塩(塩類)を含む水の非常に大きな広がりをいう。この水を海水という。塩の組成比は海のどこでもほぼ一定である。大きな塩(水)湖のなかには海とよばれるのもある。カスピ海、アラル海、死海である。しかし、塩湖の水に溶けている元素の量の比は海水とはまったく違う。海は単に大きな水たまりというだけではなく、その下の地殻(海洋地殻)が大陸下の地殻(大陸地殻)とはまったく違う。海洋地殻の厚さは5~15キロメートル、玄武岩質であり、もっとも古いもので2億年前に形成されている。大陸地殻の厚さは20~65キロメートルで、上部は花崗岩質であり、もっとも古い部分は38億年前のものである。カスピ海は湖であるが中央部の下は海洋地殻である。
[半澤正男・高野健三]
海洋は地球の全表面積5億0995万平方キロメートルのうち、70.8%にあたる3億6106万平方キロメートルを占める。北半球では陸地の割合が大きいが、南半球では海洋の割合が大きい。海洋は一続きではあるが、いくつかの部分に分けることがある。もっとも大きな部分は大洋oceanで、太平洋、大西洋、インド洋をいう。島や半島を境にして大洋とつながる海は縁海(えんかい)であり、いくつかの大陸に囲まれながらも大洋につながる海が地中海である。
海洋は海水をたたえた深い海盆(かいぼん)ばかりでなく、大陸の縁辺部は広範囲な陸棚(りくだな)となっている。海洋と陸地の面積を、海水面を基準とした高さと深さ別にプロットしたものをヒプソグラフ曲線hypsographic curve(測高測深グラフ)という。この曲線によると、陸地では高さ1000メートルまでの部分、海洋では深さ約5000メートルの部分が際だって広い面積を占めている。陸地の平均海抜が約840メートルであるのに対し、全海洋の平均水深は約3800メートルである。海の面積は陸の面積の2.4倍だから、海洋の体積は陸地の体積の10倍あまりになる。3800メートルという平均水深は、地球の半径(約6400キロメートル)の1700分の1にすぎない。「薄く、広く広がっている」のが海洋の特徴であり、大気の特徴でもある。この特徴が海水・大気の運動や温度分布などに大きな影響を及ぼしている。
[半澤正男・高野健三]
海水の塩分は、海水に溶けている物質の質量と海水の質量の比として定義され、千分比‰(パーミル)で表されていた。日常用語の塩分は塩気であり、塩(しお)の量であるが、ここでいう塩分は化学用語の塩(えん)あるいは塩類の濃度なので、塩分が高い、低い、という言い方をする。塩分が濃い、とか塩分濃度が高いとはいわない。海水は塩化ナトリウム、塩化マグネシウム、硫酸マグネシウム、硫酸カルシウムなどさまざまな塩(えん)を含む。塩分は場所によって変わるが、塩の組成比(あるいは元素量の比)はどこでもほぼ一定であることが海水の特徴である。河口付近や紅海など一部を除くと塩分は34~37‰である。20世紀の終りころに、塩の濃度とは切り離して、海水の電気伝導度によって塩分を定義することになった。この定義による塩分(実用塩分)35は、旧定義による塩分(絶対塩分)35‰と同等である。実用塩分であることを明示するために35psu(psuはpractical salinity unitの略で、実用塩分単位)と書くことが多い。35以外の塩分については、絶対塩分(の1000倍)との差は非常に小さい。
海水は96%(重量比)あまりが水だから、海水の物理・化学性質は水の性質に似ている。水は、ありふれた液体のようであるが、実は水銀と液体アンモニアと並んで特異な液体である。比熱、気化熱、融解熱、熱伝導率、表面張力はきわだって大きく、熱膨張率、圧縮率はきわだって小さい。海水の密度は温度、圧力、塩分で決まる。比熱が大きいので温度変化は小さいが、そのうえ、熱膨張率が小さいので温度変化に伴う体積変化、したがって密度変化が小さい。さらに圧縮率が小さいので、圧力変化に伴う体積変化・密度変化は小さい。密度変化が小さいので圧力変化も小さい。圧力変化が小さいので圧力差によって決まる地衡流は弱い。これが大気の流れ(風)よりも海水の流れがはるかに弱いおもな理由である。
飽和蒸気圧はほかの液体に比べてかなり小さいので海水は蒸発しにくい液体であり、その体積は短い時間で大きく変わることはない。海面からの水の蒸発は少ないけれども、気化熱(潜熱ともいう)はすべての物質のうちで最大なので、蒸発に伴って海から大気に出てゆく気化熱は大きい。この気化熱が大気の重要なエネルギー源となっている。
淡水は3.98℃で密度が最大となるが、塩分が24.7psuよりも高い海水の密度は温度低下とともに増える。塩分は海水の氷点を零下2℃くらいに下げる。地下を除き地球上の淡水の99%たらずは氷となっているが、海水は塩分のこれらの働きと融解熱が非常に大きいことがきいて、わずか0.004%たらずしか凍っていない。多くの液体は凍れば重くなって沈むが、水は氷になれば軽くなって水面に浮く。海の氷は、熱伝導率が小さく比熱が大きいのでよい断熱材である。よい断熱材が海面に浮いているのだから、氷の下の海水は冷えにくい。
