メッツォジョルノ(英語表記)Mezzogiorno

改訂新版 世界大百科事典 「メッツォジョルノ」の意味・わかりやすい解説

メッツォジョルノ
Mezzogiorno

イタリア語で〈正午〉〈南〉の意であるが,固有名詞として〈イタリア南部〉を表し,ここではその意味である。正しくはメッゾジョルノ。北部,中部に対してイタリアで南部という場合,地域的にはアブルッツィ,モリーゼカンパニア,プーリア(旧アプリア),バジリカータ(旧ルカニア),カラブリアの諸州がそれに当たり,おおよそローマより南方の半島部を指す(広い意味ではシチリアとサルデーニャ両島を加えることもある)。歴史的には,旧教会国家の一部とナポリ王国がこの範囲に相当する。

 ほぼ全域がアペニノ山脈南端の山並みにおおわれ,重畳たる起伏の続く地形をなしている。起伏はしばしば激しく切り裂かれて断絶し,山間の盆地と渓谷をつくり出している。夏は高温乾燥,冬に降雨のある地中海式気候であり,山肌は露出して岩石まじりの不毛の地が多い。平野部の面積は狭く,海岸線に沿ってわずかにみられるにすぎない。沿岸平地部ではオリーブ,ブドウ,かんきつ類など果樹栽培による集約農業が特徴であるが,内陸部では大土地所有制(ラティフォンド)のもとで粗放的な穀作と牧羊が営まれてきた。

内陸部ではいわゆるアグロ・タウンagro-townと呼ばれる集中居住形態がとられ,通常は小高い丘の上に一村の住民全員が集中して住んでいる。教会,村役場,広場を中心にしてそのまわりに有力者の邸宅が建ち並び,さらにそれに連なって商店,農民家屋がひしめいており,全体として町の雰囲気を呈している。こうした居住形態がとられることにはいくつかの理由があげられている。まず自然的条件として,低地におけるマラリアの発生と飲料水の供給困難が居住地を制限していることがある。また社会的条件として,山賊や野盗など治安への不安が散居形態を不向きにしているということがある。さらにそれより大きな問題として,大土地所有制のもとで農民は村のあちこちに分散して小地片を有しているにすぎず,たいていは借地しており,また季節的に大農場での労働を余儀なくされている。借地は普通1~2年単位の短期契約のため,自分の耕作地は一定せず,したがって農地の近くに定住することがそもそも難しいという事情がでてくる。こうした理由のうち,マラリア,飲料水,治安の問題は大幅に改善されて,しばらく前から決定的な条件ではなくなっている。また土地所有の問題も第2次大戦後の土地改革で多少とも改善されて,だいぶ事情が変わってきている。しかし,それでもなお集中居住形態が基本であるということには,もう一つ文化的条件が関連している。イタリア南部の世界では土地で働くことは社会的地位が下位にあることを示すと考えられ,土地労働に携わらずに都市生活を営むことができれば,それだけ地位が上昇したという価値観がある。この地帯では独立自営農民の伝統を欠いており,土地労働は人格的な隷属と貧困の境遇を表すとみなされていた。他の条件が弱まっても,アグロ・タウンの構造が崩れずに維持されたことには,まさにこうした土地労働に対する否定的な価値観と,都市生活を優位とする文化意識が重要な要因をなしたと考えられている。

 しかし,実際の農民の生活は,アグロ・タウンのもとで都市的生活を営むというより,農地までの遠い道のりを朝早く家を出て夜遅く戻ってくる往復の時間に費されることになる。南イタリアでは女性が農業労働に従事することはめったにないが,これは農地が遠いということより,女性が土地労働をしなければならない家庭はさらにいっそう社会的地位が低いとみなされるからである。毎日遠い道のりを往復する事情は,大農場に雇われて働く場合でも同じで,この点南イタリアの大農経営は,雇農の住居や作業諸施設などを備えたカシーナcascinaと呼ばれる経営基地が農場に設営されているポー平原の大農経営とは性格を異にしている。アグロ・タウンとは別の本来の都市は,南イタリアではあまり発達しなかった。北・中部イタリアでは中世に多数のコムーネ(都市国家)が成立して以来の都市の伝統があるのに比べて,南部では集権的国家が形成され,都市機能はほとんどナポリに集中された。ナポリ以外にもバリ,ブリンディジ,ターラント,サレルノなど古くからの都市があるが,これらはすべて海港都市で,内陸部における都市の発達はきわめて限られたものであった。

