ハンフリー(読み)はんふりー(英語表記)Doris Humphrey

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ハンフリー」の意味・わかりやすい解説

ハンフリー
Humphrey, Hubert Horatio

[生]1911.5.27. サウスダコタウォーレス
[没]1978.1.13. ミネソタ,ウェイバリー
アメリカの政治家。 1939年ミネソタ大学卒業後,ルイジアナ大学で博士号を取得。その後,同大学で政治学を教え,42年ミネソタ州戦時役務計画責任者,ラジオニュース解説者などを経て,44年 F.ルーズベルトのミネソタ州選挙事務長をつとめた。 45年ミネアポリス市長,48年上院議員,61年民主党上院院内副総務となり,核兵器不拡散条約 (1963) ,公民権法 (64) の成立に尽力。 65~68年 L.ジョンソン政権の副大統領をつとめ,民主党リベラル派の旗手と目されていたが,大統領のベトナム政策を立場上支持したため,リベラル派としての影が薄れ,68年の大統領選挙で共和党の R.ニクソンに敗れる結果となった。その後エンサイクロペディア・ブリタニカ社の役員となり,同社の教育事業に参画。 70年上院に返り咲き,各種の進歩的立法を推進。 72年民主党大統領指名候補に名のりをあげたが,G.マクガバンに敗れた。癌で死去する前に,上院は前例のない上院副議長のポストを設けて,その功に報いた。

ハンフリー
Humphrey, Doris

[生]1895.10.17. イリノイオークパーク
[没]1958.12.29. ニューヨーク
アメリカの舞踊家。アメリカのモダン・ダンスを創設した一人。社交ダンスの教師を経て,1917~28年デニショーン舞踊団主役を演じた。 20年頃から振付を始め,28年 C.ワイドマンとともに新しい舞踊創造を目指して,ハンフリー=ワイドマン舞踊団を創設。バランスとアンバランスの関係から舞踊の振付術を考案し,モダン・ダンスの体系化に努めた。 45年病気のため引退し,ホセ・リモン舞踊団の芸術監督に就任。代表作に『イグナシオ・サンチェス・メヒアスへの哀歌』 (1946) ,『デイ・オン・アース』 (47) などがある。著書『舞踊創作法』 The Art of Making Dances (59) 。

ハンフリー
Humphrey, George

[生]1889.7.17. ケント,バウトン
[没]1966.4.24. ケンブリッジ
イギリスの心理学者。 W.ブントに師事し,クイーンズ大学教授となり,第2次世界大戦中カナダ陸軍で人事研究従事。その後オックスフォード大学教授。学習および思考の研究で著名。主著『学習の本質』 The Nature of Learning (1933) ,『思考』 Thinking (51) 。

ハンフリー
Humfrey, Laurence

[生]1527頃
[没]1591.2.1.
イギリスのプロテスタント神学者。 1560年オックスフォード大学教授。マグダレン・カレッジ学長 (1561~90) ,オックスフォード大学副総長 (71~76) をつとめたのち,ウィンチェスターの監督 (80~90) 。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ハンフリー」の意味・わかりやすい解説

ハンフリー(Hubert Horatio Humphrey)
はんふりー
Hubert Horatio Humphrey
(1911―1978)

アメリカの政治家。サウス・ダコタ州に生まれる。ミネソタ大学に入るも大恐慌で退学。のちにデンバー薬科大学を卒業。その後ミネソタ大学に復学。ルイジアナ州立大学を経て大学で教鞭(きょうべん)をとる。1943年ミネアポリス市長選に出馬、敗北。その後、同州民主党と農民・労働党の統一に貢献、1945年ミネアポリス市長に当選。リベラルな市長として注目される一方、民主農民労働党からの共産主義の影響力排除、反共リベラルの全国組織「民主的行動のためのアメリカ人」の設立に加わる。1948年、民主党政綱に公民権政策を盛り込ませ上院議員に当選、議会での公民権法案の成立に貢献した。1964年にはジョンソン大統領の下で副大統領に当選、同大統領のベトナム戦争政策に関与する。1968年にはジョソン大統領選挙不出馬声明を受けて、民主党大統領候補に指名されたが、ベトナム戦争の終結を公約したニクソンに惜敗。

[牧野 裕]


ハンフリー(Doris Humphrey)
はんふりー
Doris Humphrey
(1895―1958)

アメリカの女性舞踊家、振付者。M・グレアム、H・ホルムなどとアメリカのモダン・ダンスを創設した1人。イリノイ州オークバークに生まれる。デニショーン舞踊団のソリストとして活躍、大正末に二度来日している。1928年にワイドマンとハンフリー‐ワイドマン舞踊団を設立したが、病気のため45年解散。ホセ・リモン舞踊団の芸術監督になり、『イグナシオ・サンチェス・メヒアスへの哀歌』(1946)、『廃墟(はいきょ)のビジョン』(1953)、『ブランデンブルク協奏曲』(1959)などを振り付けた。グレアムのドラマチックなものへの志向と異なり、彼女は舞踊の原理をバランスとアンバランスの関係からとらえた。著書に『舞踊創作法』(1959、没後刊)がある。

[市川 雅]

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