デュファイ

デジタル大辞泉 「デュファイ」の意味・読み・例文・類語

デュファイ(Guillaume Dufay)

[1400ころ~1474]フランドル作曲家。ルネサンス音楽の形式確立に貢献し、ミサ曲モテットシャンソンなどを多数作曲。

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精選版 日本国語大辞典 「デュファイ」の意味・読み・例文・類語

デュファイ

  1. ( Guillaume Dufay ギヨーム━ ) フランドルの作曲家。ルネサンス音楽の形式確立に貢献し、ミサ曲・モテット・シャンソンなどを多数作曲。(一四〇〇頃‐七四

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百科事典マイペディア 「デュファイ」の意味・わかりやすい解説

デュファイ

フランドル出身のブルゴーニュ楽派の作曲家。中世からルネサンスへの音楽の転換に大きな業績を残した。1409年からフランスのカンブレー大聖堂の少年聖歌隊員として音楽修業を積んだのちイタリアに赴く。リミニペーザロの領主マラテスタ家に数年間仕え,イタリアのポリフォニー音楽を知る。ボローニャを経て1428年−1433年ローマの教皇礼拝堂聖歌隊歌手として活躍し,名声を高めた。1434年からはサボイア公(サボイア家)のもとで宮廷礼拝堂楽長を務める一方,教皇の聖歌隊に再び加わり,フィレンツェ,ボローニャ,フェラーラ歴訪。1440年以降はカンブレーを中心に活動した。作品にはミサ曲,モテットなどの宗教曲,フランス語やイタリア語による世俗声楽曲があり,各地の音楽語法を融合したその書法は,フランドル楽派によって発展する声楽様式の基礎を築いた。とりわけミサ曲では,イギリスのダンスタブルらの書法と大陸の書法を統合して〈循環ミサ曲〉(ミサ曲)の形式を確立した功績が大きく,また4声部書法の確立にも重要な役割を担った。代表作として,自作のシャンソンの旋律を用いたミサ曲《顔が青ざめているなら》が知られる。→オケヘム
→関連項目シャンソンバンショア

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改訂新版 世界大百科事典 「デュファイ」の意味・わかりやすい解説

デュファイ
Guillaume Dufay
生没年:1400ころ-74

フランドル生れのブルゴーニュ楽派の作曲家。フランスのカンブレ大聖堂の少年聖歌隊員として音楽教育を受けた後イタリアに向かい,1420年ころから26年までペーザロのマラテスタ家に仕えた。しかし北方との関係も保ち,ブルゴーニュ宮廷とも接触している。28-33年にはローマの教皇礼拝堂聖歌隊歌手として名声を博した。34年からはおもにサボイア公の宮廷で,40年以降はカンブレを中心に活動を続けた。このように国際的に活躍したデュファイは各地の音楽要素を習得し,それらをミサ曲およびモテット等の宗教曲や各国語による世俗曲において融合し,次の時代に普遍的となる声楽様式の基礎を築いた。とくにミサ曲では,ミサ通常文全体を定旋律や冒頭動機で音楽的に統一する作曲法を確立し,同時に4声部書法の確立にも重要な役割を果たした。また,定旋律には世俗的な旋律も使われ,とくに《顔が青ざめているならSe la face ay pale》によるミサ曲は傑作である。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「デュファイ」の意味・わかりやすい解説

デュファイ
でゅふぁい
Guillaume Dufay
(1400ころ―1474)

フランドルの作曲家。現在の北フランスにあるカンブレーまたはその近郊に生まれる。10代の後半にイタリアに出、リミニおよびペザロを支配したマラテスタ家に仕えた。1428年以後、ローマ教皇庁聖歌隊およびサボア公の宮廷において活躍し、39年からはカンブレー大聖堂で参事会員として活動した。50年代にはふたたびサボア公の宮廷に仕えたが、58年にカンブレーに戻り、死ぬまでそこで過ごした。

 いわゆるブルゴーニュ楽派中最大の作曲家であるデュファイは、ミサ曲、モテトゥス、フランス語シャンソン、イタリア語歌曲など多数の作品を残したが、ミサ曲では、それまでイギリスと大陸でそれぞれ独自に展開されてきた技法を融合し、新しい「循環ミサ曲」の形態を確立して、ルネサンス音楽の開拓者となった。モテトゥスなどの宗教曲では、新しい作風で書かれた作品と、14世紀以来の保守的な技法による作品とが混在している。世俗曲の分野では、中世的なブルゴーニュ宮廷文化の性格が強く現れているが、次代への発展の可能性をうかがわせる要素もいくつかみられる。

