正式には「ソビエト連邦共産党」(Коммунистическая Партия Советского Союза/Kommunisticheskaya Partiya Sovetskogo Soyuza)という。ソ連の支配政党(1917年から1991年まで)。
[稲子恒夫]
1898年にロシア社会民主労働党として創立され、1903年にレーニンが指導する同党左派が指導部で一時多数派(ボリシェビキ)であったので、ロシア社会民主労働党(ボリシェビキ)と名乗り、12年に独立の政党になる。18年にロシア共産党(ボリシェビキ)、25年に全連邦共産党(ボリシェビキ)、52年にソビエト連邦共産党(ソ連共産党)となる。
[稲子恒夫]
同党は1917年の十月革命(ロシア革命)で権力を握り、社会主義政権を樹立した。革命直後の選挙での同党の得票率は24%であった。同党以外の政党は反革命政党として次々に非合法となり、22年に共産党だけの一党制が確立。しかし、同党が確立したプロレタリアート独裁は、実は共産党中央委員会の独裁であり、正確には少人数の政治局による寡頭支配であった。
1924年のレーニンの死の直前から、指導部のなかに対立が起き、党の実務の責任者である書記長スターリンが独裁者として権力を掌握し、この年スターリンを「偉大な指導者」とする個人崇拝が確立された。共産党はスターリンの指導のもとに、1920年代末から30年代初めにソビエト連邦を一挙に工業国に変え、農民をコルホーズ(集団農場)に加入させて穀物の大増産を図る路線を強行したが、飢饉(ききん)による大量の餓死者の発生という結果に終わった。この時期に「人民の敵」を収容所に入れて、僻地(へきち)開発の過酷な労働に従事させる体制がつくられた。30年代なかばからスターリンは、自分に反対した者、反対する疑いのある者への弾圧を始め、古い党幹部をはじめとする多数の党員を「人民の敵」として銃殺の刑に処した。そのために生じた党幹部の空席は、革命後に入党し、スターリンにより育てられた者で埋められた。34年党大会での中央委員会選挙では、スターリンへの反対票が4分の1にも上った。52年には党名を「ソビエト連邦共産党」に変更し、中央委員会の政治局を幹部会に、書記長を第一書記に改称した。
1953年のスターリンの死後、第一書記になったフルシチョフは多数の者を収容所から釈放し、弾圧の犠牲者の名誉を回復した。56年の第20回大会はスターリンを批判して、「個人崇拝の否定的結果の克服」と「党内民主主義」の強化を決議した。61年の第22回大会は共産主義の全面的建設を課題とする党綱領を採択した。しかし、党の民主化のために幹部の任期を制限し、彼らの特権も制限しようとしたことでフルシチョフは64年に解任され、後任にはブレジネフが選ばれた。フルシチョフによる党綱領の課題は時期尚早であるとして棚上げされ、66年の第23回大会は中央委員会政治局と書記長の名称を復活させた。スターリン批判が停止され、政治局員の入れ替えがほとんどないために、指導部は高齢化してすべてに保守的となった。官僚の人事異動が少なく、そのため停滞と腐敗が進行し、党外から現状を批判する者は弾圧されたが、改革が必要であると考える者は党内に増えていった。82年のブレジネフの死後、アンドロポフ、チェルネンコの両書記長は改革への軌道転換を用意したが、彼らの指導は短期間に終わった。
1985年に書記長になったゴルバチョフは、停滞打破のために、政治と経済のペレストロイカ(建て直し)の政策を掲げ、党内のペレストロイカも訴えた。党内改革派の要求で90年にソビエト共産党は複数政党制を認め、権力の独占を放棄した。しかし、党の改革が不徹底であるとする党員の脱退が続き、党の解体が始まった。ペレストロイカ反対の保守派(連邦維持派)は、91年8月にクーデター(八月クーデター)を起こして失敗。その直後にゴルバチョフが党の解散を勧告し、ロシアで共産党の組織が禁止された。この措置によってソビエト共産党は長い歴史に幕を閉じたのである。なお、92年に結社の自由が認められた後は、ジュガーノフらによるロシア共産党をはじめとする共産党グループがつくられている。
[稲子恒夫]
ソビエト共産党は民主的中央集中(民主集中制)という組織原則をとっていた。これによると、党の最高機関は地方の党組織が選挙した代議員からなる党大会であり、大会が選挙した中央委員会が次の大会までの最高機関である。中央委員会総会が選挙した政治局(一時幹部会とよばれた)が、次の総会まで党の意思を決定する。すべての党機関は多数決で決定する。地方の党組織と党員は中央の決定を無条件に実行する義務を負う。
