サンヘドリン
Sanhedrin
ローマ時代,ユダヤ人の司法・行政・宗務をつかさどった最高自治機関。〈最高法院〉〈議会〉などと訳される。その名称はギリシア語synedrionのヘブライ語形による。おそらくペルシア時代の〈大議会〉,ヘレニズム時代の〈長老会議(ゲルシア)〉にさかのぼるが,資料間の不一致が著しく,起源も含めてなお不明の点が多い。サンヘドリンは議長(大祭司)の下に70人の議員(終身?)から成る。それは,サドカイ派を代表する貴族祭司(祭司長たち)と長老,パリサイ派を代表する律法学者によって構成され,民衆の支持を背景に,後者の勢力がしだいに増大した。サンヘドリンは,律法の解釈について討議し,暦日(新月)を決定・公布(これは全ディアスポラのユダヤ人を拘束した),警察力を持ち,ユダヤ法に基づいて裁判を行った。しかしとくに死刑を含む重要な裁判は,ローマ人総督の指導・監督を受ける場合もあった。以上述べたエルサレムの大サンヘドリン(おそらくエルサレム市議会も兼ねた)のほか,各地に小サンヘドリンがあった。さらに,大サンヘドリンが,機能・役割によっていくつかのサンヘドリンに分かれていたとする説もある。
執筆者:土岐 健治
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サンヘドリン
Sanhedrin
古代パレスチナの最高審議議決機関。その起源は定かではないが,ローマ時代にはエルサレムの神殿内におかれていた。その権限や構成については,ギリシア語資料 (新約聖書) とヘブライ語資料 (タルムード伝承) のいずれに依拠するかによって説が分れているが,宗教問題を扱う部門と政治問題を扱う部門とに分れていたとする説が有力とされている。またエルサレムには大サンヘドリン,地方ごとに小サンヘドリンがあったともいわれている。 70年の神殿崩壊後は,パレスチナ各地を転々としたのち,200年頃からは,テオドシウス帝によって祭司政治が廃絶されるまで,ティベリアにおかれ,ローマ帝国内のユダヤ人の政治的,宗教的生活の中心となった。ナポレオン1世の時代,フランスのユダヤ人の間で一時再興されたが消滅。また現在のイスラエルの一部にも再興の運動がある。
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サンヘドリン
さんへどりん
Sanhedrin
ローマ統治時代、エルサレムにあったユダヤ人の最高自治機関。最高評議会、最高法院などと訳される。構成員は71人で、おもに祭司とパリサイ派の律法学者などからなる。律法の解釈によってユダヤ人の宗教生活全体を規定し、さらに宗教共同体の徴税と裁判を担当した。ユダヤ法に基づくサンヘドリンの裁判が死刑の判決を下せたかどうかは論争のある問題であるが、ローマから派遣された属州総督の同意があれば、それも可能であった。イエス・キリストもそのようにして死刑の判決を下された。サンヘドリンは紀元70年のエルサレム陥落後解体し、その機能の一部は地方に残った。なお、エルサレム以外に存在したサンヘドリンは小サンヘドリンとよばれる。
[森安達也]
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世界大百科事典(旧版)内のサンヘドリンの言及
【ユダヤ教】より
…[パリサイ派]律法学者たちは,シナゴーグを活動の本拠としていたため,神殿の破壊から本質的な打撃を被らなかった。彼らは海岸地方のヤブネに集まり,それまで神殿にあった[サンヘドリン](議会)を再興して,律法と律法解釈に基づくユダヤ人共同体の形成・維持を続行した。第2反乱(132‐135)によってヤブネが破壊されると,ユダヤ人共同体の中心はガリラヤに移り,5世紀初頭に,キリスト教を国教とするローマ帝国の弾圧によってユダヤ総主教職が廃止されるまで続いた。…
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