改訂新版 世界大百科事典 「ポーランド統一労働者党」の意味・わかりやすい解説
ポーランド統一労働者党 (ポーランドとういつろうどうしゃとう)
Polska Zjednoczona Partia Robotnicza
第2次大戦後のポーランド社会主義期の支配政党。略称PZPR。前身はポーランド共産党である。1918年ポーランド王国・リトアニア社会民主党とポーランド社会党左派が合同してポーランド共産主義労働者党となり,25年ポーランド共産党と改称した。両大戦間期は極端な左翼主義と親ソ傾向のため孤立し,弱体な非合法政党にとどまった。38年コミンテルンの指令により解散し,ソ連に亡命していた重要幹部はほとんど粛清された。42年生残り幹部を中心にポーランド労働者党として再建され,ナチス占領下の国内で抵抗運動を行った(1943年10月以降,書記長ゴムルカ)。44年からソ連軍によって解放された地域の政権党として登場し,48年ポーランド社会党と合同,現在の党名を名のった。同年後半からゴムルカその他の国内派指導者を右翼民族主義者として追放し,スターリン主義的一枚岩政党として事実上の単一政党支配を確立した。56年のポズナン暴動に際して指導部を更迭し,ゴムルカを復帰させて自由化を実施した。50年代末から再び硬直化し,68年の三月事件,70年の十二月事件を招いた。70年にゴムルカの後を襲ったギエレクは外資に依存した積極的経済政策をとり,その成功によって党勢を拡大した(1980年7月党員数330万)が,後半に矛盾が表面化し,76年6月,80年8月の労働不安を招いた。80年にギエレクの後を継いだカニアStanisław Kania(1927- )は〈連帯〉運動によく対処できず,81年10月職業軍人のヤルゼルスキWojciech Jaruzelski(1923- )と交替した。1980年代にはしだいに保守派が排除され,改革志向を強めたが,党勢を回復することはできず,党員数が230万に減少した。89年6月,初の自由選挙に臨んだが敗北し,政権を明け渡した。90年1月,ポーランド共和国社会民主党と名を改めた(党首クワシニェフスキ)。91年10月の国会選挙では民主左翼同盟の名で第2位,93年9月選挙では第1位,97年9月選挙では民主左翼連合の名で第2位となり,〈連帯〉系に敗れた。
執筆者:伊東 孝之
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報