オーストリアの作曲家。ダルマチア王国のスパラト(現クロアチアのスプリト)生まれ。本名Francesco Ezechiele Ermenegildo Cavaliere Suppé Demelli。一族はベルギーの家系で、イタリアのクレモナに移住し、その後スパラトにとどまった。父はベルギー人、母はウィーン生まれのイタリア人。幼時から音楽の天分を発揮したが、父の希望でパドバの大学で法律を修めた。父の死とともに16歳でウィーンに移り、同地の音楽院で学び、ウィーンの様式を身につけた。1840年からヨーゼフシュタット劇場で指揮者兼作曲家として活動を開始、音楽劇や劇の伴奏音楽をつくる。46年にはアン・デア・ウィーン劇場に迎えられて『詩人と農夫』を発表。58年、オッフェンバックのオペレッタ『提灯(ちょうちん)結婚』や『天国と地獄』に刺激されてオペレッタを志し、60年には『寄宿学校』を作曲。63年からはカール劇場を本拠に活躍、65年にはオッフェンバックの『美しいエレーヌ』に対抗して『美しいガラテア』をつくり、本格的なウィンナ・オペレッタの創始者となった。
以後、『軽騎兵』(1866)、『イサベラ』(1869)、『ファティニッツァ』(1876)、そして畢生(ひっせい)の大作『ボッカチオ』(1879)、さらに『ドンナ・ファニータ』(1880)などを発表して人気を集めた。『ボッカチオ』はわが国のオペラ運動の初期に翻訳・紹介され、「恋はやさしい」や「トチチリチンの歌」で広く知られている。彼のオペレッタは、イタリアの青空のもつ明るさとのびやかなメロディーをもった歌に、ウィーンの甘さと繊細さがみごとに混じり合い、その上にオッフェンバックから学んだパリ風の軽やかさとしゃれた筋運びを加え、万人に親しみやすいものになっている。200に近い音楽劇があり、「ウィンナ・オペレッタの父」とうたわれる。ウィーンに没。
[寺崎裕則]
『寺崎裕則著『魅惑のウィンナ・オペレッタ』(1983・音楽之友社)』
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