デジタル大辞泉
「ザモシチ」の意味・読み・例文・類語
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ザモシチ
Zamość
ポーランド東部,ルベルスキェ県の都市。 1580年ポーランド軍総司令官ヤン・ザモイスキ (1542~1605) が居を構えた町。イタリアのパドバから招かれた建築家ベルナルド・モランドの設計により,市街全体がルネサンス様式で建設された。 1772年の第1次ポーランド分割後オーストリア占領下に入り,行政,文教の中心地。 1821年以後はロシア領ポーランドとなる。第2次世界大戦中,ドイツ軍の激しい迫害を受け,この一帯のポーランド人 10万人が強制移住させられ,8000人が円形建物の中で虐殺された。 1975年からは古い市街の再建が進められた。モランド設計の聖堂 (1593~1628) ,17世紀初頭の市庁舎などがある旧市街は,1992年世界遺産の文化遺産に登録。人口6万 7160 (2002) 。
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
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ザモシチ
Zamość
ポーランド南東部,同名県の県都。人口6万6500(1995)。ルブリンの南東80kmにあり,ビスワ川支流のビエプシュ川上流の古い町。ウクライナからバルト海への街道に沿って発達した。1579年建造の強固な城塞をもち,16~17世紀の歴史的建造物が多い。家具,食品,コンクリート製品が生産されるが,この地方の工業発展は低水準にある。後進地域の中心都市として発展が期待される。
執筆者:山本 茂
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
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ザモシチ
ざもしち
Zamość
ポーランド南東部、ルブリン県の都市。人口6万8749(2001)。ルブリンの南東80キロメートルにあり、ビスワ川の支流ビエプシュ川上流の古い町で、ウクライナからバルト海への街道筋(すじ)に発達した。1579年建造の強固な城塞(じょうさい)をもち、16~17世紀の歴史的建造物が多く残り、町並みが美しい。この旧市街地は1992年に世界遺産の文化遺産として登録されている(世界文化遺産)。工業は家具、食品、コンクリート製品があり、地方中心都市として今後の開発が期待されている。
[山本 茂]
出典 小学館 日本大百科全書(ニッポニカ)日本大百科全書(ニッポニカ)について 情報 | 凡例
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ザモシチ
ポーランドの南東部に位置する小都市ザモシチ。世界遺産に指定された美しい街並みは1580年にポーランド人貴族ヤン・ザモスキーによって造られました。彼は学生時代に留学したイタリアの風景を大変気に入り、故郷のポーランドにもイタリアのルネサンス様式の街並みを実現したいと考えたのです。旧市街は五角形の城壁で囲まれ、西側には貴族の宮殿や文化的施設、東側には市民の住居や商業施設が建てられました。イタリア特有のアーケードが巡らされた3つの広場が特徴的なことからザモシチは「アーケードの街」ともよばれています。
出典 KNT近畿日本ツーリスト(株)世界遺産情報について 情報
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世界大百科事典(旧版)内のザモシチの言及
【ザモイスキ】より
…2回目の選挙のときと同様,ハプスブルク家の支配が絶対主義体制の確立と対トルコ戦争の強制につながることを恐れたザモイスキは,ジグムント・バーザを支持し,88年にマクシミリアン大侯と戦って勝利した。マクシミリアン大侯はザモイスキ家の本拠地として1580年に建設が始められた要塞都市ザモシチ(独自の大学と参事会聖堂も備える)に連行された。 こうしてジグムント・バーザはザモイスキのおかげで王位に就くことができたが,それにもかかわらず国王はザモイスキらの要望を無視した。…
※「ザモシチ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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