安藤昌益(読み)アンドウショウエキ

デジタル大辞泉 「安藤昌益」の意味・読み・例文・類語

あんどう‐しょうえき〔‐シヤウエキ〕【安藤昌益】

[1703~1762]江戸中期の社会思想家・医者。出羽の人。封建社会と、それを支える儒学仏教を批判。すべての人が平等に生産に従事して生活する「自然の世」を唱えた。著「自然真営道」「統道真伝」など。
桜田常久の小説。昭和44年(1969)刊。の伝記小説。

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精選版 日本国語大辞典 「安藤昌益」の意味・読み・例文・類語

あんどう‐しょうえき【安藤昌益】

  1. 江戸中期の社会思想家。出羽の人。字は良中、号確龍堂。本業は医者。封建社会の制度習俗を批判し、徹底した平等主義を主張。すべての人が農耕によって生きる自然世を理想とした。主著「自然真営道」「統道真伝」。宝暦一二年(一七六二)没。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「安藤昌益」の意味・わかりやすい解説

安藤昌益
あんどうしょうえき
(1703―1762)

江戸中期の思想家。通称は孫左衛門。著作時の堂号は確龍堂良中(かくりゅうどうりょうちゅう)、別号は柳枝軒(りゅうしけん)。正信、草高とも名のる。

[三宅正彦 2016年4月18日]

生涯と行動

経歴の大部分は不明で、1703年(元禄16)に生まれ、1744年(延享1)から1746年の間、陸奥(むつ)国三戸(さんのへ)郡八戸(はちのへ)町(青森県八戸市)で町医者を開業、1762年(宝暦12)10月14日に出羽(でわ)国秋田郡二井田村(秋田県大館(おおだて)市)で死没し、同村の曹洞(そうとう)宗巌松山(がんしょうざん)温泉寺(おんせんじ)に墓所があることだけが確実である。先祖の孫左衛門が1674年(延宝2)に二井田村の肝煎(きもいり)(名主)を務め、昌益も1761年(宝暦11)10月14日に同村で孫左衛門と称して課役を負担し、子孫も孫左衛門(まごじやむ)という屋号で同地に現住していることなどから、昌益の出生地も二井田村で、村役人クラスの上層農民出身と推定される。

 昌益は八戸時代、医者、学者として高い評価を得、八戸藩から賓客の治療を命ぜられ、代官、側医、祐筆(ゆうひつ)、神官支配頭(がしら)、御用商人など10余人を門人にしていた。1756年(宝暦6)二井田村の安藤本家の当主が死去し、1758年ごろ、昌益は帰村して本家を継ぐ。二井田は米代(よねしろ)川支流の才(さい)川沿いの村で、贄柵(にえのさく)の故地と伝えられる。稲作一本の水田地帯で村高1500石、160戸750人、北秋田随一の大村で近郷の諸村を威圧していた。しかし、昌益が帰村したとき、村は宝暦(ほうれき)の飢饉(ききん)で疲弊(ひへい)しており、昌益は有力地主や村役人層を門人にしつつ、酒食の費用がかさむ神事の停止など、村救済案を郷中(ごうちゅう)に提案し実現している。温泉寺の過去帳に「昌益老」と異例の敬称がつけられているのは、村人の敬意を示すものであろう。

[三宅正彦 2016年4月18日]

思想と著作

昌益の思想は、気一元論、社会変革論、尊王論を特色とする。根源的実在である「活真」(気)が分化して万物生成する営為を「直耕(ちょくこう)」という。地上で生成された最初の存在は米であり、米から人や鳥獣虫魚が分化する。人の生産活動も「直耕」である。万物は、男と女、水と火というように対をなしており、男の本性は女、女の本性は男と、相互に対立するものの性質を自己の本性にしている。このような関係を「互性(ごせい)」という。「直耕」を行い「互性」を保つ限り、自然や社会、身体は矛盾なく調和している。このような時代を「自然の世」という。しかし、中国の聖人やインドの釈迦(しゃか)などが現れ、支配し収奪するものと支配され生産に従うものとの絶対的対立関係「二別」をつくりだす。「二別」に基づく諸制度を「私法」、「私法」の行われる時代を「法世」という。「法世」は「直耕」と「互性」が否定される反自然的状態なので、災害や闘争や病気が絶えない。「法世」を「自然の世」に変革するために過渡的社会が構想される。

