アメリカの言語学者。1961年よりマサチューセッツ工科大学教授。1950年代中期より、一連の著述によって文法学界に革命をもたらしたといわれている。1988年(昭和63)認知科学分野での貢献により第4回京都賞(基礎科学部門)を受賞。
ペンシルベニア大学においてゼリッグ・ハリスZellig S. Harris(1909―1992)の下で構造主義言語学の教えを受け、ハリスの提唱した「変形」という概念を基礎にし、自身の変形生成文法理論を発展させた。学説は『文法の構造』Syntactic Structures(1957)において初めて公にされ、『文法理論の諸相』Aspects of the Theory of Syntax(1965)において、変形生成文法の標準理論といわれるものを完成させた。さらにその後も発展を続け、拡大標準理論を経て、『統率・束縛理論』Lectures on Government and Binding(1981)では、より有機的な理論を提示している。その後の展開においては、従来の規則や制約を取り除き、統語部門を、極端に簡略化された計算システムと考える方向を打ち出している(『ミニマリスト・プログラム』The Minimalist Program、1995年刊)。
チョムスキーは、構造主義言語学の限界を指摘し、その理論的基盤となっている経験主義哲学を批判しつつ、自身は合理主義哲学による言語観をよりどころに、より精神主義的な言語理論を展開した。とくに、子供の言語習得能力を生得的なものと仮定し、その習得能力の解明こそが言語理論の終極的な目標であるとしている。チョムスキーの影響力は言語学界のみならず、哲学、コンピュータ科学、心理学、そして社会学にと広範囲に及んでいる。しかし、言語能力を自律的かつ特殊な認知機能と考え、その追究を言語運用の問題から独立的に進めるチョムスキーの研究方法は、言語能力と他の認知機能との連続性を重視し、能力とその運用は切り離して考えられないとする多くの認知心理学者などには疑問視されている。
なお、彼は反戦運動その他の市民運動にも積極的で、この方面の著述活動も活発であり、思想家チョムスキーとしても知識人一般に広く知られている。
[柴谷方良 2018年7月20日]
『勇康雄訳『文法の構造』(1963・研究社出版)』▽『N・チョムスキー著、吉田武士・水落一朗訳『知識人の責任』(1969/改題改訂版『アメリカン・パワーと新官僚』1970・太陽社)』▽『安井稔訳『文法理論の諸相』(1970・研究社出版)』▽『N・チョムスキー、M・ハレ著、橋本万太郎・原田信一訳『現代言語学の基礎』(1972・大修館書店)』▽『ノーアム・チョムスキー著、いいだもも訳『お国のために1 ペンタゴンのお小姓たち』『お国のために2 国家理由か絶対自由か』(1975・河出書房新社)』▽『ノーアム・チョムスキー著、川本茂雄訳『知識と自由』(1975・番町書房)』▽『ノーアム・チョムスキー著、川本茂雄訳『デカルト派言語学――合理主義思想の歴史の一章』新版(1976・みすず書房)』▽『ノーアム・チョムスキー著、安井稔訳『生成文法の意味論研究』(1976・研究社出版)』▽『N・チョムスキー著、井上和子他訳『言語論――人間科学的省察』(1979・大修館書店)』▽『ノーム・チョムスキー著、河村望訳『知識人と国家』(1981・TBSブリタニカ)』▽『ノーム・チョムスキー著、安井稔訳『形式と解釈』(1982・研究社出版)』▽『N・チョムスキー著、井上和子他訳『ことばと認識――文法からみた人間知性』(1984・大修館書店)』▽『安井稔・原口庄輔訳『統率・束縛理論』『統率・束縛理論の意義と展開』(1986、1987・研究社出版)』▽『ノーム・チョムスキー著、田窪行則・郡司隆男訳『言語と知識 マナグア講義録(言語学編)』(1989・産業図書)』▽『ノーム・チョムスキー著、外池滋生・大石正幸監訳、北原久嗣他訳『障壁理論』(1993・研究社出版)』▽『ノーム・チョムスキー著、益岡賢訳『アメリカが本当に望んでいること』(1994・現代企画室)』▽『ノーム・チョムスキー著、川本茂雄訳『言語と精神』改訂新装版(1996/町田健訳・2011・河出書房新社)』▽『外池滋生・大石正幸監訳『ミニマリスト・プログラム』(1998・翔泳社)』▽『ノーム・チョムスキー、黒田成幸著、大石正幸訳『言語と思考』(1999・松柏社)』▽『ノーム・チョムスキー著、山崎淳訳『9.11 アメリカに報復する資格はない!』