 しかし,メッツォジョルノの世界にも,ここ数十年の間に変容の波が押し寄せている。後述するように,政府の南部開発政策に伴い南部開発公庫国家持株会社などの諸機関,事務所がこの地域に増え,そこに勤務する事務員,公務員層も増加した。これと並行して中小商店,中小企業の数も増え,そうした形で中小都市の成長がみられるようになった。一方農村では,かつてのアメリカへ向かう海を越えての移民に代わって,北部工業都市への国内移住が主流となり,また近くの中小都市に職を求める労働人口の動きも盛んとなった。このため地域によっては過疎化現象が起こっており,それに居住集落を丘から低地に移す傾向も生じている。しかし,全般に南部における雇用機会の欠如は深刻で,とくに大学卒の青年失業者層の増大が大きな社会問題となっている。こうした状況は血縁,友人,有力者を介しての縁故関係に頼る慣行を強めており,伝統的な保護・被保護の社会関係(クリエンテリズモclientelismo)が依然として重要な機能を果たしている。政府与党のキリスト教民主党は,国家機関による介入とともに,この縁故による社会関係を基盤としながら南部における政治支配を確立しているといえる。

国家統一以来,イタリア南部は北部との比較で,遅れた,前近代的な地域とみなされ続けた。そうしたなかで,南イタリアを国家と社会の全体的関係のもとで分析し,南部社会の改革の方向を探ろうとする研究者の系譜が生まれた。いわゆる南部主義者と呼ばれる人たちで,彼らは南イタリアの農業経営,行政制度,社会構造,厚生事業,犯罪の性格,移民の実情など多くの問題点を明らかにするのに貢献した。南部主義者の分析はそれぞれに鋭い指摘を含んでいたが,改革の方向については共通して政府の行政政策に期待する善政の立場にたっており,南部社会の内側からの視点に欠けるところがあった。南部主義者の系譜とは別に,クローチェは政治指導層および知識層の文化のなかに南部社会の伝統を求めようとした。そうすることによって,遅れた社会という議論の枠を取り払い,南イタリアの文化を北イタリア,さらにはヨーロッパの文化状況と同じレベルで論ずる方法を打ち出した。

 その後グラムシはクローチェを批判しつつ,知識層の文化とともに民俗文化にも関心を注ぎ,民俗文化のなかに南部民衆の世界観および生活観を読み取ることの重要さを唱えた。一方,1930年代の反ファシズム活動でルカニア州の寒村に流刑となったP.レービは,そのときの経験を《キリストはエボリに止まりぬ》(1945)と題して発表した。レービは南イタリアの農民の間に根を下ろしている呪術的性格の濃い慣行と信仰に最初とまどいながらも,それを遅れの問題としてでなく,日常生活の営みと結びついた固有の文化要素としてとらえ直し,それまでの南部論に欠けていた南部社会の内側からの記録を提出した。民俗文化や民衆の生活観を明らかにする作業は,第2次大戦後に民族学者デ・マルティーノErnesto De Martinoによって深められた。彼は死者葬送の際の泣き女による慟哭儀礼,民衆の間に伝わる通俗的呪術儀礼,それにタランチュラという毒グモにかまれて生じるけいれんを表す激しい舞踏で悪霊払いをするタランティズム儀礼などを取り上げながら,イタリア南部における民衆文化と上層文化の関係のありように検討を加えた。政府の善政に期待を寄せる古典的な南部主義の考えが現在の南部開発をめぐる議論のなかにも受け継がれているとすれば,他方では南部社会の内側に視点をすえて,そこで営まれる生活と文化の固有の姿に注目しようとする動向も強まってきており,南部論は今日もイタリア文化の中心テーマの一つであり続けている。
執筆者:

1861年に政治的統一を達成したイタリアは,1896-1907年には産業革命を経験し,近代国家としての姿容を確立した。しかし,急激な工業発展がみられたのは,地域的にみれば,北部とりわけロンバルディア,ピエモンテ,リグリアなどに限定され,それ以外の多くの地方では,封建的要素を多分に残した農業・土地制度が依然として支配的であった。なかでも南部では,ラティフォンドと呼ばれる粗放的な穀作・牧羊を中心とする伝統的な大土地所有制度が広範に存在し,農業・経済の近代化を大きく制約していた。その結果,北部の著しい工業化と対比して,南部経済の全般的停滞,具体的にいえば南北の経済格差,貧困,移民,さらには山賊,マフィア,南部人に対する差別や偏見などさまざまな問題が顕在化したのである。〈南部問題questione meridionale〉とは,それらの諸問題に対する総称である。

 そうした南部の窮状は,すでに多くの同時代人によって分析されてきた。そして,その検討を通じて南部主義者と呼ばれる一連の研究者・思想家が輩出し,さまざまな解決策が提示された。たとえば,〈ラティフォンドから集約的農民経営への転換〉(P. ビラリ,G.S. ソンニーノ),〈粗放的穀作から果樹栽培への転換〉(G. フォルトゥナート),〈工業の振興〉(F.S. ニッティ),さらに第1次大戦以降では〈北部労働者と南部農民の同盟に基づく南部の伝統的な生産関係の変革〉(A. グラムシ),〈地方自治と小土地所有農民の育成〉(L. ストゥルツォ)などの解決策が主張された。

このような主張にもかかわらず,南部に対する政府の姿勢は,第2次大戦後に至るまで基本的には〈自由放任〉であった。その間,20世紀初頭ナポリで実施された工業地区の創設,ファシズム期の〈総合開発事業〉に象徴的にみられるような粗放的農業の部分的改良などがわずかに行われたにすぎない。

 それでは,南部が抱える問題の深刻さにもかかわらず,〈自由放任〉という基本路線が維持された理由とはいかなるものであろうか。そこには,単純に歴代政府が南部を無視し続けたといっただけではすまされない問題が潜んでいるように思われる。その際想起されるのは,〈北部の工業家と南部の大土地所有者の同盟〉という言葉であろう。それは,1887年前後に成立し,第2次大戦後に至るまでのイタリアの権力構造・経済構造の特徴を端的に表現している。その根底には,南部のラティフォンドは確かに粗放的な農業にはちがいないが,高水準の穀物関税に守られ,膨大な零細農民層を景気変動に対する調節弁として利用できる限りにおいては,強靱ともいえる〈生命力〉を保持していたという事情が存在したのである。それゆえに,北部工業にとっての労働力・資本・農産物の供給地,かつ工業製品の市場として,南部は国民経済のなかで一定の役割を果たすことが可能なのであった。南部にとっての悲劇は,まさに自己の利害がラティフォンディスタと呼ばれる大土地所有者によって代弁されざるをえなかったこと,そして北部を中核として展開するイタリア資本主義の発展にとっても効果的に利用されえたことから引き起こされたといえる。

しかしながら,第2次大戦後に至ると南部の社会・経済のあり方,そして南部問題に対する政府の方針に大きな変化がみられるようになる。〈イタリア経済の奇跡〉と呼ばれた高度成長は,北部工業のめざましい発展を現出させた。そのため,南部の農村から北部(およびアルプスを越えてヨーロッパ)の工業地帯に向けて大量の人口流出が生じた。その結果,労働力的基盤を失ったラティフォンドは大きな危機に見舞われる。EECの成立によって伝統的な形での穀物保護主義の続行が困難になったことも,その存立条件を大きく動揺させた。また,工業部門で生産された農業機械や化学肥料のいっそうの普及は,それに照応した農業経営の合理化と集約化を要請する。そのような条件のもとで,ラティフォンドと資本主義の関係も大きく変化し,前者の存在は今では後者のいっそうの発展にとって足枷となるに至った。かくして,南部に対する政府の基本的姿勢が,〈自由放任〉から〈介入〉へと転換していく背景の一端が形成される。

