ノーマン(その他表記)Edgerton Herbert Norman

デジタル大辞泉 「ノーマン」の意味・読み・例文・類語

ノーマン(Edgerton Herbert Norman)

[1909~1957]カナダの日本史研究家・外交官。宣教師の子として日本で生まれた。第二次大戦後、駐日カナダ代表部主席。エジプト大使在任中、マッカーシズムに抗議して自殺。著「日本における近代国家の成立」「忘れられた思想家―安藤昌益のこと―」など。

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精選版 日本国語大辞典 「ノーマン」の意味・読み・例文・類語

ノーマン

  1. ( Herbert Norman ハーバート━ ) カナダの日本史研究家、外交官。一九四六年から五〇年まで、駐日カナダ使節団主席をつとめた。リベラリズムの立場から日本近代史を研究。エジプト大使在任中、自殺。主著「日本における近代国家の成立」。(一九〇九‐五七

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改訂新版 世界大百科事典 「ノーマン」の意味・わかりやすい解説

ノーマン
Edgerton Herbert Norman
生没年:1909-57

カナダの歴史学者,外交官。牧師D.ノーマンの子として日本に生まれ,15歳まで日本に滞在した。トロント大学ケンブリッジ大学ハーバード大学で日本史,中国史を学ぶ。1939年カナダ外務省に入り,40年から41年まで東京のカナダ公使館に勤める。第2次大戦開戦後交換船で帰国したが,戦後再び来日し,駐日カナダ代表部,極東委員会,対日理事会で活躍する。この間,都留重人丸山真男らの歴史学者,文化人と交友をもつ。50年帰国し,外務省極東局長,情報局長を歴任,51年の対日講和条約では首席随員に選ばれる。54年8月エジプト大使に就任したが,おりから高まったアメリカの〈アカ〉攻撃に抗議して,57年4月カイロで自殺した。

 ノーマンは《日本における近代国家の成立》(1940),《日本における兵士と農民》(1943)の2著で欧米での日本近代史研究者としての評価を高めた。〈明治時代の政治的・経済的問題〉の副題をもつ《日本における近代国家の成立》において彼は,〈明治変革の特質のうち,現代日本の経済,政治ならびに外交政策を大きく規定したところのものを選び出してこれを分析し〉,その変革過程を明治憲法制定による国家権力の確立までを論述している。そして,日本の近代化の推進力を,権力中枢に上昇してくる下級武士出身の官僚の指導的役割と,国家の保護統制のもとに勢力を伸張してきた商業資本の結合としてとらえた。ヨーロッパ史との比較を随所に織りまぜながらの考察と広範な資料(原資料)に拠る論述は,日本の歴史学界に新風を吹きこみ,戦後日本の歴史学発展に寄与した。《ハーバート・ノーマン全集》(全4巻)がある。
執筆者:


ノーマン
Daniel Norman
生没年:1864-1941

カナダ・メソディスト教会(のちカナダ合同教会)宣教師。1897年来日,1940年まで東京,金沢,長野などで宣教にあたり,長野農民福音学校を開設して農民の教化につとめた。軽井沢を保養地として開発し,その家は〈ノルマン館〉として知られた。日本近代史の研究者として著名なカナダの外交官E.H.ノーマンはその次男。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ノーマン」の意味・わかりやすい解説

ノーマン(Jessye Norman)
のーまん
Jessye Norman
(1945―2019)

アメリカのソプラノ歌手。ジョージア州オーガスタ生まれ。少女時代より教会の聖歌隊などで歌い、ローザ・ポンセルRosa Ponselle(1897―1981)やマリアン・アンダーソンを聴いていたノーマンは、黒人霊歌の世界に親しみながらピアノを学んだが、将来は医学の道に進もうと考えていた。ワシントン市のハワード大学で声楽を学び、ボルティモアピーボディ音楽院を経てミシガン大学でピエール・ベルナックPierre Bernac(1899―1979)などに師事する。

 1968年ミュンヘン国際音楽コンクール声楽部門で優勝。翌1969年ベルリン・ドイツ・オペラと契約、『タンホイザー』のエリーザベート役でデビュー。その後ベルリン音楽祭で『フィガロの結婚』に出演、大成功をおさめる。以後、イタリアやイギリスなどに招かれるようになり、世界の主要歌劇場で活躍する。1983年には、ニューヨークのメトロポリタン歌劇場100周年記念期間中に、ベルリオーズのオペラ『トロイの人々』に出演、高い評価を受ける。

 日本には1985年(昭和60)に初来日。その後も来日コンサートを数多く開く。1995年(平成7)東京で行われた「ブーレーズフェスティバル」でアルバン・ベルクの歌曲を歌った彼女の歌声は、聴衆に深い感銘を与えた。また、ノーマンはオペラへの出演ばかりでなく、コンサート活動も世界各国で行い、ドイツ歌曲からフランス歌曲、またアンコールには必ず黒人霊歌を歌うなどレパートリーは幅広い。