(2001・文芸春秋/文春文庫)』▽『ノーム・チョムスキー著、塚田幸三訳『「ならず者国家」と新たな戦争――米同時多発テロの深層を照らす』(2002・荒竹出版)』▽『ノーム・チョムスキー著、益岡賢、大野裕、ステファニー・クープ訳『アメリカの「人道的」軍事主義――コソボの教訓』(2002・現代企画室)』▽『ノーム・チョムスキー著、アドリアナ・ベレッティ、ルイジ・リッツィ編、大石正幸・豊島孝之訳『自然と言語』(2008・研究社)』▽『ノーム・チョムスキー著、福井直樹・辻子美保子訳『生成文法の企て』(2011・岩波書店)』▽『福井直樹編訳『チョムスキー言語基礎論集』(2012・岩波書店)』▽『チョムスキー著、福井直樹・辻子美保子訳『統辞構造論』(岩波文庫)』▽『ジョン・ライアンズ著、長谷川欣佑・馬場彰訳『チョムスキー』(1985・岩波現代選書)』▽『今井邦彦編『チョムスキー小事典』(1986・大修館書店)』▽『原口庄輔・中村捷編『チョムスキー理論辞典』(1992・研究社出版)』▽『N・スミス、D・ウィルスン著、山田義昭・土屋元子訳『現代言語学――チョムスキー革命からの展開』(1996・新曜社)』▽『ロバート・F・バースキー著、土屋俊・土屋希和子訳『ノーム・チョムスキー 学問と政治』(1998・産業図書)』▽『田中克彦著『チョムスキー』(岩波現代文庫)』
アメリカの言語学者,思想家。言語学史上の一大革命ともいうべき〈生成文法理論〉の提唱者。数学,哲学,心理学や政治・社会問題に関しても,注目すべき所論がある。マサチューセッツ工科大学(MIT)教授。
フィラデルフィアの生れ。ペンシルベニア大学で言語学を専攻,とくにシンタクスへの関心を高め,《言語理論の論理構造》(1955),《文法の構造》(1957)を著して,斬新な〈生成文法〉の考え方を唱えた。すなわち,文法とは〈その言語の文をすべて,かつそれだけをつくり出す(生成する)ような規則の体系〉であるとし,その構築を目ざそうというもので,彼自身,まず英語を例に,あたかも数式のようなフォーマルな規則(〈変形〉と呼ぶ規則など)を多数掲げて見せた。やがてこれに刺激されて同様の方法に拠る研究を競う者が漸増,この間,彼自身も〈意味論や音韻論も含めた総合的な体系としての文法の構築〉〈各言語の文法に普遍的な性質の究明〉などいっそう高い目標を追加し,また体系の具体的な枠組みの発展的修正を自ら次々と提唱して,たえずこの理論を導き,研究の質も著しく深まって,今日では言語学の一大潮流となっている。この方面の専門書には,前掲2書のほか《文法理論の諸相》(1965),《統率と束縛》(1981)などがある。
また彼は,この理論の初期の頃,その具体的な方針を検討することとの関連において,文法の数学的モデルを幾通りか立て,それらの純粋に数学上の見地からの研究も併せて行った。プログラム言語との関連やオートマトンとの対応を浮かび上がらせたその興味深い成果は,数学者の注目するところとなり,これを端緒に人工言語に関する数学上の研究が発展,〈形式言語理論〉などと呼ばれて数学の一分野をなすにいたっている。つまり彼はこの分野の創始者でもあるわけだが,彼にとっては,こうした研究の主旨は〈いやしくも人間の言語の文法を構築するには,マルコフ過程などの単純なモデルでは不適切で,“変形”が必要だ〉と論証することにあったようで,そののち彼自身はこの方面から離れている。
さて,生成文法理論は前述のようにフォーマルな規則を用いるため,やはり〈数学的〉と評されることがあるが,こちらは(上の形式言語理論とは異なり)あくまでも人間の言語に関する経験科学(つまり言語学)である。しかも彼は,そうした規則の体系としての文法--有限個の規則から無限個の文を生成し得る〈創造的〉な仕組み--は,単なる理論上の仮構ではなく,実際に言語使用者の〈知識〉として(自覚はされていなくとも)心理的に実在すると考え(併せて,従来の機械的な〈構造言語学〉への批判にも及ぶ),人間は,幼児期にこの文法の〈知識〉を形成し得るような〈生得的言語能力〉を備えていると見る。というのも,各言語は表面的な語順等こそ違うものの,それぞれの文法を十分にフォーマライズし,さらに抽象度の高い観点を加えて究明すると,思いのほか興味深い共通点が見いだされるのであり,〈およそ人類の言語の文法である以上は,どの言語の文法も備えている普遍的な性質(法則性)〉というものが存すると思われる。そうした性質を幼児は生得的に承知しているに違いない(だからこそ,複雑な文法を容易に習得できるのだ)というわけである。もちろん文法の形成には,生得的能力のほかに,幼児期に周囲の人の言語に接する経験も必要だが,後者だけで十分だとする論には従えないという趣旨で,哲学者らによる伝統的な〈合理論(理性論)〉対〈経験論〉の論議については前者を支持する。以上のように,言語には創造性と法則性の両面が認められるが,彼はさらに,言語に限らず,人間の各種の認知(パターン認識や芸術の創造等々)の研究においても,同様に,まず各種の認知体系(文法にあたるもの)それ自体を究明し,さらにその体系の習得(形成)の過程やそれを可能にする背後の生得的認知能力(これにはさらに生理学的な基礎があろう)を探り,併せてそれら各種の認知体系(文法も含めて)の間の相互作用を明らかにする,という方針に立った自然科学的な方法を採るべきだと提案する。