasal catarrhは,鼻炎rhinitisで鼻汁分泌が著しい状態をいう。秋季カタルautumnal catarrhは枯草熱hay feverのことで,喘息(ぜんそく)や気管支炎を伴う眼球粘膜,上気道粘膜の炎症で,花粉などが原因となるアレルギー性炎である(花粉症)。一般に胃カタルとか大腸カタルという言葉が使用されているが,病理学的には実体が乏しく,それぞれ軽い胃炎,腸炎に相当するものであろう。事実,病理学的にカタル性虫垂炎catarrhal appendicitisとは好中球の反応も伴わない軽い虫垂炎をさしている。したがって,内臓疾患でカタルという言葉は医学用語としては用いられていない。
執筆者:長島 和郎
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
病理学的にはカタル性炎といい、組織の損傷を伴わない粘膜の漿液(しょうえき)性炎を意味する。生体組織における炎症のうち、滲出(しんしゅつ)現象が著明なものを滲出性炎とよび、滲出物の性状や種類によって漿液性炎、線維素性炎、化膿(かのう)性炎などに分類するのが医学、病理学での習慣である。漿液性炎とは黄色調の透明な液体の滲出を主とする炎症で、その液体は血清とほぼ同様な組成で、タンパク質に富み、比重も高い。鼻腔(びくう)から液体が流れ出る鼻カタルが一例であり、カタルの語源は、ラテン語の流れ下るという意味のカタルスcatarrhusに由来するといわれる。「カタル性」のつけられた炎症には、消化器病のグループに含まれるものが多い。すなわち、口腔粘膜の感染や全身の抵抗力減退などが誘因となっておこるカタル性口内炎、急性胃炎とほぼ同義語として用いられるカタル性胃炎、サルモネラ菌・ブドウ球菌などの感染や飲食の不摂生などによる腸粘膜の炎症性浮腫(ふしゅ)、あるいは粘液の多量の付着をおこすカタル性腸炎などがその例である。この炎症で、白血球の滲出が強い場合は化膿性カタルとよび、上皮の剥脱(はくだつ)が著しい場合は剥離性カタルという。
[渡辺 裕]
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
アラビア半島からペルシア湾側に突出する半島。住民の多くはアラブ人ムスリムで,ワッハーブ派を奉ずる。19世紀後半にサーニー家の支配が確立し,イギリスの保護国となったのち,1971年独立した。首都はドーハ。天然真珠採取を主産業としていたが,現在は石油が経済の柱であり,世界最大級の天然ガス田を有する。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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