 彼女の輝くようなソプラノは力強く、同時にまた繊細でささやくようで、聴くたびに大きな衝撃と深い感銘を与えてくれるノーマンは現代最高のソプラノ歌手であり、史上最高のアーティストの一人であると評され、1989年のレジオン・ドヌール勲章をはじめ、数々の賞、称号を贈られる。1996年のアメリカ、アトランタ・オリンピック開会式ではテレビ中継を通じて全世界に彼女の歌声が流れた。

[小沼純一]


ノーマン(Egerton Herbert Norman)
のーまん
Egerton Herbert Norman
(1909―1957)

カナダの歴史家、日本研究者、外交官。カナダ・メソジスト派の牧師ダニエル・ノーマンの子として、1909年(明治42)9月1日長野県に生まれ育つ。1929年カナダ、トロント大学ビクトリア・カレッジ入学、のちイギリス、ケンブリッジ大学トリニティ・カレッジに学び、さらにトロント大学大学院、ハーバード大学、コロンビア大学などで日本史、中国史を研究した。1939年カナダ外務省に入り、1940年から1941年まで東京のカナダ公使館に勤務、太平洋戦争勃発(ぼっぱつ)後、交換船で帰国した。戦後ふたたび来日して占領軍総司令部、駐日カナダ代表部、極東委員会、対日理事会などで活躍、占領政策にも影響を与えた。その間、太平洋問題調査会(IPR)や進歩的アジア問題誌『アメレシア』などにより著作活動を展開、『日本における近代国家の成立』(1940、邦訳1947)、『日本における兵士と農民』(1943、邦訳1947)などで、「講座派」の影響を受けつつも広く深い歴史的教養と「無名のものへの愛着」に裏打ちされた独自の歴史叙述により日本研究の第一人者としての地歩を築くとともに、都留重人(つるしげと)、丸山真男(まさお)らの学者文化人と交遊し、戦後日本の歴史学界にも広い影響を与えた。のちカナダ外務省極東部長、情報部長などを経て1956年エジプト駐在大使となり、スエズ運河国有化問題に尽力中、アメリカのマッカーシズム(赤狩り)の嵐(あらし)にさらされ、ついに1957年4月4日カイロで自殺した。

[岡 利郎]

『『特集ハーバート・ノーマン』(『思想』1977年4月号所収・岩波書店)』『大窪愿二編訳『増補 ハーバート・ノーマン全集』全4巻(2001・岩波書店)』『加藤周一著『ハーバート・ノーマン――人と業績』(2002・岩波書店)』

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百科事典マイペディア 「ノーマン」の意味・わかりやすい解説

ノーマン

米国の黒人ソプラノ歌手。ジョージア州オーガスタに生まれ,ミシガン大学でフランスの名バリトン歌手P.ベルナック〔1899-1979〕に師事。1968年ミュンヘン国際音楽コンクールで優勝し,翌1969年ベルリン・ドイツ・オペラに,1972年ミラノのスカラ座にデビュー。以後,各地の歌劇場で活躍する一方,レパートリーをドイツやフランスの歌曲にも広げ,シューベルトベルリオーズからデュパルクベルクなどに至る作品に名唱を披露している。アルトもこなす広い声域と輝かしい高音域で知られ,アンコールにはしばしば,少女時代から親しんだ黒人霊歌を披露する。1985年に初来日。ノーマンの登場後B.ヘンドリックス〔1948-〕らの黒人歌手がこれに続き,先駆者M.アンダーソンの時代とはクラシック音楽界の様相も一変した。

ノーマン

カナダの外交官,歴史家。日本生れ。1939年外交官となり,駐日公使館員,駐日代表部首席等を務め,この間都留重人,丸山真男らと交わる。のち駐エジプト大使在任中,自殺。米国の赤狩りに抗議したものといわれた。日本の近代史研究にすぐれ,主著《日本における近代国家の成立》,安藤昌益再評価のきっかけとなった《忘れられた思想家――安藤昌益》などがある。
→関連項目都留重人

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ノーマン」の意味・わかりやすい解説

ノーマン
Norman, Edgerton Herbert

[生]1909.9.1. 軽井沢
[没]1957.4.4. カイロ
カナダの歴史家,外交官。 1935年ケンブリッジ大学卒業後,ハーバード大学で日本と中国の研究に従事し,39年『日本における近代国家の成立』 Japan's Emergence as a Modern Stateで博士号を取得。同年カナダ外務省に入り来日。 42年に交換船で引揚げるまで東京に駐在。 45年9月連合軍司令部の対敵情報部調査分析課長として再び来日。 46年日本駐在カナダ代表部首席,49年日本駐在カナダ公使。サンフランシスコ対日講和会議ではカナダ代表団首席随員として,L.ピアソン外相の補佐役をつとめ,53年ニュージーランド駐在高等弁務官,56年エジプト駐在カナダ大使兼レバノン駐在カナダ公使となった。彼の最大の業績は歴史学者として日本史研究に新しい局面を開いたことで,最も卓越した日本史学者の一人。著書はほかに『忘れられた思想家-安藤昌益のこと』 Ando Shoeki and the Anatomy of Japanese Feudalism (1949) など多数。