[今谷和徳]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「デュファイ」の意味・わかりやすい解説

デュファイ
Dufay, Guillaume

[生]1400頃.カンブレー
[没]1474.11.27. カンブレー
ブルゴーニュ楽派の作曲家。カンブレー大聖堂の少年聖歌隊で教育を受けたのち,1420~26年イタリアのマラテスタ家に仕え,28~33年および 35~37年ローマ教皇庁歌手として活躍。その後サボイア公に仕えたといわれるが,晩年はカンブレーに戻り,司教座聖堂参事会員の地位を得て,死ぬまで作曲にあたった。 G.バンショアとともに,ポリフォニーの技法を高度に発展させる一方,J.ダンスタブルらのイギリス音楽をも吸収して,15~16世紀の古典的声楽ポリフォニーの基礎を確立し,ルネサンス音楽の開拓者となった。作品はミサ曲,シャンソンほか。

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世界大百科事典(旧版)内のデュファイの言及

【音楽】より

…14世紀に芽生えたルネサンス的ないぶきは15世紀前半になってさらに強まる。ブルゴーニュ公国の宮廷やその広大な領土内で活躍した一群の作曲家をブルゴーニュ楽派というが,その代表者G.デュファイとG.バンショアは,J.ダンスタブルを中心とするイギリス音楽から大きな刺激を受け,ミサ曲やフランス語のシャンソンの分野で豊かな成果を生んだ。特に,古くからイギリス人が好んだ3度や6度の音程を採り入れ,その後西洋音楽の基礎となる3度和声を確立したことが重要である。…

【シャンソン】より

…マショー以後,14世紀末から15世紀前半にかけての音楽家チコニアJohannes Ciconia(1335ころ‐1441),マテウス・デ・ペルージオMatheus de Perugio(?‐1418以前),コルディエBaude Cordierらの歌曲には,シンコペーションやポリリズムを多用した複雑な様式からいっそう単純化した様式への推移が見られる。 15世紀,G.デュファイ,G.バンショアに代表されるブルゴーニュ楽派の時代に入り,世俗歌曲の呼称としてようやく〈シャンソン〉の語が定着する。およそ70曲のデュファイのシャンソンはほとんどが3声で,最上声部優先の傾向は保持しつつ,下声部にも歌いやすい音型が与えられてほぼ全声部が対等に扱われ,抒情豊かな洗練された旋律が歌われるようになる。…

【定旋律】より

…聖歌定旋律はまた,16~17世紀の典礼用オルガン曲にも用いられた。定旋律の第2のタイプはそれぞれの時代に流行した俗謡あるいは多声シャンソンの一部で,デュファイのミサ曲《顔が青ざめているなら》(1450ころ)以来,15世紀後半から16世紀にかけて多数のミサ曲にその例を見ることができる。俗謡《ロム・アルメL’homme armé(戦士)》は特に好まれ,デュファイ,ジョスカン・デ・プレ,オケヘムなど,15~16世紀の30以上のミサ曲に定旋律として用いられた。…

【ブルゴーニュ楽派】より

…ときにフランドル楽派の第1期と呼ばれることもある。代表的な作曲家にはバンショアデュファイがいる。現在のブルゴーニュはディジョンを中心とするフランス東部地方を指すが,1363年から1477年まではバロア家が治める公国であった。…

【ルネサンス音楽】より

…後者の影響をたぶんに受けて成立したブルゴーニュ楽派は,中世の形式や作曲法を一部受け継ぎながらも,新鮮な感覚と素直な芸術的表現によって,まったく新しい音楽様式を確立し,国際的活躍によってその様式をヨーロッパ各地に流布した。代表的作曲家デュファイはフォーブルドンfauxbourdon技法(3声部の楽曲において,記譜された上・下声部の間隔が6度または8度からなるように作曲されており,中声部は上声部の完全4度下を演奏する。その結果,6の和音の連続が多く生ずる)をはじめとする新しい作曲技法を案出し,定旋律やモティーフで各章の統一を図った循環ミサ曲形式によって代表される均衡のとれた楽曲構成を完成した。…

※「デュファイ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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