日本大百科全書(ニッポニカ) 「ゲイ・リュサック」の意味・わかりやすい解説
ゲイ・リュサック
げいりゅさっく
Joseph Louis Gay-Lussac
(1778―1850)
フランスの化学者、物理学者。リモージュに近い小村で生まれる。創立まもないパリのエコール・ポリテクニク(理工科大学校)に入学(1797)。卒業後、土木橋梁(きょうりょう)学校に入ったが、途中で師のベルトレの実験助手となり、1810年にエコール・ポリテクニクの化学教授となった。また1809~1832年、パリ大学理学部物理学教授も兼ねた。
最初の業績は、気体の温度と体積に関するゲイ・リュサックの法則で、1802年に発表された。シャルルの法則とよばれることもあるが、すべての気体に一般化したのはゲイ・リュサックで、膨張係数を0.00375とした。
1804年、気球による上昇飛行に挑み、二度目の飛行では単独で7000メートルを超える記録を打ち立てた。その際、地磁気を測定したり、また大気を採取してその組成割合が地上と同じであることをみいだした。1805年には、フンボルトとともに行った実験で、水の生成において、酸素と水素は体積比がほぼ1対2の割合で結合することを確認した。3年後の1808年には、他の気体どうしでも簡単な体積比で結合することを確かめ、気体反応の法則として一般化した。
1807年にデービーが電気分解によりアルカリ金属を得ることに成功すると、同僚のテナールとともに電気分解の実験に取り組んだ。彼らは、電気的でなく化学的方法によるナトリウムとカリウムの遊離にも成功し、今度はこのカリウムを使ってホウ酸を分解し、ホウ素を得た。しかし、塩素とヨウ素が元素であると断定したのはデービーのほうが先であった。1815年、青酸の構成元素を正しく決定したのち、シアン化水銀を熱することによりシアンを初めて遊離した。
有名になるにしたがって、公共機関や私的産業関係の役職も兼ねるようになり、関心がしだいに応用部門に移っていった。たとえば「浮き秤(ばかり)」を改良してアルコール濃度をより正確に決定できるようにし、酒類の表示に百分率(度)が使われるようにした。また、造幣局のために、それまで使われていた灰吹(はいふき)法にかわって、容量分析によって合金中の銀の含有量をより正確に決定できるようにした。硫酸製造を合理的かつ経済的にするために、酸化窒素回収を可能としたゲイ・リュサック塔を1820年代後半に考案した。そのほか、フランスの化学工業の発展のためにいろいろと力を尽くした。
[吉田 晃]