コルベ(読み)こるべ(英語表記)Maksymilian Kolbe

日本大百科全書(ニッポニカ) 「コルベ」の意味・わかりやすい解説

コルベ(Adolf Wilhelm Hermann Kolbe)
こるべ
Adolf Wilhelm Hermann Kolbe
(1818―1884)

ドイツの化学者。ゲッティンゲン近郊のエリーハウゼン村に、牧師の長子として生まれたが、母アウグステAugusteはゲッティンゲン大学解剖学教授ヘンペルA. F. Hempelの娘であった。1838年コルベはゲッティンゲン大学に入り、ウェーラーに化学を学び、マールブルク大学ブンゼンの助手(1842~1845)、ついでロンドンの鉱山専門学校でプレイフェアLyon Playfair(1819―1898)の助手(~1847)をつとめ、ここで同じく助手をしていたフランクランドと知り合い、1847年秋、彼を伴ってマールブルクに戻った。ブラウンシュワイクの書店で、リービヒ、ウェーラー、ポッゲンドルフ編の『化学辞典』の出版に協力、1851年ブンゼンの後任としてマールブルク大学教授となり、1865年にはライプツィヒ大学教授に就任。

 コルベは有機化合物の合成と構造理論に貢献した。ウェーラーに勧められて始めた二硫化炭素への塩素の作用に関する研究を進め、無機物から初めて酢酸を合成し、1845年論文「接合化合物の知識への寄与」を発表、このなかで彼は、リービヒ、ベルツェリウス流の基(き)の説に基づき、酢酸をシュウ酸とメチルとの「接合化合物」gepaarte Verbindungとみなした。ついでフランクランドとの共同研究により、プロピオン酸、ギ酸、安息香酸もシュウ酸との接合化合物と考えた。彼は基を遊離のものと考え、1849年酢酸の電気分解でメチル基を得たと考えたが、実際に得られたのはエタンであり、やがて遊離基は得られないことがわかった。

 1853年フランクランドが原子の飽和能の概念を提出、コルベは彼に従って接合化合物の考えを捨て、1857年には脂肪酸および芳香族の酸、ならびにアルデヒドケトンを炭酸の誘導体とみなし、1860年にこの考えをまとめた論文を発表、有機構造理論に貢献した。ほかにグリコール酸、乳酸などのヒドロキシ酸アラニンなどのアミノ酸構造に関する研究、サリチル酸合成(1860)などの業績がある。

[山口宙平]


コルベ(Maksymilian Kolbe)
こるべ
Maksymilian Kolbe
(1894―1941)

ポーランドの聖職者。フランシスコ修道会士として、1912~19年にローマのグレゴリア大学で哲学神学を学び、帰国後、22年からクラクフで『聖母の騎士』誌を発刊した。その後アジアでの伝道を志し、30年来日し、長崎に養護施設「聖母の騎士園」を設立し、伝道に努めた。36年カトリック管区会議に出席するため帰国したが、41年にナチス・ドイツ軍に捕らえられて、オシフィエンチムにあるアウシュウィッツ強制収容所に入れられた。同年8月同室者の脱走によって、見せしめの処刑のために選ばれた10人のうちの1人の身代りとなって、餓死の刑で死亡した。1971年にカトリックの福者に、82年には聖人に列せられた。

[安部一郎]

『アントニオ・リチャルディ著、西山達也訳『聖者マキシミリアノ・コルベ』(1982・聖母の騎士社)』『小崎登明著『長崎のコルベ神父』(1983・聖母の騎士社)』『ダイアナ・デュア著、山本浩訳『コルベ神父』(1984・時事通信社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「コルベ」の意味・わかりやすい解説

コルベ
Kolbe, Adolph Wilhelm Hermann

[生]1818.9.27. エリーハウゼン
[没]1884.11.25. ライプチヒ
ドイツの有機化学者。ゲッティンゲン大学の F.ウェーラーのもとで化学を学び,マールブルク大学の R.W.E.ブンゼンの助手 (1842) ,ロンドンで L.プレイフェアの助手 (45) を経て,マールブルク大学教授 (51) 。 1865年ライプチヒに移る。一連の置換反応によって無機物質から有機化合物を合成しうると信じ,43~45年にかけて,実際に二硫化炭素から酢酸の合成に成功。また構造遊離基の概念を発展させ,有機化学構造論に寄与したほか,第二アルコール,第三アルコールの存在を理論的に予言した。さらにコルベ電解を考案し,カルボン酸から炭化水素化合物を合成した。また,二酸化炭素とナトリウムフェノキシドからサリチル酸の生成に成功。 69年からは『実験化学雑誌』 Journal für praktische Chemieの編集責任者としても活躍した。

コルベ
Colbe, Maximilian Maria

[生]1894.1.7. ウージィ近郊
[没]1941.8.14. オシフィエンチム
ポーランド人カトリック司祭,宣教師。 1910年コンベントゥアル会に入り,18年司祭,30年からは宣教師として長崎,東京などで活躍。ローマでの神学修学時代の 11年にみずから創刊した『聖母の騎士』誌の日本語版を刊行。 36年,ポーランドに帰国後も同誌のポーランド語版,その他の出版物の刊行を通じて信仰の興起に努めたが,第2次世界大戦の勃発とともにナチスに捕えられ (1939,41再逮捕) ,オシフィエンチム (アウシュウィッツ) 収容所に移された。同所において餓死刑に定められた囚人の身代りを申出て死んだ。その献身と英雄的犠牲の生涯によって与えた感化は大きく,71年カトリック教会の福者,82年 10月聖人に列せられた。祝日は8月 14日。

コルベ
Kolbe, Georg

[生]1877.4.13. ザクセン,ワルトハイム
[没]1945.11.15. ベルリン
ドイツの彫刻家。画家として出発したが,1898年フランス,ローマを旅行し,ロダンに出会って強い影響を受け彫刻に転じた。 1903年ベルリンに定住。 13年ギリシア,エジプトを旅行。ブロンズ制作を好み,主として激しい動きの人物像を制作したが,出発点となったロダンとは対照的な J.ヒルデブラントの古典主義的作風,マイヨールの作風をも吸収し,節度と優美さを保持した。主要作品は 10点をこえる公共記念碑,『バッハ胸像』 (1903,ライプチヒ美術館) ,『悲嘆』 (21,ニューヨーク近代美術館) ,『アスンタ』 (21,デトロイト美術館) など。

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