アメリカの対外政策の伝統的基本原則。西半球におけるヨーロッパ諸国の勢力拡張に反対する立場,またそれに関連して西半球における自国の優越を主張する立場をいう。1823年にモンロー大統領は,ヨーロッパの神聖同盟諸国がスペインから独立したラテン・アメリカ諸国に干渉して君主政を押しつけ,それらの国々を神聖同盟に結びつけようとしたことに反対し,また西半球においてヨーロッパ諸国が植民地を拡大することへの反対を表明した。当時アメリカにはヨーロッパ諸国による西半球への干渉を阻止する力はなかったが,それにもかかわらず,アメリカの立場を強く表明したのは,海軍力の優勢なイギリスがこれら諸国による干渉に反対していたことを政府当局者が知っていたからである。またアメリカが,たいした軍備をもたないのにモンロー主義への挑戦を受けなかったのは,大西洋の海上権を握っていたイギリスが他国の干渉に反対し,自らは西半球での政治的支配拡大の意図がなかったからである。
その後,アメリカ政府は西半球の問題に関して,しばしば〈モンロー大統領の主義〉を拡大解釈して自国の政策を正当化した。活発な領土拡張政策がとられた1840年代には,ポーク大統領はメキシコとの戦争に先立って,イギリス,フランスがカリフォルニア併合を妨げる工作を行うことを警戒し,モンロー主義を援用して,ヨーロッパ諸国はカリフォルニア問題に干渉する権利はないと主張した。19世紀末には,アメリカはモンロー主義を西半球における自国の政治的優越の主張のために用いるようになった。1895年にオルニーRichard Olney国務長官は,ベネズエラとイギリスとの紛争に際して,アメリカはモンロー主義により西半球の事実上の主権者であると述べて,この紛争についてアメリカの調停に応じるよう要求した。
また20世紀初め,セオドア・ローズベルト大統領は,カリブ海地域の小国がヨーロッパの債権国の干渉を招くおそれがあったため,モンロー主義の名において,ヨーロッパ諸国による干渉に反対し,西半球で国際的に迷惑を及ぼす国がある場合はアメリカにのみ干渉権があると主張した。
アメリカは,モンロー主義の名の下に西半球における覇権を主張する一方で,1889年の第1回汎米会議以来,パン・アメリカ主義を旗印として,ラテン・アメリカ諸国との関係を親密にする政策をとった。しかしカリブ海地域での干渉政策とモンロー主義による干渉の正当化は,しだいにラテン・アメリカ諸国の強い反発にあった。アメリカは1930年にはモンロー主義による干渉権を否定し,33年には米州諸国間の相互不干渉の原則を承認した。第2次大戦から戦後にかけて,アメリカは西半球防衛のためのラテン・アメリカ諸国との協力体制の形成に努め,米州外の国からの米州諸国に対する脅威に共同で対処することを提唱した。48年の米州機構は,大戦中からの協力関係を機構化したものである。こうした協力体制は,モンロー主義を汎米化したものといわれた。
→カリブ海政策 →孤立主義
執筆者:有賀 貞
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アメリカ合衆国の基本的外交方針の一つ。新世界をヨーロッパから区別し、両者の距離を保とうとする姿勢は、すでにアメリカ独立革命のころからみられたが、1823年に第5代大統領モンローが初めてこの立場を明確に示した(モンロー宣言)ことから、その外交方針は「モンロー主義」とよばれる。
モンロー宣言は、二つの背景をもっていた。一つには、1821年、ロシアは北緯51度以北の北米太平洋岸地域をロシア領とする布告を発したが、これに対してアメリカ国務長官J・Q・アダムズは、新大陸はもはやヨーロッパの植民の対象とはならないという、植民地主義の否定を表明していた。一方イギリスは、1810年代にスペインから独立したラテンアメリカ諸国へのヨーロッパ列強、とりわけフランスの干渉を恐れ、23年に外相カニングを通して干渉反対の英米共同宣言を提案した。しかし、イギリスへの不信感から合衆国の単独宣言を主張したアダムズの意見が採用され、同年12月2日、大統領モンローは議会への教書で、先の植民地主義の否定を繰り返すとともに、アメリカとヨーロッパの相互不干渉の原則を表明し、ラテンアメリカ諸国へのいかなる干渉も、合衆国に対する非友好的態度とみなすことを宣言。
モンロー主義はその後繰り返し表明され、合衆国の基本的外交原理の一つとして確立されたが、時代の推移とともに拡大解釈されるようになり、とりわけ20世紀に入ると、合衆国のみが新大陸諸国に干渉することを正当化する原理となった。
[竹本友子]
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1823年モンロー大統領は,ヨーロッパ諸国がアメリカ大陸に新たに植民地を持つこと,あるいは古い政治制度を持ち込もうとすることに反対し,一方アメリカはヨーロッパの問題には関与しないと言明した。これはモンロー主義と呼ばれ,アメリカの基本的外交原則となり,アメリカ‐メキシコ戦争の前にはカリフォルニア問題へのヨーロッパの国々の干渉を排除する根拠として,また19世紀末から20世紀初頭には国内秩序を維持できない西半球諸国へのアメリカの干渉権を主張する論拠として引き合いに出された。
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…17年からモンロー大統領の下で国務長官をつとめ,18年のA.ジャクソンのフロリダ侵入を弁護し,19年フロリダ併合とオレゴン地方の英米共同管理協定に手腕をふるった。折からのラテン・アメリカ諸国の独立に際し,ヨーロッパ列強の干渉に反対する立場を明らかにするようモンローに進言し,イギリス外相カニングの共同宣言の提案を退けて合衆国が単独でモンロー主義を宣言するうえで大きな役割を果たした。24年の大統領選挙では一般投票では2位だったが,下院の決選投票でH.クレーの票をえて当選した。…
…【岩島 久夫】
【外交】
[歴史的概観]
アメリカは,東に大西洋があり西に広い西部があるという地理的条件に恵まれ,独立からしばらくの時期を除けば,19世紀末に至るまで,軍事や外交に心を労することなしに,国の安全を確保し,領土の拡張を達成することができた。この間,ヨーロッパの紛争にかかわりあうことを避ける(孤立政策)とともに,また西半球をヨーロッパ中心の国際関係から独立させること(モンロー主義)をねらった。19世紀末になると,アメリカはヨーロッパ諸国に対して,モンロー主義の名において西半球における政治的優越を主張するようになった。…
…ウィーン会議以後,フランス革命前の状態への復帰を狙ったメッテルニヒらは独立運動の抑圧をはかったが,この地域を事実上の植民地(〈非公式帝国〉ないし〈自由貿易帝国〉とよばれる)にすることを望んでいたイギリスはこれを支持せず,一方,合衆国はいわゆる〈モンロー宣言〉(1823。モンロー主義)を発して,西半球に対するヨーロッパの干渉を拒否した。このような国際環境に恵まれて,中・南米各植民地はS.ボリーバルらの指導のもとに次々と独立を達成した。…
…アレウト列島,アラスカを領有したロシアは,1799年に国策会社である露米会社を設立,主としてオットセイ捕獲のため1812年サンフランシスコ北方に大規模な基地を建設しはじめた。こうしたロシアの太平洋岸進出が,モンロー主義宣言(1823)の一つの背景となっている。その後オットセイの減少などとともに,同基地は41年アメリカ人開拓者J.A.サッターに売り払われた。…
※「モンロー主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
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