光の屈折率はかなり小さいことがきいて、海面の放射反射率は小さい。放射反射率は太陽高度、海面の波や海水の汚れや植物プランクトン量によって変わるが、陸地の放射反射率よりもずっと小さいので地球に注ぐ太陽放射エネルギーを吸収しやすい。
海も大気も地球の上に広がる流体という点では同じであるが、海水の特異な性質を反映して海は大気よりもはるかに変わりにくい安定な流体であり、それが大気に反映して大気や地球環境をある程度安定――短い時間のうちに大きく変わらない――に保っている。
なお、水の熱伝導率は水銀を除けばすべての液体のうちで最大であり、熱を非常に伝えやすい。この熱伝導率は分子運動によって熱が伝わる場合の分子熱伝導率である。海中では渦(うず)伝導(拡散)が働き、渦伝導は分子伝導よりもずっと強いので、分子熱伝導率が大きいことは重要な意味をもたない。
水は優れた溶媒なので、海水にはいろいろな物質が溶けている。したがって浸透圧は大きく、淡水に対しては24~25気圧にもなる。これは海中生物には重要な意味をもつ。
生物が初めて現れた場所が海だったことを示唆することがらはいくつもあるが、その一つは生物を形づくっているさまざまな物質のうち(質量で)水がもっとも多いことである。また、海水と人間の血清とでは成分間の比がよく似ている。海水と比べて血清ではマグネシウムと硫酸塩が少なく、重炭酸塩が多いが、これは肺で呼吸しなければならないという環境への適応で説明できるようである。
[半澤正男・高野健三]
大気(空気)、海洋(海水)、陸地(土壌・岩石等)では、その物理的性質、とくに熱容量と比熱が大きく異なる。同体積の場合、空気に比べると海水の熱容量のほうがはるかに大きい。したがって地球の表面の大部分を占める海洋が気象に与える影響はきわめて大きい。小規模な影響としては海陸風がある。中・大規模な気象現象として、日本海側の豪雪、東北・北海道の冷夏などがある。ごく大規模なものとして、北太平洋中央部、北緯25~45度、西経150~180度での海面水温偏差がプラスかマイナスかの影響によるジェット・ストリームの位置の偏りと、それに伴う北アメリカの異常気象や、北太平洋のアメリカ側と日本側の水温が、ほぼ同時に一方が高く、一方が低くなるいわゆるシーソー現象がある。太平洋赤道海域のエルニーニョ現象も海洋と大気が関連する大規模現象である。このように遠距離間でほぼ同じときに水温や気圧などの因子が関連し合って変化する現象を、気象・海象のテレコネクションとよんでいる。
[半澤正男・高野健三]
生物、つまり「生命」の起源には多くの議論があるが、太古の海洋で発生した単細胞の原始的植物、藻類がその初めと考えられる。南アフリカ共和国東北部のバーバートン山脈で発見された変成作用を受けていない堆積(たいせき)岩は、33億年前のものとされているが、生命の起源といえる微細な炭素の細片を含んでいる。同じ年代の南アフリカの石灰岩は、緑藻類に原因のあるストロマトライト状構造を含んでいる。
生物の生存に不可欠の酸素量についても、いろいろな説がある。有力な説の一つによれば、先カンブリア紀末期(約6億年前)には、大気中にはほとんど遊離酸素がなく、動物は藻類という「酸素のオアシス」を宿主とし、呼吸作用を藻類に依存していた。古生代初期になると、酸素圧が増え、動物は宿主から離れて大気と海洋の境界にまで浮かぶようになる。年代が進み大気中にも海洋中にも酸素の量が豊富になるにつれて、生物は陸上、海中に広く分布するようになったというのである。
1953年アメリカの化学者ミラーStanley Lloyd Miller(1930―2007)は、メタン、アンモニア、水素、水蒸気の混合体を水で循環させてコロナ放電を行い、いくつかのアミノ酸、ヒドロキシン酸などの有機物を生成する画期的実験に成功した。さらに、他の惑星やその大気の生成進化過程の解明も進んでいる。生命の発生当時の地球の大気や海水の組成が明らかになり、生命の起源が確認される日は近いと思われる。
[半澤正男・高野健三]
古代地中海文明の時代の通商活動を示す遺物は、フェニキア、エジプト、ローマなどの人々は海流、潮流、海上の風系についてある程度の知識をもっていたことを示している。やがて彼らは「ヘラクレスの柱」(ジブラルタル海峡)を越えて大西洋に乗り出す。
15世紀以降は植民地獲得のための大航海が相次ぐが、18世紀に入ってからの航海の特徴は学術調査という新しい目的が加わったことである。19世紀のながばから海洋学は学問としての体系を整えてゆく。第二次世界大戦後は研究手段と方法に大きな変化が起きた。研究成果が積み重ねられ、「探検」から「実験」の時代となった。20世紀末から地球環境や地球気候がらみの海洋研究が活発になった。
[半澤正男・高野健三]
古代ギリシアでは、紀元前1000年ころのホメロスHomeros時代の地図、前500年ころのヘカタイオスの地図などによると、地中海を中心に世界があり、その周りを大洋の河が流れている。紀元後150年ころのK・プトレマイオスの地図には、大西洋の一部やインド洋が描かれ、地理学的知見の拡大を物語っている。