ノーマン
Norman, Marsha

[生]1947.9.21. ルイビル
アメリカの劇作家。ルイビル大学などで学ぶ。 1970年代から地域演劇活動を行い,1977年過去と折合いをつけようと苦闘する元女囚を描いた"Getting Out"で注目される。その後,自殺を決意した娘と,それを止めようとする母の葛藤を写実的に描写した『おやすみ,かあさん』 Night,Mother (1982) でブロードウェーに進出,ピュリッツァー賞を受賞した。近年の作品には,ミュージカル『秘密の花園』 The Secret Garden (91,トニー賞受賞) の脚本がある。

ノーマン
Norman, Montagu Collet

[生]1871.9.6. ロンドン
[没]1950.2.4. ロンドン
イギリスの銀行家。イートン大学,キングズ・カレッジに学ぶ。 1900~01年南アフリカに従軍し勲功を立てる。 16年イングランド銀行の総裁代理補佐,18年に総裁代理,20年以降 24年間にわたって総裁をつとめた。第1次世界大戦後の経済問題を処理し,各国の中央銀行,特にアメリカの銀行との関係を発展させた。 44年の退職に際して,ケント県セントクレアのノーマン男爵の称号を受けた。

ノーマン
Norman

アメリカ合衆国,オクラホマ州中部の都市。オクラホマシティーの南約 25kmに位置する。 1889年,この地方が白人入植者に開放されたとき,テント村として発足した。周辺に広い農業地帯をもち,家畜,酪農産物の集散地。商業の中心地でもあり付近に油田がある。軽工業も立地。 92年創立のオクラホマ大学がある。人口 11万925(2010)。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「ノーマン」の解説

ノーマン Norman, Daniel

1864-1941 カナダの宣教師。
1864年3月10日生まれ。E.H.ノーマンの父。カナダ-メソジスト教会(のちの合同教会)から派遣されて明治30年(1897)来日,東京・金沢・長野で伝道にあたる。軽井沢の開発にも尽力,また禁酒・廃娼(はいしょう)運動などに参加した。昭和15年帰国。1941年6月19日死去。77歳。オンタリオ州出身。トロント大卒。

ノーマン Norman, Edgerton Herbert

1909-1957 カナダの外交官,日本研究者。
明治42年9月1日長野県生まれ。D.ノーマンの次男。昭和15年公使館員として来日。戦後,GHQ,駐日カナダ代表部,極東委員会などで活動。25年帰国。1956年駐エジプト大使。1957年4月4日カイロで自殺。47歳。トロント大卒。著作に「日本における近代国家の成立」「忘れられた思想家」など。

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367日誕生日大事典 「ノーマン」の解説

ノーマン

生年月日:1871年9月6日
イギリスの銀行家
1950年没

出典 日外アソシエーツ「367日誕生日大事典」367日誕生日大事典について 情報

世界大百科事典(旧版)内のノーマンの言及

【安藤昌益】より

…このように各地に門人がおり,また著書の一部は出版されたにもかかわらず,昌益の思想が世に知られた形跡はなく,1899年ごろに哲学者狩野亨吉が稿本《自然真営道》を入手し,その特異な思想に注目するまでは,全くうずもれた存在であった。やがて第2次世界大戦後に至り,E.H.ノーマンの著書(邦訳名《忘れられた思想家》)の影響などもあって,封建的な身分制度を根本から批判した日本で唯一の思想家として広く知られるようになった。 昌益の思想は,徹底した平等主義を特色とし,人はすべて同一である(〈人ハ万万人ニシテ一人ナリ〉)から,ひとしく〈直耕〉すなわち農業労働に従事し,男女は対等に一夫一婦の関係を結ぶのが,人間の本来の姿であるとし,このような理想の社会を〈自然ノ世〉とよぶ。…

【ええじゃないか】より

…その評価については定説というべきものはないが,1866年に高まった百姓一揆・打毀(うちこわし)に示される民衆の幕藩体制への抵抗がこの運動により弱まったとするもの,幕藩体制の基盤である封建的共同体からの離脱をはかった世直し運動の変型として評価すべきであるとするもの,またそこに伝統的な宗教意識や行動が再生されている点に注目するものなどがある。なお,E.H.ノーマンの〈日本におけるマス・ヒステリア〉(1945)は先駆的な研究として記憶される。【西垣 晴次】。…

※「ノーマン」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

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