 その過渡的社会は、「法世」の階級や身分などを形式的に保ちつつも、すべての人に「直耕」させることによって、実質的に「二別」を形骸(けいがい)化させていく社会である。過渡的社会の権力は、全国的には「上(かみ)」(天皇)、地域的には「一家一族」(血縁共同体)を基盤とする。後者の自治を「邑政(ゆうせい)」とよぶ。過渡的社会に「直耕」と「互性」を体現した真に正しい人「正人」が現れたとき、「自然の世」に移行するのである。昌益は中国の王を否定するが、日本の天皇は収奪者ではないとして尊ぶ。神仏混淆(こんこう)など後世の神道を否定しても、天照大神(あまてらすおおみかみ)の神道は「自然」の体現として尊ぶ。昌益の思想傾向のうちに尊王斥覇(せきは)論の系譜を見落としてはならない。

 なお昌益の文章には、東北方言とくに秋田方言の特徴が貫徹し、その思想を規定している。

 昌益の著書として、『自然真営道』(東京大学総合図書館所蔵の稿本と、慶応義塾大学図書館・村上寿秋所蔵の刊本とがある)、『統道真伝』(慶大図書館所蔵)、『自然真営道 甘味の諸薬自然の気行』(上杉修所蔵)、『確龍先生韻経書』(同)などがある。

[三宅正彦 2016年4月18日]

『安藤昌益研究会編『安藤昌益全集』全21巻(22分冊)・別巻1・増補篇3(1983~2004・農山漁村文化協会)』『渡辺大濤著『安藤昌益と自然真営道』(1970・勁草書房)』『ハーバート・ノーマン著、大窪愿二訳『忘れられた思想家――安藤昌益のこと』(『ハーバート・ノーマン全集 第3巻』所収・1977・岩波書店)』『三宅正彦編『安藤昌益の思想的風土 大館二井田民俗誌』(1983・そしえて)』

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改訂新版 世界大百科事典 「安藤昌益」の意味・わかりやすい解説

安藤昌益 (あんどうしょうえき)
生没年:1703?-62(元禄16?-宝暦12)

江戸中期の医師,思想家。字は良中,号は確竜堂。伝記には不明の点が多く,確実に知られているのは,1744-46年(延享1-3)のころ,陸奥の八戸の城下で町医者として生活していたことと,晩年の約5年間を出羽国秋田郡二井田村(現,大館市内)で送り,この地で没したことだけで,主要な著述を完成したのは,52-55年(宝暦2-5)ごろと推定されるが,その時期にどこに居住していたかも明らかではない。八戸での昌益の門人は,医師,藩士,神官,商人など各種の職業に属しており,同じころ松前,江戸,京,大坂,長崎にも少数の門人がいた。二井田での門人は,村内でも殿方とよばれる上層の農民で,彼らは伝統的な宗教的行事を廃止し,また昌益を〈守農大神〉としてまつる石碑を立てたりしたため,寺僧や修験と対立し,石碑は破却されるに至ったという事件が,昌益の没後2年目に起こっている。このように各地に門人がおり,また著書の一部は出版されたにもかかわらず,昌益の思想が世に知られた形跡はなく,1899年ごろに哲学者狩野亨吉が稿本《自然真営道》を入手し,その特異な思想に注目するまでは,全くうずもれた存在であった。やがて第2次世界大戦後に至り,E.H.ノーマンの著書(邦訳名《忘れられた思想家》)の影響などもあって,封建的な身分制度を根本から批判した日本で唯一の思想家として広く知られるようになった。

