改訂新版 世界大百科事典 「ゲルマン部族法」の意味・わかりやすい解説
ゲルマン部族法 (ゲルマンぶぞくほう)
Leges barbarorum
中世初期におけるゲルマン諸部族の法。とくに5世紀後半から9世紀初頭にかけて成立した諸部族法典を指す。卑俗ラテン語で記録され,内容的には贖罪(しよくざい)金(ブーセ)の規定や訴訟法的規定が多い。私法的規定は少数であり,国制,行政法にいたってはほんのわずかである。当該部族民にのみ適用される属人法であった。諸部族法典は,成立の時期と条件を異にする三つのグループに大別される。
第1は,ローマ帝国領内に定住したゲルマン人の法記録。最初は西ゴート人のそれであり,475年ころ,強度にローマ法に依存した内容のエウリック王法典が発布された。後代(とくにレッケスビント王)の西ゴート部族法典は,これを改訂・増補したものである。同じくエウリック王法典を基礎にして,ブルグント部族法典(480-501年グンドバード王の発布)が成立した。ついでフランク人の最古の法記録であるサリカ法典(507-511成立)が,このブルグント部族法典かエウリック王法典を利用して起草された。7世紀に入ると,フランク法の強い影響下にリブアリア法典が制定される。これらの相互に関連する法典群の締めくくりが,643年発布のランゴバルドのロタリ王法典である。
第2は,多くの類似点をもつアレマン人とバイエルン人の部族法典。ともに8世紀の成立で,教会の利害にかかわる多数の規定を含み,その編纂に教会が大きな影響を及ぼしたことが知られる。
第3は,ザクセン人,チューリンゲン人,フリース人の部族法典で,カール大帝が,802-803年のアーヘン帝国議会の機会に記録させたもの。これらは素材収集の段階にとどまり,ほとんどなんらの実際的意義も獲得しなかった。
伝統的見解によれば,諸部族法典は国王の制定した王法(カピトゥラリアなど)に対し,人民の直接参加によって成立する人民法の性質を有し,当該部族民の古来伝統の法意識をたんに成文の形に表現したものとされる。しかしこうした理解は最古の部族法典群(第1グループ)についてさえ疑問がある。法典の編纂には多かれ少なかれ国王の関与(西ゴート,ブルグント諸王はローマ人法律家の助けを借りて)が認められ,その政策的意図を盛り込んだ規定が含まれているのであり,また法典相互間に複雑な系譜関係が存在する。また古代末期のローマ卑俗法の影響も,ゲルマン古法の姿を比較的よく伝えているとされるサリカ法典やロタリ王法典についてさえ明白である。今後,各部族法典についてゲルマン古来のまたは中世初期の慣習法を伝えている規定と,そうでない規定とを慎重に吟味すると同時に,そのような法典が当時の法実務に対していかなる意義を有したのかについても検討してみる必要がある。
→ゲルマン法
執筆者:佐々木 有司
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報