この時代の特筆すべきできごとは、ギリシア人ピュテアスPytheas(前356―前323)の航海である。ピュテアスは前325年、ジブラルタル海峡を出てフランス、イギリスの沿岸を周航し、トゥーレ(アイスランドあるいはノルウェー)に至ったという。彼は、トゥーレの近くで「流れが緩慢で、凝結あるいは凍結した海」を見たことを記録している。これがクラゲの大群か、珪藻(けいそう)のゼラチン状の固まりか、海氷かはわからないが、とにかく、海の観察記録である点で画期的である。潮の満ち干と月の運行の関係を最初に指摘したのはピュテアスであり、月だけではなく太陽との関係まで考えたのはポセイドニオスである。
中世は、ヨーロッパが、当時の先進国である中国とアラビア(イスラム国家)から科学・技術を学んだ時代である。すでに9世紀に、インド洋の貿易風の変化に伴って海流も向きを変えることが述べられている。12世紀は、ギリシアとアラビアの多数の文献がラテン語に翻訳された大翻訳時代となった。十字軍(1096~1270)は科学・技術の輸入だけではなく、西ヨーロッパと北ヨーロッパ間のそれらの交流にも大いに貢献した。その結果、船の構造、造船術、航海術も改良され、大航海時代を迎えることになる。社会での船乗りの地位も変わった。海は、怪物、飢え、寒さ、罪、悪霊などを連想させ、船乗りといえば「暴力」とか「ならず者」と結び付けられがちであったが、13世紀以降、イギリスやフランスの国王が海に興味を示し、騎士が船に乗ったり、船乗りが騎士になることもあった。また、艦船騎士団もできた。航海や船乗りは、積極性、外部世界への挑戦・発展などを連想させることとなった。中国からもたらされた羅針盤の普及は航海の安全性を高め、海図の改良を促した。航海にもっとも便利なメルカトル図法をオランダの数学者メルカトルが考案したのは1569年である。16世紀の後半には船の速さの測定器が使われる。航海には船の位置を知らなければならない。ある点の緯度を知るのに天体の高度を測ればよいことはすでにフェニキアの昔から知られていた。高度の測定具は改良され、コロンブス(イタリア語読みはコロンボChristoforo Colombo)の時代の四分儀から八分儀を経て18世紀のなかばには、六分儀となる。
ある点の経度を知ること、あるいは二つの点の経度の差を知るには、動揺する船の上でも正確に動く時計が必要である。1600年ころ、スペインのフェリペ3世とオランダの国民議会が舶用時計の発明にそれぞれ多額の賞金を設けた。ガリレイやホイヘンスも挑戦したが、二人とも失敗した。100年あまりたった1714年にイギリス政府が、続いて1716年にフランス政府がふたたび賞金をかけた。イギリスのJ・ハリソンは1765年にイギリスの賞金を、フランスのル・ロアPierre Le Roy(1717―1785)は1773年にフランスの賞金を得た。18世紀末には、経度も外洋でいちおう差し支えのない程度の精度(100~150キロメートル)で測れるようになった。
大航海の動機は、交易であり、植民地獲得だった。ピュテアスの航海はフェニキア人の独占を阻むためであり、ポルトガル人の喜望峰沖経由での東方(インド、中国)への航海はアラビアの支配下にない新航路の開拓であり、コロンブスの航海は北大西洋南部を西回りで中国・インドに達するための航海であり、カボート父子(Giovanni Caboto1450―1498,Sebastiano Caboto1476―1557、英語読みはキャボットCabot)の航海は北大西洋北部経由で中国・インドに達するための航海(この航路が存在しないことは当時知られていなかった)であった。
スペインやポルトガルが新世界を発見したり、インドへの航路を開いたりして大航海時代の海洋国としての地位を固めたあと、やや出遅れたイギリスやオランダは、スペインやポルトガルの権益が強くなかった北の海に力を注いだ。極東への近道が北極海経由であることはすでに15世紀にわかっていた。オランダは16世紀末に北東航路(北大西洋から北東に向かい、北極海を東に進んでベーリング海峡から太平洋に出る航路)の発見に懸賞金をつけた。イギリスは17世紀の初めに「北西航路(北大西洋から北西に向かい、北極海を西に進んでベーリング海峡から太平洋に出る航路)探検のためのロンドン商人組合」を設け、探検隊を送り出したが、成功しなかった。17世紀のヨーロッパで香辛料の値は下がっていたが、インド綿布の商品価値は高かった。バフィン湾の発見者バフィンは1616年に「北西航路は存在しない」と報告している。その根拠は、グリーンランドの西岸沖を北上して大西洋から遠ざかるにしたがって潮差が小さくなることだった。バフィンは「もし、その先が広い太平洋につながっているのなら、潮差はだんだん大きくなるはずだ」と考えたのである。この考えは誤りであるが、彼の報告書を信じたイギリスは以後200年にわたって北西航路に手を出さなかった。ところが、1815年にナポレオンとの戦いが終わると、必要のない多くの軍人と艦船を抱え込むという好ましくない事態が生じた。この事態を解決する一つの方策という意味も含めて、イギリスは西経110度到達と北西航路発見とにそれぞれ懸賞金を設けた。