こうして,種(しゆ)としての人間--その精神の創造性と法則性--を究明しようというわけで,言語学も〈認知心理学〉の一分野,ひいては〈人間科学〉(人間性の科学)の一分野と位置づける。それとともに,認知体系それ自体を問わずに刺激と反応だけを問題にする〈行動主義〉の方法を批判する。このように彼の論は言語学のみならず,いわゆる哲学,心理学にも及び,これら諸学(のうち少なくともある部分)を〈人間科学〉として統合樹立すべしとの構想のようである。しかも,以上の諸主張を,彼は哲学上の主義などとしてではなく,あくまでもその説明力を実際に検証すべき科学上の仮説として提出するのであり,科学への指向はたいそう強い。と同時に,人間の科学形成能力そのものも,人間の生得的認知能力の枠内にとどまるのだとして,その特質・限界にも注意を向ける。生成文法理論を中心に,哲学,心理学にも踏み込んだ著作には,《言語と精神》(1968),《言語論》(1975)などがある(前者は比較的平易な啓蒙書)。
上のような見方を踏まえて,彼はまた,人間(民衆)の自由な創造性が最大限に発揮されるような世界を理想とする世界観に立ち,政治・社会問題に関しても,平和・人権を擁護する趣旨の著作を多数発表してきた。特に,ベトナム戦争に象徴されるようなアメリカの自己中心的な〈力の政策〉とその担い手である官僚の姿勢を強く批判,さらに,これを助ける役割を果たしてきた知識人の責任をも論じる。同戦争当時は自ら反戦活動に参加し逮捕された経験ももつが,立論自体はきわめて実証的で,イデオロギーには偏せず,共産圏の官僚主義への批判も鋭い。言語学,哲学や政治・社会の諸問題に触れつつ世界観を示した講演の記録に《知識と自由》(1971)がある。
以上のように多方面にわたるチョムスキーの業績を,あえてその共通項を探りつつ総観するならば,結局のところ,人間性あるいは人間の尊厳を尊ぶ姿勢(そして,一方では人間の能力の限界にも留意しつつ,その人間性の何たるかを精一杯科学しようとする態度)のすぐれて強い,良識ある天才のイメージが浮かび上がってくるように思われる。彼が各方面で批判の対象としてきたものを,〈経験論〉〈行動主義〉〈構造言語学〉〈マルコフ過程の文法モデル〉〈力の政策〉〈官僚主義〉と列挙してみても,批判の背後に,人間の尊厳への彼の思いの深さを見いだすことができよう。
→生成文法
執筆者:菊地 康人
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…自然言語の分析に関する学問には,音素とその結合を扱う音韻論phonology,音素結合あるいは語の形態を論ずる語形論morphology,文の構成規則を明らかにする構文論syntax,および文の意味を扱う意味論semanticsがある。これらのうち,構文論の分野で1956年ころ,アメリカの言語学者チョムスキーが構文規則に対して数学モデルを与えたことにより,言語が厳密に形式化されるにいたった。この数学モデルは生成文法ともいわれ,人間の言語生成能力を,国語によらず統合的に説明するものとして注目を集め,以来,数学的文法論を展開する形式言語理論の研究が盛んになった。…
…言語の構造(文法)を調べることにより,人間は自らの脳の構造を調べることができると主張したのはチョムスキーであった。単に文法を説明的に記述するのと異なり,膨大な(理論的には無数の)数の文を生成できるような,わずかな数の規則を見出すこと,その規則の集合をさらにできるだけ単純で抽象的な,あらゆる言語の基本になるような構造に収束させ記述することが,生成文法理論の目標である。…
…1950年代中ごろにアメリカの言語学者N.チョムスキーが提唱し,以後,各国の多くの研究者の支持を集めている,文法の考え方。文法とは,〈その言語の文(文法的に正しい文)をすべて,かつそれだけをつくり出す(しかも,各文の有する文法的な性質を示す構造を添えてつくり出す)ような仕組み[=規則の体系]〉であるとし,その構築を目標とする。…
…したがってまた,〈よりよい体系〉とは何かという基準もはっきりせぬまま,各学者がいわばそれぞれの嗜好に応じて各人各様の文法体系を主張してきたわけである。しかし,近年に及んで(1950年代半ば),アメリカの学者N.チョムスキーは,〈その言語の文をすべて生成する(つくり出す),かつ,それだけを生成する(つまり非文は生成しない)〉ことを目標に据え,これを達成するような文法体系の構築を図るべきだとする〈生成文法〉の考え方を提唱,自らその具体的な理論を素描して見せた。数式のようなフォーマルな規則を駆使し〈数学的言語学〉とも呼ばれるその理論には,心情的に抵抗を示す向きもあるものの,今日ではすでに各国の多数の文法学者が依拠するにいたっている。…
※「チョムスキー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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