カティリナ
Lucius Sergius Catilina
生没年:前108ころ-前62
没落パトリキ出身のローマの政治家。同盟市戦争に従軍し,スラの恐怖政治に荷担して蓄財。プラエトル,アフリカ総督就任後,コンスル職を目指したが,一度は不当搾取罪に問われて立候補できず,クラッスス,カエサルら政界多数の協力を得た前64,前63両年にも落選した。その直後,政権担当者暗殺,内乱状態再現を狙って全イタリア規模の陰謀を組織したが,コンスルのキケロの追及を受け,エトルリアへ逃亡(前63年11月)。一味は逮捕,処刑され,彼自身も翌年討伐軍との戦闘で敗死した。陰謀参加者は旧スラ派の不満分子を核に没落退役兵,都市貧民に及び,前2世紀後半以来の社会崩壊へのスラ的処方箋の破産を象徴する。
執筆者:栗田 伸子
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カティリナ
かてぃりな
Lucius Sergius Catilina
(前108―前62)
ローマ共和政末期の貴族、政治家。紀元前63~前62年の国家転覆陰謀事件の主謀者。若いころはスラ派に属し、前68年法務官に昇進した。その後、北アフリカの属州総督を務めたが、不当徴収のかどで告発されたことが災いして再度にわたる執政官(コンスル)選挙で落選の憂き目にあった。しかし、彼は零落貴族、破産退役兵、貧民不満分子の間に勢力を広め、前63年これらの徒党や野心的な元老院貴族の支援のもとに暴力的手腕による政権奪取の陰謀を企てた。これに対して、キケロによるカティリナ派弾劾の弁舌が功を奏し、彼は公敵と宣告され、エトルリアに逃れたが残党とともに戦死した。
この陰謀事件は、当時のローマ社会の「持たざる人々」と「持てる人々」との対立が表面化したものであり、史料にはサルスティウスの『カティリナの陰謀』やキケロの『カティリナ弾劾』などが残存する。
[本村凌二]
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カティリナ
Lucius Sergius Catilina
前108~前62
共和政末期ローマの政治家。政争に敗れ,不満分子や貧民に呼びかけて,前66年末から前63年にかけたびたび国政変革,国家の擾乱(じょうらん)を図ったがキケロから告発され,敗死した。この国難を救ったキケロは国父の尊称を受けた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
カティリナ
ローマ共和政末期の政治家。前66年末―前63年にたびたび国政変革,国家転覆の陰謀を計ったが,キケロらの攻撃を受けエトルリアにのがれて敗死。
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世界大百科事典(旧版)内のカティリナの言及
【サルスティウス】より
…以後,歴史叙述に専念し,旗幟(きし)鮮明な筆法と簡潔な文体によってタキトゥスらに深い影響を与えた。 スラの独裁が生み出した暴力的社会状況の象徴ともいうべき[カティリナ]の陰謀事件(前62)を描いた《カティリナ》以来,サルスティウスの主題は一貫して崩壊の度を加えるローマ社会の同時代史であった。第2作《ユグルタ戦記》は,前118年からのヌミディア王位継承紛争をきっかけに暴露されたローマ名門貴族(ノビレス)の腐敗と反動政治に対する平民派の抵抗開始を描いて,彼にとっての〈現代史〉の出発点を分析したものであった。…
【歴史劇】より
…したがって,ローマ史劇の登場人物は,イギリスの年代記史劇の登場人物より,そのなまなましさが少ないと言えるが,しかし劇的想像力のうえでは,民衆文化の中での〈神話化〉によって,より確かなリアリティをもっているとみることもできる。ベン・ジョンソンの《カティリナ》もローマ史劇の一つであり,サルスティウス,キケロ,プルタルコスなどを資料として書かれたものだが,この芝居は,アナクロニズムを避け,史実に忠実たらんとしたため,かえって,劇としてのダイナミズムに欠ける結果となってしまっている。 ほぼ同時代,スペインではローペ・デ・ベガ,イタリアではアレッサンドロ・マンゾーニが歴史劇を書いていた。…
【キケロ】より
…前64年キケロはガイウス・アントニウスとともに翌年のコンスル(執政官)に選ばれた。騎士身分の生れで政治的背景を持たぬ〈新人〉であった彼がコンスルに選ばれたのは,[カティリナ]の企てを恐れたオプティマテス(貴族派)の後押しがあったからである。キケロはその期待にこたえて,元老院で《カティリナ弾劾》の演説を行い,陰謀を未然に鎮圧した。…
※「カティリナ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」