ギリシア北部の都市。英語ではサロニカSalonika。ギリシア第2の大都市で,人口36万3987(2001)。同名県の県都,北ギリシア大臣の駐在地であり,また工業が盛んで,毎年開かれる国際見本市でも知られている。古代での呼称はギリシア語でテッサロニケThessalonikē,ラテン語でテッサロニカThessalonica。前316年,当時マケドニアを支配していたカッサンドロスKassandrosが,マケドニア東部,テルメ湾の奥のテルメThermēを中心に,周辺の町々を統合して建設し,妻の名をとって名づけたのが始まりで,海陸交通の要地として発展した。前146年にマケドニアがローマの属州になると,その主都に選ばれ,ローマ元首政期には自由市の資格を賦与されて栄え,テオドシウス帝のもとでイリュリクム道の主都とされ,ユスティニアヌス帝のときにコンスタンティノポリスに次ぐビザンティン帝国第2の首都の地位を与えられて繁栄の頂点に達した。また49-50年,56年に使徒パウロが伝道し,その後バルカン半島におけるキリスト教布教の中心となった。3世紀以後,しばしばゴート人,アバール人,スラブ人などの攻撃にさらされ,904年にはイスラム教徒に荒掠され,1430年以降,オスマン帝国の永続的支配下に入った。1821年,ギリシア独立戦争の勃発に際してこの地に起こった同調の動きは,トルコの手で過酷に抑えられたが,1912-13年の2度のバルカン戦争の結果,ギリシアの手に戻った。
執筆者:清永 昭次
市内には,ローマ時代のアゴラの跡のほか,ガレリウスゆかりの宮殿址や凱旋門,霊廟として建てられた巨大な円堂がある。円堂は400年ころアギオス・ゲオルギオス教会と名を改め,まもなく制作されたとみられる典型的な初期キリスト教モザイクによって飾られた。テッサロニキを特徴づけるビザンティン教会堂群とその内部を飾るモザイクやフレスコ壁画には,重要な作例が少なくない。初期の貴重なモザイクには,オシオス・ダビド教会(5世紀),パナギア・アヒロピイトス教会(5世紀),アギオス・ディミトリオス教会(650年再建,モザイクはおもに7世紀),アギア・ソフィア教会(8世紀,モザイクは9世紀ころ)のものなどがある。フレスコ壁画を伝える教会では,パナギア・ハルキオン教会(11世紀),アギオス・ニコラオス・オルファノス教会(14世紀)など。さらに,アギイ・アポストリ教会(1314ころ)には,同時代パレオロゴス朝の典型的な様式を示すモザイクがある。旧市街を囲む陸地側にはビザンティン時代の城壁の一部が残っており,考古学博物館には市の周辺で発見された,古代から中世初期にかけての多くの美術品が収められている。
執筆者:高橋 榮一
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
ギリシア北部、マケドニア地方テッサロニキ県の県都。英語名サロニカSalonika、古代ギリシア語ではテッサロニケ(日本語訳の『新約聖書』ではテサロニケ)Thessalonike。カルキディキ半島の基部、テルマイコス湾(サロニカ湾)の湾奥に位置する。人口36万3987(2001)。首都アテネに次ぐギリシア第二の大都市で、同国北部の行政、文化、経済、産業の中心地。穀物、皮革、たばこなどを輸出する港湾都市でもあり、鉄道・道路の基点ともなっている。繊維・皮製品の製造、ワイン、ビールの醸造、建築資材製作のほか、石油工業、フランス企業との提携による重金属・重化学、ドイツのジーメンス社との提携による通信機材など、工業も発達している。歴史的遺跡が多く、4世紀にローマ皇帝ガレリウスが建てた凱旋(がいせん)門、聖デメトリオス教会のバシリカ(5世紀)、聖ソフィア大寺院(8世紀)、ベネチア人またはトルコ人が建てた白塔(15世紀)などが残る。
テッサロニキ県は面積3683平方キロメートル、人口106万2300(2001推計)。県都を中心に工業が発達する。
[真下とも子]
紀元前316年ごろ、当時マケドニアを支配していたカッサンドロスが、テルメThermeなど20余の村を統合して建設し、彼の妻の名をとって市の名とした。マケドニア第一の港として発展し、前168年ローマに屈服、前146年には属州マケドニアの首府となった。アドリア海とビザンティウム(現イスタンブール)を結ぶエグナティア街道上の要地として帝政期に栄え、キリスト教の使徒パウロもここに伝道した。ビザンティン帝国時代、ユスティニアヌス帝によりコンスタンティノポリス(現イスタンブール)に次ぐ都市の地位を与えられ、繁栄の頂点に達したが、1430年にオスマン帝国領となり、1913年ギリシアに譲られた。
[清永昭次]
エーゲ海北西端のギリシア第2の都市で,古代名はテッサロニケ。アレクサンドロス大王の妹の名に由来するといわれる。3世紀末から蛮族の侵入が活発化し,ゴートやスラヴ人の攻撃を受けた。ビザンツ帝国ではコンスタンティノープルに次ぐ都市として経済的・文化的に繁栄し,スラヴ世界へのキリスト教伝道の拠点にもなった。一方ブルガリアと対立し,12世紀以降はノルマン,イピロス専制公国,セルビア,ヴェネツィアに占領された。1430年にオスマン帝国領となると,イベリア半島から移住したユダヤ人の町として商業的に発展した。18世紀にはギリシア系商人が頭角を現した。その結果,西欧との貿易が拡大し,各国領事館が置かれた。20世紀初頭には青年トルコ革命の中心地となった。1912年にギリシア領に編入,その後の住民交換,ナチスによるユダヤ人一掃をへてギリシア化された。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
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