日本大百科全書(ニッポニカ) 「シスキン」の意味・わかりやすい解説
シスキン
しすきん
Aaron Siskind
(1903―1991)
アメリカの写真家。ニューヨーク市生まれ。ニューヨーク・シティ・カレッジで文学を学び1926年に卒業後、49年までニューヨーク市の公立学校で英語教師として勤務。独学で写真技術を習得し、32年に左翼系の映画作家・写真家の団体フィルム・アンド・フォト・リーグに参加。そこから写真家たちが独立して36年に結成したフォト・リーグの中心的メンバーとして41年まで活動。51年ジョセフ・アルバース、ジョン・ケージ、マース・カニンガムらが教育にあたった実験的芸術学校、ブラック・マウンテン・カレッジ(ノース・カロライナ州アッシュビル)の講師を務め、同年シカゴのインスティテュート・オブ・デザイン(通称ニュー・バウハウス。のちイリノイ工科大学に編入)の写真科教授に就任。61年から70年まで写真科主任教授を務める。同校退任後はロード・アイランド・デザイン学校などで写真を教える。91年ロード・アイランド州で死去。
初期は社会的関心にもとづくドキュメンタリー写真を中心に手がけ、フォト・リーグのメンバーとともに取り組んだニューヨークの黒人街のドキュメンタリー「ハーレム・ドキュメント」(1937~40。シスキン自身は32年からハーレムで写真を撮影)のシリーズは、1930年代に隆盛したアメリカのソーシャル・ドキュメンタリー写真を代表する作品の一つである。40年代に入るとドキュメンタリーの方向性に疑問を抱くようになりフォト・リーグを脱退。社会的文脈など、被写体がもともとおかれていた関係性を写真にとりこんでいたそれまでの方法から、被写体を二次元の写真平面に移し変えることで生じる新たな意味を探る方法へと転換していった。転換期の代表作で、作業用の手袋を写した「グロスター1H」(1944)をはじめ、岩石や建築の一部などを正面からクローズ・アップで捉え、そのフォルムとテクスチャーを平面的な画面構成と深みのある階調によってモノクロームの画面に置き換えた作品は、それが置かれた空間や背景を捨象し、写真の精緻な描写をそのまま抽象的、精神的な表現へと結びつけている。
シスキンの写真は、ストレート・フォトグラフィ(撮影や現像、焼付けなどの各プロセスで特殊な処理を行わず、対象をストレートに描写する作風)を奉じるアルフレッド・スティーグリッツ以来のアメリカ近代写真の系譜を受け継ぐとともに、ニューヨーク時代に交流のあったフランツ・クラインやウィレム・デ・クーニングら抽象表現主義の画家たちが追究した、無意識や偶然性の画面への導入の試みとも関心を共有するものであり、抽象表現主義美術の一角をなすものとも位置づけられている。
ラズロ・モホリ・ナギによって開設され、バウハウスの実験的な写真表現の成果を踏まえた新しい写真教育を目指したインスティテュート・オブ・デザインは、第二次世界大戦後アメリカの写真教育をリードする存在となり、同校で長く教えたシスキンや同僚のハリー・キャラハンらは、教育者としても続く世代の多くの写真家たちに影響を与えた。
[増田 玲]
『Aaron Siskind; Photographs 1932-1978 (1979, Museum of Modern Art, Oxford)』▽『Carl ChiarenzaAaron Siskind; Pleasures and Terrors (1982, New York Graphic Society, New York)』▽『David TravisTaken by Design; Photographs from the Institute of Design, 1937-1971 (2002, University of Chicago Press, Chicago)』