ノーマン(読み)のーまん(英語表記)Jessye Norman

日本大百科全書(ニッポニカ) 「ノーマン」の意味・わかりやすい解説

ノーマン(Jessye Norman)
のーまん
Jessye Norman
(1945―2019)

アメリカソプラノ歌手。ジョージア州オーガスタ生まれ。少女時代より教会の聖歌隊などで歌い、ローザ・ポンセルRosa Ponselle(1897―1981)やマリアン・アンダーソンを聴いていたノーマンは、黒人霊歌の世界に親しみながらピアノを学んだが、将来は医学の道に進もうと考えていた。ワシントン市のハワード大学で声楽を学び、ボルティモアピーボディ音楽院を経てミシガン大学でピエール・ベルナックPierre Bernac(1899―1979)などに師事する。

 1968年ミュンヘン国際音楽コンクール声楽部門で優勝。翌1969年ベルリン・ドイツ・オペラと契約、『タンホイザー』のエリーザベート役でデビュー。その後ベルリン音楽祭で『フィガロの結婚』に出演、大成功をおさめる。以後、イタリアやイギリスなどに招かれるようになり、世界の主要歌劇場で活躍する。1983年には、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場100周年記念期間中に、ベルリオーズのオペラ『トロイの人々』に出演、高い評価を受ける。

 日本には1985年(昭和60)に初来日。その後も来日コンサートを数多く開く。1995年(平成7)東京で行われた「ブーレーズフェスティバル」でアルバン・ベルクの歌曲を歌った彼女の歌声は、聴衆に深い感銘を与えた。また、ノーマンはオペラへの出演ばかりでなく、コンサート活動も世界各国で行い、ドイツ歌曲からフランス歌曲、またアンコールには必ず黒人霊歌を歌うなどレパートリーは幅広い。

 彼女の輝くようなソプラノは力強く、同時にまた繊細でささやくようで、聴くたびに大きな衝撃と深い感銘を与えてくれるノーマンは現代最高のソプラノ歌手であり、史上最高のアーティストの一人であると評され、1989年のレジオン・ドヌール勲章をはじめ、数々の賞、称号を贈られる。1996年のアメリカ、アトランタ・オリンピック開会式ではテレビ中継を通じて全世界に彼女の歌声が流れた。

[小沼純一]


ノーマン(Egerton Herbert Norman)
のーまん
Egerton Herbert Norman
(1909―1957)

カナダの歴史家、日本研究者、外交官。カナダ・メソジスト派の牧師ダニエル・ノーマンの子として、1909年(明治42)9月1日長野県に生まれ育つ。1929年カナダ、トロント大学ビクトリア・カレッジ入学、のちイギリス、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに学び、さらにトロント大学大学院、ハーバード大学コロンビア大学などで日本史、中国史を研究した。1939年カナダ外務省に入り、1940年から1941年まで東京のカナダ公使館に勤務、太平洋戦争勃発(ぼっぱつ)後、交換船で帰国した。戦後ふたたび来日して占領軍総司令部、駐日カナダ代表部、極東委員会、対日理事会などで活躍、占領政策にも影響を与えた。その間、太平洋問題調査会(IPR)や進歩的アジア問題誌『アメレシア』などにより著作活動を展開、『日本における近代国家の成立』(1940、邦訳1947)、『日本における兵士と農民』(1943、邦訳1947)などで、「講座派」の影響を受けつつも広く深い歴史的教養と「無名のものへの愛着」に裏打ちされた独自の歴史叙述により日本研究の第一人者としての地歩を築くとともに、都留重人(つるしげと)、丸山真男(まさお)らの学者文化人と交遊し、戦後日本の歴史学界にも広い影響を与えた。のちカナダ外務省極東部長、情報部長などを経て1956年エジプト駐在大使となり、スエズ運河国有化問題に尽力中、アメリカのマッカーシズム(赤狩り)の嵐(あらし)にさらされ、ついに1957年4月4日カイロで自殺した。

[岡 利郎]

『『特集ハーバート・ノーマン』(『思想』1977年4月号所収・岩波書店)』『大窪愿二編訳『増補 ハーバート・ノーマン全集』全4巻(2001・岩波書店)』『加藤周一著『ハーバート・ノーマン――人と業績』(2002・岩波書店)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ノーマン」の意味・わかりやすい解説

ノーマン
Norman, Edgerton Herbert

[生]1909.9.1. 軽井沢
[没]1957.4.4. カイロ
カナダの歴史家,外交官。 1935年ケンブリッジ大学卒業後,ハーバード大学で日本と中国の研究に従事し,39年『日本における近代国家の成立』 Japan's Emergence as a Modern Stateで博士号を取得。同年カナダ外務省に入り来日。 42年に交換船で引揚げるまで東京に駐在。 45年9月連合軍司令部の対敵情報部調査分析課長として再び来日。 46年日本駐在カナダ代表部首席,49年日本駐在カナダ公使。サンフランシスコ対日講和会議ではカナダ代表団首席随員として,L.ピアソン外相の補佐役をつとめ,53年ニュージーランド駐在高等弁務官,56年エジプト駐在カナダ大使兼レバノン駐在カナダ公使となった。彼の最大の業績は歴史学者として日本史研究に新しい局面を開いたことで,最も卓越した日本史学者の一人。著書はほかに『忘れられた思想家-安藤昌益のこと』 Ando Shoeki and the Anatomy of Japanese Feudalism (1949) など多数。

ノーマン
Norman, Marsha

[生]1947.9.21. ルイビル
アメリカの劇作家。ルイビル大学などで学ぶ。 1970年代から地域演劇活動を行い,1977年過去と折合いをつけようと苦闘する元女囚を描いた"Getting Out"で注目される。その後,自殺を決意した娘と,それを止めようとする母の葛藤を写実的に描写した『おやすみ,かあさん』 Night,Mother (1982) でブロードウェーに進出,ピュリッツァー賞を受賞した。近年の作品には,ミュージカル『秘密の花園』 The Secret Garden (91,トニー賞受賞) の脚本がある。

ノーマン
Norman, Montagu Collet

[生]1871.9.6. ロンドン
[没]1950.2.4. ロンドン
イギリスの銀行家。イートン大学,キングズ・カレッジに学ぶ。 1900~01年南アフリカに従軍し勲功を立てる。 16年イングランド銀行の総裁代理補佐,18年に総裁代理,20年以降 24年間にわたって総裁をつとめた。第1次世界大戦後の経済問題を処理し,各国の中央銀行,特にアメリカの銀行との関係を発展させた。 44年の退職に際して,ケント県セントクレアのノーマン男爵の称号を受けた。

ノーマン
Norman

アメリカ合衆国,オクラホマ州中部の都市。オクラホマシティーの南約 25kmに位置する。 1889年,この地方が白人入植者に開放されたとき,テント村として発足した。周辺に広い農業地帯をもち,家畜,酪農産物の集散地。商業の中心地でもあり付近に油田がある。軽工業も立地。 92年創立のオクラホマ大学がある。人口 11万925(2010)。

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