ユーゴスラビア共産主義者同盟(読み)ゆーごすらびあきょうさんしゅぎしゃどうめい

日本大百科全書(ニッポニカ) の解説

ユーゴスラビア共産主義者同盟
ゆーごすらびあきょうさんしゅぎしゃどうめい

1919年、社会主義労働者党コムニスト)として創立され、翌1920年、コミンテルンに加盟して共産党改称。1921年以来非合法下に置かれ、当局弾圧と分派抗争のため弱体化したが、1937年、ヨシプ・ブロズ・チトーが書記長に就任して党組織を再建した。第二次世界大戦中は、ユーゴ民族の「友愛団結」の旗のもとにファシズム占領軍に対する全国民的抵抗を組織しえた唯一の政治勢力として人民解放戦争を勝利に導き、社会主義革命を成功させた。1948年、スターリンの大国主義的干渉を拒否してコミンフォルムから追放されたが、軍事的圧力と経済封鎖に耐えて国の独立を守り、第6回大会(1952)で党名を共産主義者同盟に改め、国家権力との癒着を断って労働者階級のイデオロギー的・政治的指導勢力として自主管理社会主義の建設を目ざすことになった。1958年の第7回大会で採択された綱領は、国家主義的社会主義を批判し、社会主義への道の多様性、平和的体制移行の可能性、社会民主主義を含む広範な社会主義勢力との協力を主張して、国際共産主義運動の一部から「修正主義」との非難を浴びた。規約上、民主集中制に基づき、4年ごとに開かれる大会を最高決定機関とする単一の組織とされるが、現実には1974年憲法のもとで連邦の分権化が進み、それに対応して共和国・自治州組織の比重が高まっていった。1980年チトー議長の死後は、中央委幹部会による集団指導体制をとり、ユーゴスラビア人民軍とともに、連邦の統合要因としての役割が期待されたが、1990年1月、第14回臨時大会で、独自の脱社会主義の道を模索するスロベニア党代表団の退場により分裂。その後、複数政党制の導入にともなって各共和国で実施された自由選挙では、共和国組織の承継政党がそれぞれ名称を改めて闘った。その結果、セルビア社会党とモンテネグロ社会主義者民主党以外はいずれも民族(主義)政党に敗れ、連邦解体、内戦への動きが加速されることになった。

[山崎 洋]

『E・カルデリ著、山崎洋訳『自主管理と民主主義』(1981・大月書店)』『柴宣弘著『ユーゴスラヴィア現代史』(1996・岩波新書)』

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百科事典マイペディア の解説

ユーゴスラビア共産主義者同盟【ユーゴスラビアきょうさんしゅぎしゃどうめい】

1919年ユーゴスラビア社会主義労働者党として創立,1920年共産党に改称。1920年代末,非合法化。第2次大戦中に解放戦争を指導,戦後に政権を掌握。1948年ソビエト連邦共産党と対立,民族主義的偏向を理由にコミンフォルムを除名され,以後独自の道を歩み,1952年ユーゴスラビア共産主義者同盟と改称。1937年―1980年チトーが党を指導,その死後は集団指導体制をとった。1990年の臨時党大会で,ユーゴを構成する各共和国の共産主義者同盟間の対立が激化し,党は分裂解体した。

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