スウェーデンのN・A・E・ノルデンシェルドは北東航路をとり、1879年にベーリング海峡を通り抜けた。北西航路は1906年にノルウェーのアムンゼンによって開通した。
18世紀に入ってからの航海の特徴は学術調査という新しい目的が加わったことである。その先駆けがイギリスのJ・クックの太平洋探検である。3回の航海(第1回は1768~1771年、第2回は1772~1775年、第3回は1776~1780年)の調査海域は、南は南極海から北はベーリング海峡を通り抜けて北緯71度近くにまで及ぶ。これに対抗するためにフランスのルイ16世が太平洋に送ったのがラ・ペルーズの探検隊だった。間宮林蔵(まみやりんぞう)よりも20年早く宗谷(そうや)海峡を発見したり、日本海東南部(日本沿岸)や南西諸島海域の海図を初めて描いたのは彼である。宗谷海峡は日本での名称で、外国で通用する名称はラ・ペルーズ海峡である。
19世紀には船の動力として蒸気機関が加わる。蒸気機関を備えた帆船が大西洋を初めて横断したのは1819年である。しかし、当時の船の推進器は舷側の外側に突き出た一対の水かき車(外輪)だったので蒸気の力を有効に生かせなかった。そこで、イギリス海軍が「外輪にかわる推進法」を懸賞金付きでつのった結果生まれたのが現在のスクリューである。1837年だった。しかし、外輪に比べてはるかに小さいスクリューが外輪に勝ることを疑う人が多かったので、イギリス海軍は1845年に、800トン、200馬力の同じ型のスクリュー船と外輪船の綱引き競争を行い、スクリューの性能の高さを実証した。このあと、外輪船はしだいに姿を消してゆく。
1884年に蒸気タービンがつくられ、1897年には蒸気タービン付きの船が初めて登場する。また、1897年には、のち(20世紀のなかばすぎ)に船に広く使われるディーゼル機関がつくられた。19世紀は船の動力の転換期だった。船の建材も変わった。最初の鉄(軟鉄)船ができたのが1820年、鋼鉄船ができたのが1879年であった。
こうして、船は大型になり、速くなり、堅牢になった。航海は安全になり、海は少数の冒険者たちのためだけのものではなくなった。多くの人々が船に乗り、海を体験することになった。
北東・北西航路の発見に並ぶ大目標である北極点への到達は1907年に達成される。これらの大目標に挑んだ人々によって北大西洋や北極海の気象・海洋についての知識は増えたが、一方では弊害も生じた。海の生物資源、とくにクジラの豊かさが明かになったため各国が競って捕獲につとめ、1700年ころには軍艦まで出動しての捕鯨戦争になってしまった。
スペインやポルトガルはもちろんのこと、イギリス、オランダ、フランスに比べても海に出遅れたロシアは、北極海と南極海では遅れを取らないように、1819年7月に南極海探検隊と北極海探検隊を同時に送り出した。ベリングスハウゼンFabian Gottlieb von Bellingshausen(1778―1852、ロシア語読みはベリンスガウゼンFaddey Faddeevich Bellinsgauzen)が率いる南極海探検隊は南極海を世界で初めて一周し、いろいろな海洋観測や気象観測を行った。そのあと、J・C・ロスらの航海が続く。
南極点到達は1911年であるが、北極圏と南極圏の調査・研究の進め方に対して、19世紀の後半から批判が出るようになった。「多くの人命と経費を費やしたにもかかわらず学問上の成果は高くない。これらの地域・海域についての理解を深めるには緻密(ちみつ)な観測網を設け、長い期間にわたって気象・海洋のデータを集めることが必要である」という反省がきっかけとなって国際共同研究の気運が高まり、50年ごとに国際極年(International Polar Year)を設け、極域の共同・集中研究を行うことになった。第1回は1882年8月からの1年で12国が参加した。第2回は1932年からの1年で26国が参加した。第3回は対象が広くなって地球全体となり、名称も国際地球観測年(International Geophysical Year)となり、さらに50年ごとでは間があきすぎるということで25年に縮み、1957年7月から1958年12月まで64国が参加して行われた。しかし、その後は、地球規模の現象に対して多くの国際研究が行われるようになったため、国際地球観測年は1回だけで終わった。
[半澤正男・高野健三]
近代海洋学は19世紀なかばに生まれた。そのきっかけは次の三つである。
(1)海底電線が初めて敷かれたのは、フランスのカレーとイギリスのドーバーの間で1851年のことである。続いて1858年にはアイルランドとニューファンドランドが海底電線で結ばれた。海底電線を敷く場所を決めるには海の深さを知らなければならないから、19世紀の後半には外洋の深さに対する関心が急に高くなった。水深データの数は増え、質もやや高くなり、深さまで含めた海の形が少しづつ明らかになってきた。