 昌益の思想は,徹底した平等主義を特色とし,人はすべて同一である(〈人ハ万万人ニシテ一人ナリ〉)から,ひとしく〈直耕〉すなわち農業労働に従事し,男女は対等に一夫一婦の関係を結ぶのが,人間の本来の姿であるとし,このような理想の社会を〈自然ノ世〉とよぶ。これに対し現実の社会は,〈法世〉とよばれるが,この〈法〉とは,〈コシラヘ〉すなわち作為の意味で,人為的な法律や制度により,上下の身分の差別が定められているために,この社会では〈盗〉や〈乱〉が絶えないのである,とする。この上下の差別と同様に,天と地,陽と陰,善と悪などの,それぞれ一方に価値をおく考え方を,昌益は〈二別〉とよび,儒学や仏教など既成の学問や宗教は,すべてこの〈二別〉の観念に立脚したものとして,きびしく批判する。このような差別の観念から脱却してみるならば,天地(昌益はこれを〈転定〉と表記する)の間にある万物は,対立する要素が相互に対等に関連しあう関係(〈互性〉)をなして,運動と生成の活動を営んでいることが理解される。これが自然界の真実の姿としての〈活真〉であり,その活動の法則(〈道〉)に従うのが,人としての正しい生き方であり,すなわち〈直耕〉することである。昌益の思想は,〈不耕貪食〉する者の多い現実の社会に対する批判としては明快ながら,やや単純であり,人を社会的存在としてよりも,生物的存在として認識している傾きがある。しかしそれは,昌益の求めていたものが,直接に社会の制度を変革することよりも,むしろ医師としての立場から,心身ともに健全な人の生き方を明らかにしようとするところにあったからであり,その点に昌益の思想のもう一つの重要な意義が見いだされる。著書としては,2種類の《自然真営道》(稿本101巻と,1753年の刊本3巻),および《統道真伝》(写本5巻)などがある。
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朝日日本歴史人物事典 「安藤昌益」の解説

安藤昌益

没年:宝暦12.10.14(1762.11.29)
生年:元禄16(1703)
江戸中期の農本思想家。著者としての号は,はじめ確竜堂安氏正信のち確竜堂良中。農家の当主としての名乗りは孫左衛門。昌益は漢方医(後世方系)としての号。秋田藩領の出羽国秋田郡二井田村(秋田県大館市)出身。生家は肝煎(村長相当)層の農家だったが没落。二井田村を出,延享1(1744)年から宝暦8(1758)年まで八戸藩領の陸奥国三戸郡八戸城下(青森県八戸市)で町医者を開業。藩の信用厚く,門人にも上士層が多い。8年二井田村に帰り,本家の当主となる。安藤家は田地を全部失い窮乏状態にあったが,昌益は家産の回復に努め,3年後には高20石6斗余を所持。二井田村も飢饉で疲弊しており,昌益は地主層の門人たちと村寄合を指導,支出の多い各種神事を一時停止する伝統的節約方法で再建を図った。主著は稿本『自然真営道』,刊本『自然真営道』,『統道真伝』などで,東北方言の特徴が明確に表れている。 昌益は,生産活動を自然,社会,人体の統一原理とし,万人が私有地を持って生産活動に従う身分差別のない社会を理想として,武士が農民の生産を収奪する封建領主制を批判。だが,家を生産の単位とし家父長制を肯定するため,女性差別を内包。生産から疎外されている障害者や被差別民をも差別。儒教,仏教,巫道(神儒仏混淆の神道),老荘,法家などを否定しても,自然神道(神儒仏混淆以前の神道)は日本と日本人を最優秀とし,異国・異民族差別を内包。中国の王を収奪者として否定する一方,日本の天皇を自然神道の体現者で農業の普及者として肯定。現実の差別社会を理想的な平等社会に変革するための過渡的社会として,天皇による全国支配と一家一族による地域支配を構想した。自らつけた諡号は守農太神。戒名は,はじめ賢正道因禅定門,次いで堅勝道因士,のち昌安久益信士。墓石は大館市二井田の曹洞宗巌松山温泉寺の境内にあり,位牌は二井田の門人安達清左衛門の家(現筆頭者友一)に伝えられた。<著作>安藤昌益全集刊行会監修『安藤昌益全集』全10巻<参考文献>三宅正彦『安藤昌益の思想的風土 大館二井田民俗誌』

(三宅正彦)

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「安藤昌益」の意味・わかりやすい解説

安藤昌益
あんどうしょうえき

[生]宝永4(1707)?.
[没]没年未詳
江戸時代中期の思想家。伝記はあまり明らかではないが,昌益研究を総合すると,秋田藩久保田城下に生まれ,本草や医学を修め,のち南部八戸に移住し,町医者として生活,晩年は長崎に行って海外の事情を研究したとも伝えられている。活動は享保~宝暦年間 (1716~64) とみなされ,医者としてよりは思想家としてきわめて特異な活動をした。著書は公刊されたものとしては『孔子一世弁記』と『自然真営道』 (3巻,3冊,1753) があり,未刊のものとしては『自然真営道』 (100巻,92冊) 『統道真伝』 (5冊) がある。その思想の特徴は,封建社会に対する徹底的批判と万民平等による農耕中心主義にある。孔子,孟子をはじめこれまでの道徳教理は農民に対する階級支配を合理化したものにすぎず,また徳川封建制はその具体化であるとして徹頭徹尾攻撃した。彼の農耕主義は,一面では復古的であるが,その根底にあった人間の一切の社会的,政治的,経済的差別の廃止,男女同権の平等主義の主張はきわめて時代をこえた普遍性を有している。

