改訂新版 世界大百科事典 「コミューン都市」の意味・わかりやすい解説
コミューン都市 (コミューンとし)
villes de commune
主として北フランスに分布し,住民が結成した〈コミューン〉という宣誓共同体の運動の結果,領主・国王から〈コミューン証書〉を付与されて種々の特権を享受し,かつ住民により選挙された市政官の団体によって運営される都市をいう。コンシュラconsulat都市およびフランシーズfranchise都市と並ぶフランス中世都市の一類型。コンシュラ都市は南部に分布し,市政官コンシュルの団体(コンシュラ。市民のほか聖職者,領主も参加する点が特色)により運営される都市で,〈コンシュラ証書〉を付与され特権を享受する。フランシーズ都市は中部の王領に分布し,〈フランシーズ(特権)証書〉を付与され特権を享受するが,国王代官プレボprévôtにより統治される(プレボ都市ともいう)。
1070年にル・マン市で最初のコミューンが結成された後,その運動は北フランス一帯に広がり,フィリップ2世の治世(1180-1223)に頂点に達した。コミューン運動の目的は“平和”の獲得であった。この“平和”とは,領主層による暴力・略奪,恣意(しい)的な苛斂誅求(かれんちゆうきゆう),さらには住民間の暴力的対立・復讐等という混乱と暴力が支配した封建社会の中で弱者である住民の保護・安全の確保を意味した。“平和”を求める運動は農民を含めて広範な民衆の強い要求に支えられて,都市や農村で多様な形態で展開された。〈神の平和運動〉やコミューン運動がその代表的なものである。“平和”の保障のため宣誓(違反者は破門),民衆軍の結成,慣習法の成文化等がおこなわれた。この成文慣習法が前述の証書類の主たる内容をなす。これにより支配(領主)層の〈働く人(市民・農民)〉に対する従来の恣意的・暴力的関係は,成文慣習法を媒介とする関係(負担の法定等々)に移行した。これは働く人のあり方の新たな段階といえる。王権はコミューンに対してはじめは積極的には関与しなかったが,フィリップ2世はそれを承認し,積極的に支持しかつその結成を促進した。これは彼が諸侯抑圧,対イギリス政策のため,それを実力的基礎としようとしたためである。具体的には彼はコミューン都市を封建家臣と同列に扱い,軍役,金銭援助,誠実宣誓等の義務を要求した。このように封建的権力秩序の中に位置づけられ,したがって“封建的性格”をもつコミューン都市を〈集団領主〉という。
13世紀後半からコミューン都市は衰退しはじめる。すなわち,王権伸長の結果,秩序は王権によって保障されたから,“平和”運動の切実な必要性がなくなるだけでなく,王権によるコミューン都市の重視もなくなり,市政は寡頭支配層の金権政治による腐敗,財政状態の悪化,住民負担の増大などによって民心をはなれ,専門法律家の進出とともに法人論によって形式面が重視されるに至るといった諸事情が重なって,コミューンは14世紀いっぱいで形骸化ないし消滅する。形骸化しつつも残存したものは,最終的には1789年8月11日の封建制廃棄の勅令によって廃止された。
執筆者:高橋 清徳
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報