海図に大陸棚の深さが記入されるのは16世紀の終わりころである。測る道具はロープとおもりである。ロープの先端が海底に着くまでロープを繰り出すのであるが、この方法は深い外洋では使えない。おもりが海底に着いた瞬間がわかりにくいうえに、ロープの繰り出しと巻き上げに長い時間がかかるからである。そこで、ロープを使わないいろいろな方法が15世紀から工夫されていた。これらの方法は簡単にいえば、おもりと浮きが一体となって海中を落下し、海底に達した瞬間におもりがはずれて、浮きだけが海面に浮上してくるというものである。実際につくられたのは18世紀であるが、木製の浮きを使ったために深海の水圧で押しつぶされて、失敗した。以後、この方法は見捨てられてしまった。
精度を高め、測定時間も短縮するためロープを使う旧来の方法に改良が重ねられる一方で、新しい方法も探し求められていた。1833年には、海底での爆発音が海面に届くまでの時間から海底の深さを求めることが提案され、1854年には実地試験が行われた。
(2)フォーブズの深海説では、深海は低温と高い水圧に加えて光がないので、生物は550メートル(のちに700メートルに訂正されるが)よりも深い水中には存在しない。この説が出た1844年にはすでに反証があって、たとえばロスJohn Ross(1777―1856)は北西航路を発見するための航海で1400メートルよりも深いところで測深用ロープに巻きついたと思われる魚を採取している。それでも、フォーブズが当時の学界の権威だったためか、深海説は支持されていた。しかし、海底電線敷設に伴って、深海生物が測深用ロープに巻きついて引上げられる例が増え、やがて、修理のため引上げられた海底電線にも付いてくる例も増えた。数多くの反証によって、深海説は完全に否定されてしまう。深海という生物生活圏が新しい研究対象となった。
海底電線やロープには生物だけではなく、海底堆積物も付着してくる。外洋の海底堆積物も地質学の新しい、重要な研究対象となった。
(3)アメリカのM・F・モーリーは、アメリカや外国の船から風や流れや波についての報告をとり集め、まず『風・海流図』を、次に『風・海流図を使って航海する方法』を刊行した。ちょうど高速帆船の時代で、インドなどから茶などの商品を少しでも速く運ぶ必要があったこと、また1850年ころからカリフォルニアはゴールドラッシュとなり、南アメリカ大陸の南端を回って北アメリカ大陸の東海岸とカリフォルニアを結ぶ航海の日数を縮める必要があったこと、などが重なって、モーリーの図や方法が高い評価を受け、やがて彼の希望どおり、多くの船から気象・海洋データが送られてくるようになった。
1853年にはモーリーの提案に従って、ブリュッセルの国際会議で「航海中のすべての船は、決まった方式で気象・海況の観測を行うこと」が決まった。この取り決めは1873年のロンドン会議でさらに確固とした国際協力体制となる。こうして、収集されてきた膨大なデータが、海上気象と海況についての現在の知識の基礎であり、海洋・海上気象研究の基礎になった。今日でも航海の安全と日数の短縮に役だっている。モーリーが1855年に刊行した世界で最初の海洋学の著書『海の自然地理学』には湾流の道筋、北大西洋の水深、水温、風などの図が添付されている。彼は水深測定に音を使うことを初めて提案した人でもある。
[半澤正男・高野健三]
深層にも生物がいることがわかってきた19世紀の中ごろから、深層まで含めた海洋調査がイギリス、ノルウェー、スウェーデン、ロシア、ドイツ、オーストリア、アメリカなどによって次々と行われた。そのあと、イギリスの観測船チャレンジャー(Challenger)が名高い世界一周の深海探検(1872~1876)を行う。この航海が高い成果を得た一因は、機器を海中に吊(つ)るすワイヤの巻上げ機に蒸気機関を使ったことである。チャレンジャーのあと、第一次世界大戦直前までロシア、ドイツ、ノルウェー、アメリカ、フランスなどが世界一周調査航海や大調査航海を次々と行った。この時期はいわば海洋調査での大探検航海時代であった。
探検航海が盛んに行われる一方では、19世紀の終わりころには、船が数千メートルの海底に錨(いかり)を下ろし、船の動きをある程度抑えながら数日にわたって同じ場所で観測をすることも試みられた。その成果の一つは、大西洋赤道直下を東向きに流れる赤道潜流(せんりゅう)の発見である。
海底電線敷設のため水深データが増えたとはいえ1895年までに2000メートルを超える測深は世界中で約7000回にすぎず、そのうち、5500メートルを超えるのはわずか550回にすぎない。しかも、19世紀なかば以前の測定値の多くはその後の測り直しの結果、間違いであることがわかった。19世紀の終わりころ、水中音を深さの測定だけではなく、氷山の発見に使うことも考えられていた。船から水中音を水平方向に発射し、その反射音をとらえて遠くの氷山の存在を知ろうというのである。イギリスの客船タイタニックが氷山と接触して沈没したのは1912年である。海底電線の敷設も氷山の早期発見もたいせつなことであるが、音響測深が実用になった直接の理由は、第一次世界大戦(1914~1918)でのドイツ潜水艦の活躍である。戦時研究として水中音の科学・技術が進歩し、戦後は水深測定の様相は一変する。