 南部に対する介入は,すでに1950年の土地改革と南部開発公庫Cassa per il Mezzogiornoの設置によって第一歩を踏み出していた。もっとも,食糧増産や失業対策といった戦後復興とのからみもあって,当初は粗放的農業の改善および道路や鉄道などの公共事業がすべてであった。工業投資に関しては,北部工業家の強い反対もあり,実現しなかった。ところが,キリスト教民主党内での路線修正,混合経済体制の強化,EECの成立,高度成長など50年代後半から60年代前半にかけての政治・経済上の重大変化の過程で,南部開発のあり方にも著しい変化がみられたのである。すなわち,57年以降工業投資の比重がますます高まり,とりわけ国際的競争力の強化という視点から,資本集約的な重化学工業を工業化拠点といわれる特定の地域で育成する政策が重視されるようになった。農業部門についても,特定地域に対して優先的に集中投資を行うという方法が採られた。また,〈国家の経済への介入〉のなかに経済的課題のみならず政治的基盤の拡大の可能性を見いだそうとするキリスト教民主党の新路線のもとで,国家持株会社の拡充がはかられ,さらには南部開発政策においても国家持株会社を積極的に活用する体制が整えられるようになった。すなわち,57年国家持株会社の企業は,新規設備投資の60%,全投資の40%を南部で実現することが義務づけられ,さらに71年にはその比率がそれぞれ80%と60%に引き上げられたのである。

 以上のような介入の結果,従来立遅れの著しかった道路,鉄道,港湾,上下水道,病院,学校など産業と市民的生活にとって不可欠な諸設備が一定水準まで整備された。そして,ターラント,ジェーラ-アウグスタ-ラグーザ,ブリンディジなどには,最新鋭の設備を有する大工業地区が形成された。それゆえ,もはや南部はかつてのように一様な性格をもった後進的貧困地帯とはいえなくなったのである。しかしながら,南部開発政策の恩恵を受けたのは,ごく限られた地域・産業部門にすぎず,導入された近代的大プラントについても〈砂上の楼閣〉という言葉に表現されるように,周辺の地域経済に対する波及効果はきわめて限定的であった。そのため,従来からの南北格差が依然として解消されないばかりか,今度は南部の内部における地域的不均衡が新たに生じてきている。投資対象から排除された多くの地域では,いっそうの経済的衰退と過疎化が進行している。そのうえ,南部開発に関連する諸機関の指導・管理者層による組織の〈私物化〉という現象が顕在化し,投資効率も著しく悪いものになっている。戦後に至るまで南部問題の基本的性格を規定し続けてきたラティフォンドは,実質的意味において今では解体したが,南部問題の実体は,一定の変質を含みつつも,依然として解消されてはいないのである。
イタリア
執筆者:

メッツォジョルノが文学史に登場するのは,ラテン語から派生して,民衆語として各地域でばらばらに発達したイタリア語を,イタリア全土に共通する言語にまで洗練する必要が強く意識されるようになった13世紀初めであった。この時期に神聖ローマ皇帝に即位したフェデリコ(フリードリヒ)2世は,ギリシア語原典をラテン語に翻訳させるなどの文化政策を推進したため,イタリア各地やプロバンス地方からも多くの知識人がその宮廷に集まり,ここにシチリア派と呼ばれる一群の詩人たちが登場した。この詩派の最大の功績は,それまで単なる民衆口語にすぎなかったイタリア語を詩の言葉として洗練したことであり,ダンテは《俗語論》のなかで,彼らをイタリア語による文学の出発点として位置づけている。また,彼らはカンツォーネやソネットという詩型の発達や創始に寄与するとともに,〈愛〉という詩の主題を,心理的に,あるいは知的に深め,内面化する傾向を示した。この点でも,彼らはのちのダンテやペトラルカに連なるイタリア詩の源流に位置していたといえよう。しかしフェデリコ2世の死とともに,シチリア派の詩人たちもその拠点を失い,彼らの遺産はトスカナ地方を中心とする清新体派に受け継がれていく。

