ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「コンスタンチヌス1世」の意味・わかりやすい解説
コンスタンチヌス1世(大帝)
コンスタンチヌスいっせい[たいてい]
Constantinus I; Flavius Claudius
[没]337.5.22. ニコメディア近郊アンキロナ
ローマ皇帝 (在位 324~337) 。帝国の再建者。ローマ皇帝として最初にキリスト者になったとされる。コンスタンチウス1世とその最初の妻ヘレナの長男。父が西ローマの正帝として 306年没したとき,軍隊によって正帝に推戴されたので,東ローマの正帝ガレリウスはやむなく彼を副帝として承認した。 312年イタリアの M.マクセンチウスに向ってガリアより進軍し,テベレ川のミルウィウス橋の戦いで決定的な勝利を収め,ローマに入城した。この戦いに先立ちコンスタンチヌスと彼の軍隊は白昼,天に輝く十字架の幻影と「これにて勝て」との文字を見て,兵士たちの楯にキリストを表わすギリシア文字の組合せ「キー・ロー」を描かせたが,この標識はのちにラバルムと呼ばれる帝国の軍旗に取入れられた。同年元老院によって先任正帝として承認され,翌 313年リキニウス帝とメディオラヌム (現ミラノ) で会見し,信教の自由,迫害されてきたキリスト者の復権を宣言した (いわゆる「ミラノ勅令」) 。コンスタンチヌスはこの政策をさらに推進し,教会に惜しみなく寄進し,聖職者を免罪にした。まもなくリキニウスは異教に転じ,キリスト者の迫害を始めたのに対し,コンスタンチヌスはラバルムを掲げて戦い,324年リキニウスを破り,翌年彼を処刑,ついに帝国の独裁皇帝となった。この勝利の直後からビザンチウムの再建に着手し,330年コンスタンチノープルと改名された新都を神に奉献した。この新都の建設に巨富を費やし,これを飾るために多くの異教の神殿から彫像や列柱を奪った。これに先立ちキリスト教会内の教理論争を解決するため,325年ビチュニアのニカイアに教会の総会議を開き,みずから司会し,「父なる神」と「子なるキリスト」を同一実体とする重要な定式を提案,これを拒否したアリウスとその同調者を追放した。内政上では軍制を改革し,皇帝護衛隊を大野戦軍 (コミタテンセス) に編制した。これにより近衛長官は軍事的職能を失い,ディオクレチアヌス帝が着手した文武の官職の分離が完成した。膨大な官僚と軍隊の給与,オリエント的宮廷組織と儀礼,壮麗な建築などによる経費の増大は増税を促し,元老院議員身分に地租,デクリオ身分に王冠税,商人身分に取引税が課せられ,またコロヌスの土地緊縛を明記した勅令 (332) も発布された。しかし彼の鋳造した金貨は数世紀間,本位貨幣として安定流通した。有能な将軍であったが,賢帝としての資質を欠き,浪費癖と気まぐれ,追従的な性格をもち,「大帝」の称号を受けるに値しない人物とされる。臨終の床で洗礼を受けた。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報