ケーリー(読み)けーりー(英語表記)Sir George Cayley

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ケーリー」の意味・わかりやすい解説

ケーリー(Arthur Cayley)
けーりー
Arthur Cayley
(1821―1895)

イギリス数学者。アメリカのリッチモンド商人の子として生まれる。ケンブリッジ大学で数学を学び、20歳代の前半には、n次元幾何線形変換や不変式の研究を発表して、当時の数学界の先端を行っていた。ところが1846年に法学院に入り、1850年にロンドンで弁護士を開業、このときの同僚シルベスターであり、イギリスの数学界はこの二人の弁護士によって支えられることになった。線形代数が完成したのは、この弁護士事務所においてであった。とくにケーリーの、1858年の行列論が線形代数の起源とされるし、19世紀幾何学の総合とでもいうべき翌1859年の論文も有名である。この時代がもっとも多産な時代であって、代数や幾何での業績はきわめて多い。1863年、42歳のケーリーは弁護士を辞めてケンブリッジ大学教授となり、結婚した。大数学者としての業績は、むしろそれ以前の弁護士時代にある。一方、シルベスターは、アメリカの新設のジョンズ・ホプキンズ大学教授になっていたが、1881年にはケーリーも招かれて、アメリカ数学界に貢献した。かつては、ドイツ・フランス中心に19世紀数学史が語られがちで、イギリス・アメリカ学派はあまり重視されなかったが、イギリス学派からアメリカ学派につながる線形環の研究は、20世紀代数学の大きな源流であったし、そのうえに現代アメリカ数学がある。

[森 毅]


ケーリー(Sir George Cayley)
けーりー
Sir George Cayley
(1773―1857)

イギリスの航空先覚者。ヨークシャースカーバラに生まれる。近代の固定翼飛行機の基礎を築く着想による模型飛行機をつくっている。揚力、抗力、推力、重量の四つの力による飛行の概念を把握し、主翼に曲面を用い、主翼の上反角で横安定を得、尾翼を安定と操縦に役だてることを考えていた。有人グライダーの実験や飛行船の設計も行い、航空の胎動に1世紀近く進んだ先駆者であったが、富裕な准男爵であったために、在世中は素人(しろうと)の道楽としかみなされなかった。

[佐貫亦男]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ケーリー」の意味・わかりやすい解説

ケーリー
Cayley, Arthur

[生]1821.8.16. リッチモンド
[没]1895.1.26. ケンブリッジ
イギリスの数学者。ケンブリッジ大学のトリニティ・カレッジに学ぶ (1839~42) 。卒業後3年契約でトリニティ・カレッジに勤めたが,その後,職がなかったので,ロンドンのリンカーン法学院に学んで弁護士となる (49) 。 1850年に,彼と同じく数学者にして弁護士の J.J.シルベスターと知合い,共同で数学を研究する。彼の最も有名な業績は,行列の代数を展開したことである。これを彼は n 次元幾何学と結びつけて考えた。特に射影幾何学がすべての幾何学を包含するという考えは,F.クラインエルランゲン目録への道を開いた。そのほか代数不変式論の分野でも重要な業績を残している。彼の数学の論文は 900編以上に及び,全集 14巻にまとめられている。

ケーリー
Cayley, Sir George

[生]1773.12.27. ヨークシャー
[没]1857.12.15. ヨークシャー
イギリスの航空科学者,技術者。固定翼による飛行の原理を解明し,翼の形や推進装置など飛行に必要な諸要素について広範な研究を行ない,飛行技術の基礎理論に関して先駆的な研究を行なった。このことで「航空科学の父」と呼ばれる。 1853年には初めて人の乗るグライダーを飛ばし,これに関連して可動尾翼や上反角などの効果について理論づけを行ない,また,抵抗を減らすために飛行機の各部の形状を流線形にすることの重要性を説いた。教育にも献身し,1839年ロンドンにリージェント・ストリート工科大学を設立。ほかに無限軌道トラクタの発明,干拓事業,鉄道関係の仕事にも活躍した。

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