インド洋に面した南アフリカ東部の港湾都市。人口は国内第3位の320万超。英植民地時代にサトウキビ農園が営まれ、19世紀後半以降、英領インドから多くの年季奉公労働者が移り住んだ。今もインド国外で最大の印僑コミュニティーとなっている。2002年、植民地主義からの解放をうたうアフリカ連合(AU)の第1回首脳会議が開かれた。
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南アフリカ共和国東部、クワズールー・ナタール州(旧ナタール州)南部の港湾都市。インド洋に臨む。人口113万7378(1991)で、人種別内訳は白人32万8183、カラード(混血)6万4876、アジア系57万5268、黒人16万9051。市域の人口59万5061(2011センサス)、大都市圏人口211万7650(1996)。モザンビーク海流の影響を受け、亜熱帯に属し暖かく、年降水量も999.4ミリメートルある。白人の入植は1824年のイギリス領ケープ植民地からの交易商人が始まりで、当初はポート・ナタールとよばれた。1830年代、入植者の増加とともに町は発展し、当時のケープ総督B・ダーバン卿(きょう)の名にちなみダーバンと改名された。19世紀後半、内陸部のウィトワーテルスランドで金鉱が発見され、ダーバンの港としての重要性は高まり、1890年代に金鉱地帯との間に鉄道が建設された。町はウムゲニ川とウムラース川の間にあり、港は天然の良港で貨物取扱量は南アフリカ共和国第2位である。街並みは碁盤目状に整然と並び、海岸沿いはリゾート地域で、ホテルが林立し、シティ・ホール、博物館、美術館、図書館をはじめ古い建物がある。また市内には植物園、競馬場のほか、背後の丘の上にはナタール大学がある。この港を通じて輸出される主要品目は鉄鉱石、砂糖、輸入品は石油、資本財などである。精糖、繊維、せっけん、ゴム、肥料、食品、石油精製などの工業もあり、とくに精糖業は同国第一である。
[林 晃史]
南アフリカ共和国東部,クワズールー・ナタール州の都市。人口66万9000(1996),大都市域人口113万7000(1991)。インド洋に面した同国最大の貿易港。ダーバン湾にのぞみ,鉄道で内陸のヨハネスバーグ,プレトリアなどと結ばれているほか,陸海空の交通通信網の中心である。南ア共和国の鉱工業や農水産業の生産物の積出港であるほかに,造船,船舶修理,自動車組立て,石油精製,その他各種工業が発達している。大学,博物館その他の学術文化施設も多い。インド洋に面した海岸は観光・保養地として知られる。1497年バスコ・ダ・ガマがこの地を訪れたが,1824年にイギリスから移民が入植するまでは,港としての開発は行われなかった。最初はポート・ナタールといわれたが,35年に当時のケープ植民地総督ベンジャミン・ダーバンにちなんで,ダーバンと改称された。42年オランダ系のボーア人に一時占領された。50年代に鉄道が建設され,港湾が拡張されて以後,商工業都市として急速に発展し,1908年には南アフリカ連邦を結成するための全国会議の開催地となった。南ア共和国では最もイギリス的な風習の強い都会であるとともに,インド人が全人口の約1/3を占めるのも特色である。
執筆者:西野 照太郎
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