グレーベ
ぐれーべ
Karl James Peter Graebe
(1841―1927)
ドイツの有機化学者。フランクフルト・アム・マインの富裕な商家に生まれる。ハイデルベルク大学を卒業したのち、コルベに学び、ブンゼンの助手を経て、1865年バイヤーの研究室に入った。1868年、アリザリンを還元してアントラキノンとなし、バイヤーの巧妙な亜鉛末蒸留法を適用してこれからアントラセンを得たことからアリザリンの骨格を明らかにすることができ、これから出発してアリザリンをコールタールから製造することに成功した。その特許申請は1869年6月15日で、イギリスのパーキンより1日早いために勝利を得た。このことによって合成染料の製造がイギリスからドイツに移行し、やがてドイツ染料王国を築く発端になった。1869年グレーベはライプツィヒ大学の私講師となり、翌1870年ケーニヒスベルク大学(現、イマヌエル・カント・バルト連邦大学)教授となり、1878年ジュネーブに移った。引退後は故郷フランクフルトに戻った。なお、ベンゼンの置換体の位置を示す接頭語のオルト、メタ、パラという名称は彼が導入したものである。1920年、名著『有機化学史』Geschichte der organischen Chemieを出版した。
[都築洋次郎]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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グレーベ
グレーベ
Graebe, Carl
ドイツの有機化学者.はじめ工学を学んだが,化学に転じてハイデルベルク大学でR.W.E. Bunsen(ブンゼン)に,マールブルク大学でA.W.H. Kolbe(コルベ)に学んだ.一時,薬品会社に勤めたが,ベルリン大学でJ.F.W.A.von Baeyer(バイヤー)の助手となり,1870年ケーニスベルク大学教授,1878年スイスのジュネーブ大学教授となった.コールタールと染料について研究し,生涯を通じてドイツの染料工業のために尽力した.C.T. Liebermann(リーベルマン)と共同でアリザリンがアントラセン誘導体であることを発見し,その合成法を開発(1868年),芳香族化合物の置換基の位置を示すオルト,メタ,パラの用語を提案した.また,F.A. Kekulé(ケクレ)のベンゼン構造をナフタレンに拡張した.コールタールの成分(フェナントレン,ピレンなど)を広く研究し,H. Caro(カロ)と共同でトリフェニルメタン染料を合成した.
出典 森北出版「化学辞典(第2版)」化学辞典 第2版について 情報
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グレーベ
Karl Graebe
生没年:1841-1927
ドイツの化学者。染料アリザリン合成の成功により,天然染料から合成染料時代への橋わたしをした。フランクフルト・アム・マインに生まれる。1860年よりハイデルベルクのR.W.ブンゼンに学び,講義助手となった。65年よりベルリン工科大学のJ.F.W.vonバイヤーのもとで研究助手,70年ケーニヒスベルク大学の教授,78年ジュネーブ大学教授となり,1906年引退した。1868年K.T.リーバーマンとともに,古代エジプトより知られるアカネの色素アリザリンを石炭タール中の廃物アントラセンから合成した。ほかにキノン類,ナフタレン,フタル酸誘導体研究がある。
執筆者:徳元 琴代
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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Graebe, Carl
[生]1841.2.24. フランクフルトアムマイン
[没]1927.1.19. フランクフルトアムマイン
ドイツの有機化学者。ハイデルベルク大学を卒業後,R.W.ブンゼンの助手をつとめ,さらに,A.W.H.コルベ,A.バイヤーのもとで学んだ。ケーニヒスベルク大学教授 (1870~77) ,ジュネーブ大学教授 (78~1906) 。インジゴを合成したバイヤーのもとで,1868年,C.リーベルマンとともに,コールタールから偶然の助けもかりて,アリザリンの合成法を発見し,ドイツ化学工業の発展に寄与した。芳香族化合物の置換基の位置を示すため,オルト,メタ,パラといった接頭語の使用を提案した。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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グレーベ
ドイツの有機化学者。ブンゼン,コルベ,バイヤーらに学び,1870年ケーニヒスベルク大学教授,1878年ジュネーブ大学教授。キノン,ナフタリン等の縮合環式化合物について研究。1868年バイヤーの下でリーバーマンとともにアリザリンの合成に成功,ドイツ化学工業の興隆に貢献した。
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
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