ドイツは1925年から1928年にかけて観測船メテオールを大西洋に派遣し、おもに南大西洋で、綿密に練った計画のもとに、種々の新しい機器を使い、画期的な偉業をなしとげた。その結果の一つが初めて音響測深機を航走中に働かせて水深を測り、海底地形の複雑さを示したことである。
メテオールの成功が刺激となって、ノルウェー、オランダ、イギリス、アメリカなどが次々と大航海を実施した。19世紀後半のチャレンジャーの探検に代表される時期が第一次大探検航海時代とすれば、第二次世界大戦に近いこの時期は第二次大探検航海時代とよぶことができる。
数多くの航海によって海の深さ、海流、波、水温、塩分、生物、堆積物、風、気温、気圧などについての知識が積み重ねられてゆく一方で、陸上での研究も進む。
文芸復興期に、海に強い関心を示したのはまずR・ボイルであり、R・フックである。ボイル‐シャルルの法則で知られるボイルは、海の研究課題として、潮汐、海流、波、海の深さ、水温、塩分、嵐が海に与える影響、海水の医療効果をあげている。また、フックの法則や光の性質をめぐってのニュートンとの論争などで知られるフックは、圧力を測って深さを求める深度計、自動記録計、採水器などを考案している。I・ニュートンの平衡潮汐論(静力学潮汐論)では現実の潮汐を説明できないが、のちにラプラスの動力学潮汐論によって潮汐理論はいちおう完成する。
18世紀の後半から19世紀にかけて、海洋研究は職業としてはまだとうてい存在できなかったけれども、海洋学という学問分野がしだいに形づくられようとしていた。今日の海洋学につながる重要な研究がいくつもある。例をあげると、初めての海水分析(1776年、ラボアジエLavoisier)、自記水温計(1794年、シクスSix)、メッセンジャー(海中に吊したワイヤやロープに沿って落下させ、下に吊り下げられた機器に当てて、機器を作動させる道具、1819年、マルセMarcet)、海水の密度を最大にする温度(1819年、Marcet)、深層大循環の仮説(1832年、レネルRennel)、コリオリの力(1835年、コリオリCoriolis)、転倒水温計と深層流速計の作成(1845年、エメAimé)などである。1865年には、海水の塩分は場所によって変わるが塩の主要成分の量の比はどこでも一定であることをフォルヒハマーJ. Forchhammerが発表している。比が一定であることは、のちにチャレンジャーが世界中で採取した海水を使ってディットマーWilhelm Dittmar(1833―1894)も確認した。1870年代にはドイツの高校教師ビッテE. Witteは、コリオリの力と海流の関係について、そして湾流の大陸寄り(下流に向かって左側)の水温が低い理由、大陸寄りから沖に向かって海面が高くなることについて、優れた理論を発表している。1901年にはM・H・C・クヌーセンは0℃の海水密度と塩分の間の関係式をつくり、翌年、フォルヒC. Forchは1気圧のもとで0℃以外の温度でも使える式をつくった。1908年にはエクマンVagn Walfrid Ekman(1874―1954)は密度に対する圧力の効果を明かにした。海水密度は海のいろいろな現象に大きな意味をもつが、20世紀の初めにようやく水温、塩分、圧力(深さ)から計算できることになった。
しかし、重要な研究結果がただちに海洋現象の解釈に結びついたわけではない。コリオリの力が海流に対して非常にたいせつな働きをしていることが広く認められるのは20世紀に入ってからであり、コリオリのパラメーターの緯度変化の効果(しばしばβ(ベータ)効果とよばれる)に気づくのは20世紀のなかばである。ビッテの理論はオーストリアの有名な気象学者マルグレスの式(1906)と内容は同じであり、海流の力学を最初に正しく述べたものであるが、当時は完全に無視された。1819年のマルセの研究ののちにも淡水と同じく「海水も4℃で密度が最大になる」と誤って広く信じられていた。海の生物や物理について300篇に近い論文を書いたカーペンターWilliam Benjamin Carpenter(1813―1885)ですら、「海水が冷えてゆくとき、凍るまで密度は増え続ける」ことを知ったのは1869年だった。
19世紀末から20世紀の初めにかけて海の研究の中心はスカンジナビア諸国とドイツだった。海水の運動については記述の段階から力学・物理学の段階へ移り始めた。
ナンセンは1893年から1896年にかけて観測船フラムで北極海を漂流していたとき、海の氷は風下に向かって流れず、風下に対して20度から40度くらい右に流れてゆくことに気づいた。ナンセンはV・F・K・ビャークネスにその解釈を求めた。ビャークネスは当時、気象学・海洋学の分野で世界の先端を走っていたノルウェー学派の指導者である。ビャークネスの弟子だったV・W・エクマンは、この流れの向きのずれをコリオリの力によって説明した。コリオリの論文が出てから70年もたっていたが、コリオリの力の重要性の一部が初めて、認められたのである。