 13世紀後半にアンジュー家がナポリ王国の支配者になると,フランスから物語文学の移入をはかり,フェデリコ2世治下の文化的繁栄の復興に努めた。しかし15世紀に入ると,アラゴン王家との間に争いが起き,混乱に巻き込まれた南イタリアは,文化的にも孤立し,ヨーロッパに牧歌物語の流行をもたらしたI.サンナザーロを除いては,目だった活動をする者も現れなかった。

 こうしてスペインの支配下に置かれた南イタリアは過酷な搾取と異端審問に直面する。その思想を異端に問われて焚刑にされたG.ブルーノやユートピアを描くことによって,かえって悲惨な現実を逆照射することになったT.カンパネラが活動したのも,この16世紀末から17世紀にかけての時代だった。経済は停滞し,社会の閉塞状況が強まるなかで,前代の文学を激しく批判し新しい詩の言語と様式の確立を主張して,神話や多彩な暗喩を駆使した作品を発表したのがバロック期を代表する詩人のG.マリーノであった。

 一方,17世紀後半に,デカルトの合理主義思想とガリレイの科学的探究の精神が結びついた形でナポリにもたらされると,新たに形成されつつあった市民層は,教会と世俗権力との結びつきを嫌って,これを受け入れた。この傾向をまっこうから批判したのが,G.ビーコである。彼は,歴史を神々の時代,英雄の時代,人間の時代に分け,それぞれが原始的感覚,詩的想像力,人間的理性に対応しつつ永遠に回帰する,と主張した。こうした彼の考えは,19世紀ロマン主義の文学に大きな影響を与えた。

 19世紀に入ると,国家統一に向かって政治的にも社会的にもさまざまな胎動が繰り返され,それと呼応するかのように多くの優れた文学者が輩出したが,なかでも旺盛な活動を展開した一人がF.デ・サンクティスであった。形式と内容,生活と文化は密接不可分の関係にあるとする彼の批評原理は,クローチェ,さらにはグラムシを介して,現代にも濃い影を落としている。国家統一は成ったものの,その恩恵からも経済的発展からも取り残された南イタリア出身の作家たちの多くは,G.ベルガの影響のもとに,南部の農民たちや最下層の都市住民たちの貧しい悲惨な生活をリアリスティックに描いている。M.セラーオ,C.アルバーロ,R.スコテラーロなどがその代表的な作家である。
イタリア文学
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百科事典マイペディア 「メッツォジョルノ」の意味・わかりやすい解説

メッツォジョルノ

イタリア南部を指す。地域的には,アブルッツォ,モリーゼ,カンパニア,プーリア,バジリカータ,カラブリアの諸州がこれに当たり,おおよそローマより南方の半島部を指す。広い意味ではシチリアとサルデーニャを加えることもある。歴史的には旧教皇領の一部とナポリ王国がこの範囲に相当する。1861年のイタリア統一後,北イタリアでは急激な工業発達がみられたが,南部では伝統的な大土地所有制が農業・経済の近代化を大きく制約していた。第2次大戦後までいわゆる〈北部の工業家と南部の大土地所有者の同盟〉によって,南部は北部工業にとって労働力,資本,農産物の供給地,かつ,工業製品の市場であって,早くから南北の経済格差,貧困,移民,差別,偏見といった〈南部問題〉が顕在化していた。しかし〈イタリア経済の奇跡〉と呼ばれた高度成長の結果,南部では大量の人口流出が生じ,大土地所有制が危機に瀕し,EECの成立で穀物保護政策続行が困難になり,農業機械,化学肥料の普及によって農業経営の合理化,集約化が要請されるようになった。政府は1950年代後半から重化学工業を特定の地域で育成し,農業部門についても特定地域に優先的に集中投資する政策をとり,さらに国家持株会社を活用して集中的な資本投下を図った。このような政府の介入の結果,道路,鉄道,港湾,上下水道,病院,学校などの諸設備が整備され,ターラント,ジェーラ・アウグスタ・ラグーザ,ブリンディジなどに大工業地帯が形成された。しかしながら南部開発政策の恩恵を受けたのは一部の地域,産業部門にしかすぎず,周辺の地域経済に対する波及効果はきわめて限定的であったため,従来からの南北格差は依然として解消されず,南部の内部に新たな不均衡が生じる結果となっている。
→関連項目イタリアカンパニア[州]

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