ユダヤ王国のハスモン王朝期(紀元前142~前63)に成立したとみられるユダヤ教の一派。この時代のユダヤ教は王権と祭司権をめぐる抗争と呼応して、パリサイ、サドカイ両派に代表される宗派を生むが、エッセネ派は俗をいとい穢(けがれ)を断って、厳格な規律のもとにひたすら禁欲的な宗教生活に生きる宗派であった。その名称は「敬虔(けいけん)な人」「聖なる者」を意味し、その存在はイエス・キリストと同時代のユダヤ人思想家フィロンや歴史家ヨフスらによって知られていたが、実態は不明であった。ところが1945年、死海近傍のクムラン洞穴中の文書発見に始まる死海写本の発掘調査によって、エッセネ派の共同生活址(し)が出土し、クムラン文書そのものが同派の日常生活での聖書研究と写本作成努力の結果であることがわかった。出土品の「宗規要覧」「会衆規定」などは、厳格な階級制、禁欲主義、財産の共有など同派の規律、日常生活や信仰の実態を明らかにし、『旧約聖書』と『新約聖書』をつなぐ、驚くべき宗団の存在を示している。
[秋輝雄]
イエス時代のユダヤ教の一分派で,その名称は〈敬虔な者たち〉の意とされる。フィロン,ヨセフス,大プリニウスの報告によると修道院に似た共同生活を行い,加入希望者は3年間の試験期間の後,厳粛な誓約により初めて加入を許され,共同体のあらゆる規律の遵守を義務づけられた。結婚と財産私有に関し,これを厳格に禁止する祭司的共同体と,一部分これを認容する,より緩やかな共同体の別があったといわれる。固有な年間暦をもち,日々の生活は祈禱,律法研究,農工作業,祭儀的な沐浴と共同の食事などからなる日課に従って整然と営まれた。4000人ほどの会員がパレスティナ内外の多くの土地に居住していたと伝えられ,1945年死海沿岸で遺構が発見されたクムラン教団はエッセネ派の一部を構成したものと考えられる。バプテスマのヨハネとイエス自身をもエッセネ派=クムラン教団の出身とする仮説があるが,あまり賛同を得ていない。
→クムラン →死海写本
執筆者:大貫 隆
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ユダヤ教の一分派。原意は「敬虔(けいけん)な者たち」で,前1世紀頃パレスチナの荒野に共同生活を営む集団として現れた。禁欲的な祭司群を中心に,誓約して入会を許された者,志願者らからなり,旧約聖書の律法を学び,沐浴(もくよく)し共同食事を行っていた。一時は4000人ほどになり,洗礼者ヨハネはこの群から出たらしい。1945年に死海北西岸のクムランで多数のパピルス文書が発見されたが,エッセネ派に属すると考えられている。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…この共同体は修道院的性格をもった祭司集団で,前130年ころ〈義の教師〉なる人物によってエルサレムの神殿祭儀に反対して創設された。一般にヨセフスその他の古代文献に見えるパリサイ,サドカイと並ぶ第3のユダヤ教団エッセネ派と同一視されている。彼らは独自の律法解釈にもとづく厳格な規律に従って禁欲的共有財産制の共同生活を営んだ。…
…以上は死海写本によって初めて世に知られた文書であるが,安息日戒律を説き〈義の教師〉に言及する《ダマスコ文書》(CD,4QD)は20世紀初頭すでにカイロで発見されている。
[意義]
〈クムラン文書〉を蔵していた共同体がユダヤ教エッセネ派に属するという,発見当時の仮説は,その後の証拠により着々と裏付けられ,この世を光(真実の霊)と闇(虚偽の霊)との戦いの場とし,終末における光の勝利を確信し,厳格な戒めを守りつつメシアの到来を待ち望むという彼らの生活態度は,洗礼・聖餐という典礼とともに原始キリスト教会に引き継がれたと想定することもできる。一方,死海写本は旧約聖書本文の歴史や当時のヘブライ語・アラム語の解明のため,新しい光を投じたものであることは言うまでもない。…
※「エッセネ派」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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