探検航海とは、船を走らせて観測すれば、それまで知らなかった「何か」を知ることができる、という航海である。「何か」が何であるのか、観測してみなければわからない。しかし、探検航海によって知識が増えるにしたがって、観測について新しい考え方が芽生えていた。水温や塩分の分布や流れの様子は一定不変ではないことが明らかになり、1隻の船が長い時間をかけて広い海のごく一部を通過しながら、ときどき、ところどころで観測するというそれまでの方法では海の本当の姿をとらえることができない。多数の船を同時に、しかもあまり広くない海域に投入して、時間についても空間についても密な観測を行う必要がある。20世紀になって、海洋学はようやく一つの学問分野としての形を整えてきた。職業研究者も増えてきた。世界中で海洋研究の体制がしだいに整ってきたが、多くの船を同時に動かすことは、経費や技術や人手の点で1国だけで実行するのはむずかしく、国際協力・多国間協力が必要となる。
その第一歩は、1938年に北大西洋諸国とオーストリアが試みたアゾレス諸島海域の共同調査である。しかし、その翌年、第二次世界大戦が始まり、この共同調査は予備調査だけで終わった。
[半澤正男・高野健三]
日本にも海洋研究の気運が高まり、1920年(大正9)には海洋気象台(現、神戸地方気象台)が設立され、1925年には農林省水産講習所の蒼鷹(そうよう)丸が日本近海の観測を開始した。旧海軍の測量艦「満州」は1925年より1927年(昭和2)に、西太平洋で大観測を実施し、マリアナ海溝の満州海淵(かいえん)を発見している。第二次世界大戦までは、農林省の水産漁業調査、旧海軍の観測、海洋気象台の探究が大きな柱であった。農林省では北原多作らの1909年(明治42)からの漁業基本調査、1933~1941年(昭和8~16)の北西太平洋一斉調査がある。海軍水路部では1938年から1944年まで、西太平洋で広範な大観測を行った。戦前・戦中のことであまり知られなかったが、多数の艦船を動員しての総観的な規模の海洋調査で、第二次世界大戦後アメリカで実施した「オペレーション・キャボット」に先んじていた。
第二次世界大戦によって打撃を受けた日本の復興に伴い、海洋観測は中央気象台(現、気象庁)、戦中・戦後に設けられた函館(はこだて)、長崎、舞鶴(まいづる)、神戸の4海洋気象台(2013年、函館、長崎、神戸はそれぞれ地方気象台に組織改編、舞鶴海洋気象台は廃止)、海上保安庁水路部(旧、海軍水路部。現、海上保安庁海洋情報部)、農林省水産研究所(現、国立研究開発法人水産研究・教育機構の所轄)、水産講習所(のち東京水産大学。現、東京海洋大学)などによって行われ始めた。
[半澤正男・高野健三]
第二次世界大戦(1939~1945)中の戦時研究は戦後の海洋研究に大きな影響を及ぼした。
(1)第一次世界大戦の場合と同じく、潜水艦作戦がらみで水中音響技術が著しく進歩した。音の伝播(でんぱ)速度は海水の密度と圧力で決まり、密度と圧力は場所によって変わるから、音は水中を直進しない。音の道筋を知るために、密度分布、したがって水温・塩分分布を測る技術が進歩した。
海中では電波を使うことがむずかしいので、陸上での電波の役割をするのが水中では音波である。さいわい水中音速(約1500メートル/秒)は空中音速よりもずっと速いから、音は計測・通信には不可欠となった。
(2)陸上局から発射される電波を海上で受けて、海上での位置を知る方法(電波標定という)が戦後さらに改良されて、ロランA、ロランC、デッカ、オメガとなり、位置決定の精度が、それまでの天体測量法の精度よりもはるかによくなった。のちには航海衛星や全地球測位システム(GPS)によって位置の精度はさらに高くなり、観測点の位置が不確かという海洋観測の大きな弱みは消える。
(3)上陸作戦を行うために研究され、使われた波浪予報が、著しく改良された。
戦争で出鼻をくじかれた「多数の船による同時観測」は、1950年にアメリカが独自に湾流海域で実施した。ほかの国々に比べて国力が飛び抜けて高かったアメリカはこの観測に5隻の船を投入した。長い時間あるいは広い空間で平均すればある程度は整然と流れているように見える湾流は、このような同時観測を通して細かく見ると、その道筋や速さは絶えず変わっていることがわかった。
1950年代の終りころ、深層の弱い流れを測る目的で「中立浮き」という一種のラグランジュふう流速計(ほぼ一定の深さを流れに乗って移動する浮きを追跡し、浮きの移動速度、つまり流速、を求める機器。追跡には音を使う)がつくられ、北大西洋北部で使われた。深層の水もかなり速く流れていることがわかって、風が海流・大循環のおもな成因であるとする風成説は崩れてしまう。さらに、深層の流れが場所によっても時間によっても大きく変わることもわかった。その実態を理解するには流速の長期測定が必要なので1960年代にはソ連もアメリカも流速の長期測定技術の確立につとめた。ソ連がまず1970年に大西洋で狭い海域に史上に例のないほどの多くの流速計などの計測器を約7か月配置した。続いてアメリカはソ連を上回る規模の研究を翌年に始めた。これらの研究の結果、海は表層から深層まで直径が200~300キロメートルで10センチメートル/秒程度の速さで流れる渦(うず)だらけであることが初めてわかり、海水運動についてのそれまでの考え方は大きく変わった。ソ連が初めは「深海の嵐」とよんだこの渦を中規模渦という。
