第二次世界大戦後の連合国の日本占領政策決定機関で、ワシントンに設置された。当初、アメリカは極東諮問委員会の設置を提案、1945年(昭和20)9月10日から10月2日にかけてロンドンで開かれたアメリカ、イギリス、当時のソ連、中国、フランスの五か国外相会議で、同委員会の設置が決定された。これは、アメリカ以外の連合諸国は諮問に答えるだけで、対日占領政策決定に発言権をもてないようにすることをねらったものであった。ソ連はこの決定に反対し、同委員会への参加をボイコットした。またイギリスもこの方式に不満を示すようになった。
この結果、1945年12月のモスクワ三国外相会議(米・英・ソ)でアメリカが譲歩し、極東委員会の設置が決定された。同委員会の構成は、アメリカ、イギリス、ソ連、中国、フランス、インド、オランダ、カナダ、オーストラリア、ニュージーランド、フィリピンの11か国からなっていた〔49年11月からビルマ(現ミャンマー)、パキスタンが参加〕。また米・英・ソ・中の4か国には拒否権が与えられることになった。極東委員会は単なる諮問機関でなく、政策決定機関とされ、具体的には、ポツダム宣言の規定する降伏条項の実施、対日占領の政策と原則の作成(軍事事項・領土問題を除く)、連合国最高司令官の政策実施の見直し、などの任務をもつことになった。この極東委員会には、反ファシズム・民主主義の国際世論が反映し、初期対日占領政策に一定の規制を加えることになり、とくに憲法改正や農地改革など戦後の民主改革に影響を与えることになる。
しかし、この極東委員会は、確かに極東諮問委員会より権限は強化されていたが、なおアメリカの優越的地位を認めていた。たとえば、アメリカには四大国の一つとして拒否権が認められているので、同国の意志に反する決定は行われず、また極東委員会の決定は、アメリカ政府を通じる指令として連合国最高司令官に送られることになっており、アメリカの独自の利害が反映されやすくなっていた。さらに緊急時には、極東委員会の決定を待たず、アメリカ政府は「中間指令権」を発動する権限を与えられており、自国の利益を貫くことができるようになっていた。したがって、極東委員会による対日占領政策に対する規制には限界があり、事実上、アメリカによる単独占領が行われていくことになる。
やがて冷戦が始まり、「米ソ対立」が激しくなると、極東委員会の機能は、実質上、停止し、1952年4月、対日講和条約の発効とともに消滅した。
[山田敬男]
第2次大戦後,連合国によってワシントンに設けられた対日政策決定機関。当初,アメリカは1945年8月アメリカ単独で極東諮問委員会Far Eastern Advisory Commissionを設置したが,十分に機能を果たすことなく終わり,12月26日アメリカ,ソ連,イギリスのモスクワ協定により設置が決定された。ソ連,イギリス,アメリカ,中国等11ヵ国で発足,のちに13ヵ国の構成となった。議事は非公開。憲法問題その他についてアメリカ政府を通じ占領軍最高司令官に指示を発することがこの機関の目的であった。対日占領政策の基本方針,労働組合運動に関する基本原則の指示など,連合国の対日管理政策が明示されたが,アメリカ政府が中間指令を発する権限をもっていたことなどの理由で,その機能は十分に発揮されなかった。ただし海上保安庁設置問題で,ソ連,イギリス,中国等の意見が一致し,アメリカ代表が拒否権を行使するなど,各国の関係は一様ではなかった。朝鮮戦争勃発前後から占領政策の転換,中国代表権問題,引揚者問題,警察予備隊の発足と日本人の国連軍への協力問題等で激しい米ソ対決の場となったが,対日講和会議を機会に消滅した。
→GHQ →対日理事会
執筆者:高橋 彦博
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1946年(昭和21)2月,連合国による対日占領に関する政策決定機関としてワシントンに設置された。前年10月に設置されていた極東諮問委員会を改組・強化したもの。極東諮問委員会の権限は連合国軍最高司令官に対する勧告にとどまったが,極東委員会の決定は連合国軍最高司令官を拘束するものとされた。これは45年12月のモスクワ外相会談で決定された。構成は,当初11カ国(英・米・中・ソのほか,フランス,オランダ,カナダ,オーストラリア,ニュージーランド,インド,フィリピン),のちにビルマ(現,ミャンマー),パキスタンが加わった。しかし極東委員会を構成する大国間の合意は困難を極め,占領政策実施に大幅な変化が生じるにはいたらなかった。
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…マッカーサーは進駐直後は横浜,45年10月からは東京日比谷の第一相互ビル(現,第一生命ビル)にGHQを置いた。GHQは日本の占領管理の最高機関で,日本管理の政策決定機関として45年12月モスクワ協定で決定されワシントンに置かれた極東委員会の指令を受け,また最高司令官の諮問機関として東京に置かれた対日理事会の勧告を受け,日本の占領実施にあたった。しかし最高司令官は同時にアメリカの極東軍司令官でもあり,アメリカ政府の命令によって具体的な占領政策を実施した。…
※「極東委員会」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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