この決定は形式的には民主的だが、党の運営を中央委員会の政治局と書記局に委ね、政治局員を兼ねる者に権力を集中させた。中央委員会には、党の政策を策定してその実施を指導する部局が多数つくられ、1990年代初めには数千人が党中央委員会に勤めていた。このような党の実態は秘密とされ、党員が党中央を批判することは許されなかった。90年の党綱領は党の組織原則として民主的統一を定め、党員が党の政策を自由に議論する権利を認めたが、これによる党の再生以前にソビエト共産党は崩壊した。
[稲子恒夫]
ブレジネフ時代のソビエト連邦憲法には、ソビエト共産党は国家と各種団体を指導すると記されていた。党による指導という名目での党による支配の実態は以下のとおりである。第一に、共産党は国家の上位に君臨する存在であり、その中央委員会、とくに政治局の決定がソ連の最高規範であったが、重要な決定で極秘とされたものが多く、これらはソ連崩壊後に公表された。第二に、憲法その他の法令や各種団体の規約に違反して、中央、地方の党委員会が秘密の職名表(ノーメンクラツーラ)により、中央、地方の議員、国家機関、国有企業、コルホーズ、大学、研究所、劇場、労働組合などの幹部を秘密に決めていた。第三に、どの国家機関、企業、施設、団体にも専用の部屋をもつ党委員会または党ビューローがつくられ、その責任者は機関などのナンバー2の地位をもち、その給与と党委員会またはビューローの事務経費は、国家機関などの予算でまかなわれた。これにより共産党は、国家機関や民間組織を内部から支配することが可能であった。第四に、中央、地方の党委員会は国家機関、施設、団体に直接に指令を出し、裁判所にも判決を指示していたが、このことも国家の秘密とされていた。
この仕組みはレーニン時代に生まれたものだが、ペレストロイカの進行のなかでしだいに明らかにされ、1989年に党がもつ人事権は廃止された。91年7月には政党が官庁や企業のなかで活動することが禁止され、党委員会による秘密の指令もグラスノスチ(情報公開)と複数政党制の導入のため機能しなくなった。
[稲子恒夫]
ソビエト共産党は党の財政を一度も公表しなかったが、ソビエト連邦崩壊後にその実態が明らかになった。党財政で党員が収める党費が占める比率はわずかであり、党が使う建物も党幹部の人件費、住宅、別荘も国費でまかなわれ、最高幹部の家事使用人は国家保安委員会(KGB)より派遣されていた。党が経営する出版社は国有だったが、ソ連末期に所有名義が共産党にかえられた。しかし、1991年のクーデター後、ソビエト共産党の全財産は国有化された。また、ソビエト共産党は政権獲得後から、国が保有する外貨を使って同党が影響力をもつ国際組織と各国共産党に多額の資金援助を行ってきたことも判明した。
[稲子恒夫]
ソビエト共産党が70年も権力を維持できた一つの要因は、同党が社会主義、共産主義という崇高な理想の実現を課題として掲げたことにある。十月革命の直後、レーニンは私有財産と搾取をなくした後、国家の計画によって経済を発展させれば、短い期間に社会の富が国民の間に無料で平等に分配される共産主義が実現すると説いた。スターリンは1946年に、ソ連は十数年で共産主義に移行すると宣言し、フルシチョフは80年に、ソ連は共産主義の初期の段階に入ると言い、ブレジネフは「発達した社会主義」から共産主義の初期へ移行しつつあると主張した。このような目標は共産党員に希望を与え、とくに党の政策の扇動宣伝にあたる党員は自らの仕事に誇りをもっていたため、党の示す理想を信じていた。
しかし、ソ連の現実は「発達した社会主義」の理念とは異なっていた。ゴルバチョフ時代にソビエト共産党は「共産主義への移行」を掲げることをやめ、1990年の党綱領は「人間的な社会主義」の実現を目標に掲げた。しかし、経済の後退と深刻な物不足は国民の間に社会主義への不信感を生み、ソビエト共産党の崩壊とともに、ロシアでは国家の公的な理念としての社会主義は消失した。
[稲子恒夫]
『P・パラシチェンコ著、浜田徹訳『ソ連邦の崩壊』(1999・三一書房)』▽『ソ連邦共産党史翻訳委員会訳『ソ連邦共産党史』(大月書店・国民文庫)』
「歓喜の歌」の合唱で知られ、聴力をほぼ失ったベートーベンが晩年に完成させた最後の交響曲。第4楽章にある合唱は人生の苦悩と喜び、全人類の兄弟愛をたたえたシラーの詩が基で欧州連合(EU)の歌にも指定され...
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