日本大百科全書(ニッポニカ) 「スベルドラップ」の意味・わかりやすい解説
スベルドラップ(Harald Ulrik Sverdrup)
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Harald Ulrik Sverdrup
(1888―1957)
ノルウェーの海洋物理学者、気象学者。ソンダールに生まれる。1911年オスロ大学を卒業。在学中より流体力学者、ビャークネスの指導を受ける。アメリカのスクリップス海洋研究所所長、ベルゲンの極地研究所所長、オスロ大学地球物理学教授、国際海洋物理学協会総裁などを歴任。20世紀前半における海洋物理学の世界的な指導者であった。1917~1925年、アムンゼンの率いる北極探検に参加しモード号での科学調査を行い、1931年にはウィルキンスSir George Hubert Wilkins(1888―1958)の潜水艇ノーチラス号による初の北極探検にも参加し海洋物理の精密な観測を行った。さらに1949~1952年、各国協同の南極観測隊長として活躍し、晩年に至るまでその研究意欲はいささかも衰えることはなかった。理論・研究の面でも、海流理論、大気・海洋の相互作用、ムンクとの協力による風浪・うねり・磯波(いそなみ)予報法の開発など多岐多彩である。論文、著作は200編を超える。主著(共著)として、海洋学の不朽の教科書『海洋』The Oceans their Physics, Chemistry and General Biology(1942)がある。
[半澤正男]
スベルドラップ(Johan Sverdrup)
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Johan Sverdrup
(1816―1892)
ノルウェーの政治家。1841年法学士、のちラルビークの法廷弁護士となる。1851年にストルティングStorting(変則的一院制議会)議員、さらに1862~1869年にオデルティングOdelsting(ストルティングの下院部門)議長、1871~1884年にはストルティング議長。農民勢力とも協力して左翼党を組織。1872年から議会制度確立を目ざし、閣僚の議会出席要求を提案し、スタングFrederik Stang(1808―1884)らの保守派と対立した。三度にわたるスウェーデン王カール15世Karl ⅩⅤ(1826―1872、在位1859~1872)による拒否権行使を受けてのち、1884年議会の決定を無視し続けたセルメラChristian A. Selmer(1816―1889)らを弾劾裁判所に送り、提案を採決。保守党内閣退陣後、初の左翼党政府首相となった。1884年選挙権を拡張し、1887年に陪審制度を導入した。1889年軍隊の再編成など、19世紀後半のノルウェーにおける民主主義的改革実現に尽力した。1885年左翼党の急進派と分裂。1888年選挙での左翼党の敗北後、1889年に首相を辞任した。1890年彼の政治的遺言ともいうべき『左翼党員から左翼党員へ』Fra venstremænd til venstremændを執筆した。
[大島美穂 2022年5月20日]
スベルドラップ(Otto Neumann Sverdrup)
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Otto Neumann Sverdrup
(1854―1930)
ノルウェーの北極探検家。ノルウェーのビンダルに生まれる。1888年グリーンランド探検、1893~1896年北極探検をナンセンとともに行い、フラム号の船長となって有名な北極海の氷海漂流を敢行した。1898年自ら探検隊を率いてグリーンランド北部を探検、エルズミア島南部が大氷河地帯であることを発見した。1899~1902年の探検では、エルズミア島の南東岸でジョーンズ海峡の北に、同島に食い込む幅約160キロメートルの大きな湾を発見した。またパリー諸島の北約200キロメートルのところに二つの島(スベルドラップ諸島)を発見、同地方の正確な地図を作成したのは大きな成果であった。1914~1915年と1920年、北極で消息を絶ったソ連(当時)の探検隊の捜索に、また1928年には北極探検で遭難したノビレの飛行船イタリア号の救援隊長となり活躍した。死の直前、カナダ連邦政府より、カナダ領北極圏における地理学上の諸発見の功に対し、6万7000ドルの賞金が贈られた。主著に『New Land, Four Years in the Arctic Regions』(1904)がある。
[半澤正男]