19世紀から続いてきた1隻の観測船による大探検航海は1950年ころから下火となり、世界一周航海はデンマークの観測船ガラテアの航海(1950~1952)のあとは日本が行ったのみである。1970年ころになると、研究目的を明確に定め、目的達成に向けて観測と陸上での(理論)研究を集中するという手法もとれるようになった。これを探検(expedition)に対して実験(experiment)という。実験室で繰り返すことができる実験とは意味が違う。実験ができるようになったのは、探検時代を通じて集積された膨大なデータに基づいて、さまざまな研究が行われ、海を理解するうえでの問題点がしだいに明かになってきたこと、計測法と計測器が著しく進歩したこと、電子計算機の性能が高くなって、以前にはとうてい扱えなかった複雑な問題をいちおうは扱えること、などによる。それまでは奇妙なことに観測と陸上での研究は別のもので、協力して研究目的の達成につとめることはなかった。20世紀の終りころから大きな国際研究がいくつも行われているが、その多くには実験の名がついている。
20世紀のなかばから、海を積極的に利用しようとする海洋開発、海洋汚染の防止あるいは海洋環境保全、海洋生物の多様性の保存、海と気候のかかわり、が大きな課題となった。世界中の海での、あるいはさらに海・陸・大気を含めて地球全体での水やエネルギーや炭素(二酸化炭素)や窒素などの物質循環が重要な研究対象となった。人類が抱える三つの大問題、エネルギー、食糧、水、のどれにも気候は密接にかかわっている。気候には海が密接にかかわっているので、気候を理解し、予測するためには海をよく理解しなければならない。気候は広い空間と長い時間にわたる現象だから、気候を念頭におく海の観測では、広い空間に長い時間にわたって計測器を展開する必要がある。そこで強力な手段となるのが人工衛星、海面あるいは海中を漂流する浮き、あるいは漂流しない係留浮きによる計測である。人工衛星は浮きから送られるデータを陸上に送る中継局でもある。計測法の進歩とインターネットは研究の形を変え始めた。20世紀のなかばすぎまで、観測の典型は、船に乗り、海中に計測器をおろしてデータをとり、陸上に戻って解析する、ということであった。今日では海に出ないで、人工衛星や浮きが集めるデータを机の上で容易に見ることができる。これらのデータは観測船によるデータと比べると莫大な量であり、種類によっては活用されずに放置されるデータは少なくない。初期の実験では、研究目的を定め、どのようなデータをどのようにしてとるか、という計画をたてることがたいせつだった。21世紀になって、膨大な量のデータを眺めながら研究目的を模索するという傾向すら生まれた。さらに、計算機の能力向上に伴い、数値シミュレーションという手法が広く、ときには安易に、使われるようになり、「海に出なければ海の研究はできない」は昔話となった。
[半澤正男・高野健三]
『加古里子著『海』(1969・福音館書店)』▽『『海洋学講座』全15巻(1972~1976・東京大学出版会)』▽『『小学館百科・別巻2 海洋大地図』(1980・小学館)』▽『友田好文・高野健三著『地球科学講座4 海洋』(1983・共立出版)』▽『野崎義行著『地球温暖化と海』(1994・東京大学出版会)』▽『松永勝彦・久万健志・鈴木祥広著『海と海洋汚染』(1996・三共出版)』▽『宇野木早苗・久保田雅久著『海洋の波と流れの科学』(1996・東海大学出版会)』▽『蒲生俊敬著『海洋の科学』(1996・日本放送出版協会)』▽『福地章著『海洋気象講座』(1997・成山堂書店)』▽『福谷恒男著『海洋気象のABC』(1997・成山堂書店)』▽『東海大学海洋学部編『宇宙から深海底へ――図説海洋概論』(1997・講談社)』▽『東京大学海洋研究所編『海洋のしくみ』(1997・日本実業出版社)』▽『池田八郎著『世界の海洋と漁業資源』(1998・成山堂書店)』▽『熊沢源右衛門著『新しい海洋科学』(1999・成山堂書店)』▽『寺本俊彦著『地球の海と気候』(2000・御茶の水書房)』▽『日本海洋学会編『海と環境』(2001・講談社)』▽『柳哲雄著『海の科学――海洋学入門』(2001・恒星社厚生閣)』▽『西村三郎著『チャレンジャー号探検』(中公新書)』▽『宇田道隆著『海』(岩波新書)』▽『佐々木忠義編『海と人間』(岩波ジュニア新書)』
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…地球上の陸地以外の凹所に水をたたえ,全体がひとつづきになっているところが海(海洋)である。それを満たす水が海水で,その塩分の組成率は,世界中ほぼ一定している。…
※「海洋」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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