日本大百科全書(ニッポニカ) 「キャラハン」の意味・わかりやすい解説
キャラハン(Harry Callahan)
きゃらはん
Harry Callahan
(1912―1999)
アメリカの写真家。デトロイトに生まれる。ミシガン州立大学で工学を学ぶ。卒業後、自動車会社クライスラーに勤めるかたわら、1938年独学で写真を始め、デトロイト写真協会に入会した。41年同会に招かれたアンセル・アダムズの講義に通い、最小絞りによる緊密な描写とゾーン・システムによる精巧なプリント技術でアメリカの自然を映し出した彼の写真に魅了され、同時に自然に対する敬虔(けいけん)な態度に深い感銘を受けた。また、アルフレッド・スティーグリッツと出会い、写真の芸術性を提唱する彼の姿勢に共鳴した。そして、写真を生涯賭けて追求していこうと決意する。
一方1941年、キャラハンはアーサー・シーガルArthur Segal(1875―1944)を介して、シカゴでニュー・バウハウス(バウハウスの流れを汲む美術学校。1937年、アメリカ、シカゴに創設された)を開設していたモホリ・ナギの写真と思想を知り、ヨーロッパ的なモダニズムに没頭していった。モホリ・ナギの写真表現に導かれて、41年から46年まで、組写真、多重露光、長時間露光、ハイコントラスト、カラー写真等多彩な写真表現を追求。こうして短期間で写真技術に関して飛躍を遂げたキャラハンは、46年ニュー・バウハウスを前身とするインスティテュート・オブ・デザインで教鞭をとることとなった。49年には同研究所写真部長となり、ここでさまざまな分野の芸術家に出会い、1940年代後半アメリカ美術を席巻した抽象表現主義、ミニマリズムへと傾倒していく。とりわけ画家ヒューゴー・ウェーバーHugo Weber(1918―1971)と親交を深め、彼の描くオートマチックなドローイング、最小限の要素で画面をつくるミニマリズムなどの手法に触発された。
以上のようにさまざまな表現方法がキャラハンの中に吸収され、総合されていく。その過程で、表現主題は都市・自然・妻エレノアEleanor Callahan(1921―84)の三者の間を揺れ動きながら次第に都市から自然へ、そしてエレノアへと深まりをみせていった。「裏通り、シカゴ」(1948)は、ビルの谷間を行きかう人々を、多重露光によってオールオーバー(図と背景、中心と周辺という違いがなく、全体に一定の密度で広がる)な画面に仕上げ、錯綜した形態と緊迫した空間によって、都市のリズムを造形化している。キャラハンはまた、見過ごしてしまいそうなかたわらの自然に眼差しを向け、白い地に雑草のY字型の線のみが浮かび上がる「空に伸びる雑草、デトロイト」(1948)は、十字架状の線が白い肌に浮かぶ「エレノア」(1947)とともに初期の代表作となる。白地の上にかすかな線という最小限の要素で生命を表現することによって、ミニマリズムの写真というべき作品を生み出したのである。
さらにキャラハンは、最も重要な主題に取り組む。彼が生涯を通して信奉し続けた対象は、写真でありエレノアであった。1947年以降10年余、無数のエレノアの写真を撮り続けた。自然・都市・私的空間のなかで、試みうる限りの方法を尽くして撮ったのである。エレノアは、キャラハンが敬虔(けいけん)な思いを寄せる自然と等価な存在であり、かけがえのない神聖な生命そのものを体現した存在である。エレノアを包む、清らかに透きとおり、静寂と安らぎに満ちた空間が、観る者をも包み込むようである。「カメラで詩が書ける」というキャラハンの言葉通り、練り上げられた最小限の造形要素の響きで豊かなイメージを喚起する彼の写真は、詩に比すべき魅力をもっている。
キャラハンは、1956年にグレアム財団から助成金を受け、61年にはプロビデンスのロード・アイランド・デザイン学校の写真部長となる。76年MoMA(ニューヨーク近代美術館)で回顧展が開催された。アトランタで没す。
[蔦谷典子]
『Harry Callahan; Photographs (1964, El Mochuelo Gallery, Santa Barbara)』▽『John SzarkowskiCallahan (1976, Millerton, New York)』▽『Sarah GreenoughHarry Callahan (1996, Bulfinch Press, Washington D.C.)』