改訂新版 世界大百科事典 「ザモイスキ」の意味・わかりやすい解説
ザモイスキ
Jan Zamoyski
生没年:1542-1605
16世紀後半から17世紀前半にかけてリトアニア,ウクライナなどポーランドの東部辺境に獲得した広大な領地を基盤に台頭してきた新興マグナートの一人。父親から相続した四つの農村を200以上に増やし,さらに11の都市を新たに領有した。13歳のとき,のちのフランス国王フランソア2世の相手役としてパリの宮廷に派遣され,4年間の滞在中のちのコレージュ・ド・フランスやソルボンヌ神学校で学んだことが知られている(詳細は不明)。1561-65年にはイタリアのパドバ大学に留学してローマ法を学び,63年に学生団の団長(レクトル)に選ばれたりしている。帰国後ただちに国王ジグムント・アウグストZygmunt August(1520-72)の秘書官に採用され,それまで未整理のまま放置されていた宮廷文書の整理を担当した。そのとき得たポーランドの法律や慣例に関する知識が,のちの早い出世を可能にすることになる。
72年に国王が死去してヤギエウォ朝の男系が断絶し,初めて国王が選挙で選ばれることになり,ザモイスキの主張どおりすべてのシュラフタが参加した選挙(現実には不可能で,あくまでもたてまえ)で,74年,ヘンリク・バレジHenryk Walezy(バロア家のアンリ,のちのフランス国王アンリ3世)が国王に選出された。ザモイスキは即位要請の使節としてパリに出向いていった。のちに〈ヘンリク条項〉と呼ばれることになる諸項目(国王選挙はすべてのシュラフタによること,宣戦,騎士動員,課税は議会の同意を得ること,セイムを2年ごとに召集すること,この諸項目が守られない場合はシュラフタに〈反乱〉権があること)をヘンリクが承認し,ヘンリクの王位就任が決定した。ところが同年フランス国王シャルル9世が死去し,ヘンリクはフランス王位を継ぐために帰国してしまった。76年に2回目の国王選挙が行われたが,2人の国王が選出された。ハプスブルク家出身の皇帝マクシミリアン2世とトランシルバニア侯ステファン・バトーリStefan Batory(1533-86)である。マクシミリアンが急死したために内戦にはいたらず,ザモイスキが推したバトーリが王位に就くことになった(正確にはジグムント・アウグストの妹アンナ・ヤギエロンカが女王に選ばれ,その夫となることで国王と認められた)。バトーリはザモイスキを重用し,76年には王国副宰相,78年には王国宰相に任命して内政と外交に采配を振るわせた。また対ロシア戦争(イワン4世がリボニアに進出してきた)の戦費調達を目的とした課税や王領地の農民を動員した歩兵隊,コサック騎兵隊,砲兵隊,工兵隊,フサリアhusariaと呼ばれた重装騎兵隊などの新設をセイムに認めさせるのも,シュラフタのあいだで人気があったザモイスキの役割であった。79-82年の対ロシア戦争でザモイスキは指揮官としての功績を認められ,81年に王国軍司令官(ヘトマン。形式的には傭兵軍のみの指揮官であったが,騎士動員が有名無実化していたため事実上の全軍の司令官)の地位も占めることになった。また83年にはバトーリの姪と3度目の結婚をし,ザモイスキは名実ともにポーランドの実力者となった。
ところが86年にバトーリが急死し,ポーランドは3度目の空位時代を迎えることになった。87年の選挙でも皇帝マクシミリアン2世の子マクシミリアン大侯とスウェーデン皇太子ジグムント・バーザZygmunt Waza(1566-1632。母はジグムント・アウグストの妹カタジナ・ヤギエロンカ)の2人が国王に選出された。2回目の選挙のときと同様,ハプスブルク家の支配が絶対主義体制の確立と対トルコ戦争の強制につながることを恐れたザモイスキは,ジグムント・バーザを支持し,88年にマクシミリアン大侯と戦って勝利した。マクシミリアン大侯はザモイスキ家の本拠地として1580年に建設が始められた要塞都市ザモシチ(独自の大学と参事会聖堂も備える)に連行された。
こうしてジグムント・バーザはザモイスキのおかげで王位に就くことができたが,それにもかかわらず国王はザモイスキらの要望を無視した。信仰の自由を定めたワルシャワ決議(1573)の確認を求める新教徒シュラフタの要望を無視し,カトリック教会とイエズス会を優遇した。スペイン的な絶対主義体制の確立が国王の理想だったからである。ジグムント・バーザは92年には評判の悪かったハプスブルク家出身の侯女との結婚を強行し,また同年40万グルデンで王位をハプスブルク家に譲る密約がセイムで暴露されて大問題になった。こうした国王のやり方に対して〈反乱〉を求める声がシュラフタのあいだに強まってくるが,ザモイスキの努力で内乱の勃発は避けられた。内乱がハプスブルク家に有利に作用することをザモイスキはよく知っていたし,モルドバに対するトルコの脅威が迫っていたからである。92年にスウェーデン王位を継承すべくスウェーデンにおもむいていたジグムント・バーザが帰国してくるのを待って了解を得たザモイスキは,95年にモルダビアに遠征してこれをポーランドの影響下にとどめることに成功した。また98年にトランシルバニアを獲得したワラキア侯ミハイ(勇敢公)がモルドバの統合をもくろんだときも,ザモイスキがこれを破ってモルドバとワラキアをポーランドの臣従国とした(1600)。しかし1602年,ワラキアにトルコの支配の手が伸びてきたとき,ザモイスキにはこれをポーランドの影響下にとどめおく余力はなかった。というのも,1595年にジグムント・バーザが自分の摂政としてスウェーデンに残してきたカール侯(のちのスウェーデン国王カール9世)がロシアと反ポーランド同盟を結び,スウェーデンとポーランドとの関係が緊張していたからである。98年,いったんスウェーデンに渡って事態を収拾してきたジグムント・バーザが翌年スウェーデン王位を奪われるにおよび,ポーランドとスウェーデンのあいだに戦争が始まった。この戦争は同時にリボニアをめぐるポーランドとスウェーデンの争いであり,またバルト海の支配権をめぐる両国の争いでもあった。70歳ちかい高齢に達していたにもかかわらず,ザモイスキは自らこの戦争に参加した。しかし彼自身,〈喜劇〉と呼んだ偽ドミトリー事件に国王が介入することにザモイスキは反対であったし,再びハプスブルク家の侯女と再婚しようという国王の計画にも反対であった(1605)。しかし,国王は反対意見を無視した。果たせるかなザモイスキが死んだ翌年の1606年ゼブジドフスキMikołaj Zebrzydowski(1553-1620)の〈反乱〉が勃発することになった。
執筆者:宮島 直機
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報