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百科事典マイペディア 「安藤昌益」の意味・わかりやすい解説

安藤昌益【あんどうしょうえき】

江戸中期の思想家,医師。伝記には不明な部分が多いが,秋田藩の上層農民の家に生まれ,1744年には八戸で町医者を開業しており,1745年には八戸藩士,藩医,僧侶らの知識層と博学の学者として交流している。1750年代前半に主著,稿本《自然真営道》を著したと推定されている。この著で昌益は,当時の身分制社会と儒仏思想を全面的に否定し,支配・被支配関係のない,万人が〈直耕〉(農業生産)に従事する〈自然の世〉を提唱した。1758年故郷に帰り生家を復興,村役人層を門人として村を指導し,凶作による疲弊から救って,みずから守農大神を名のった。著書には他に刊本《自然真営道》《統道真伝》などがある。江戸期にはほとんど知られず,明治期に狩野亨吉が発見・紹介し,第2次大戦後E.H.ノーマンの《忘れられた思想家》により世界的に有名になったが,昌益の思想の位置づけについてはなお定説をみない。

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デジタル版 日本人名大辞典+Plus 「安藤昌益」の解説

安藤昌益 あんどう-しょうえき

1703?-1762 江戸時代中期の思想家。
元禄(げんろく)16年?生まれ。延享元年ごろ陸奥(むつ)八戸(はちのへ)(青森県)で町医者をしていたことと,晩年出羽(でわ)二井田(秋田県)にすんでいたこと以外は不詳。封建的な身分制度を批判し,徹底した平等主義にもとづく理想の社会「自然の世」を主張。宝暦12年10月14日死去。60歳? 明治32年ごろ狩野亨吉(かのう-こうきち)によってその著書「自然真営道」が紹介され,また第二次大戦後E.H.ノーマンの「忘れられた思想家」でひろく世に知られた。字(あざな)は良中。通称は孫左衛門。号は確竜堂,柳枝軒。著作はほかに「統道真伝」など。
【格言など】富を欲せんよりは,貧を招かざれ。有貯を思わんよりは,無・捨を為(な)さざれ(「自然真営道」)

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山川 日本史小辞典 改訂新版 「安藤昌益」の解説

安藤昌益
あんどうしょうえき

1707?~62.10.14

江戸中期の医師・思想家。字は良中(りょうちゅう),確竜堂とも号す。江戸時代で唯一の徹底した封建制批判者。出羽国秋田郡二井田村(現,大館市)生れ。1744年(延享元)から陸奥国の八戸(はちのへ)城下で町医者として開業し,八戸近辺に多くの門人がいた。二井田村で没し,門人らが「守農大神確竜堂良中先生」の石碑を建立。昌益は,万人が生産労働に従事し自給自足の生活をする自然の世を理想化し,現実の封建社会を支配階級が他人の労働成果を貪る差別の体系であると批判。また儒教や仏教などの思想を差別と支配を合理化するものとして否定した。著書「自然真営道」「統道真伝」。

出典 山川出版社「山川 日本史小辞典 改訂新版」山川 日本史小辞典 改訂新版について 情報

旺文社日本史事典 三訂版 「安藤昌益」の解説

安藤昌益
あんどうしょうえき

?〜1762
江戸中期の思想家・医者
秋田に生まれ,医学・本草学を修め,陸奥(青森県)八戸 (はちのへ) で町医を開業。のち長崎へ西欧事情を知るため遊学したといわれるが事歴は不明。『自然真営道』『統道真伝』を著し,武士・聖人・君子を不耕貪食の盗人と極言し,支配者のいない,万人が耕作に従事する平等な「自然世」を理想とする思想を説いた。

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世界大百科事典(旧版)内の安藤昌益の言及

【子宮】より

…エジプトに広く伝わる最も強力な護符は,女神イシスの子宮をその靱帯や腟とともにかたどったものとされる。子宮を臓器とする説は多いが,安藤昌益のように腎の前,肝の下,大腸の後ろの空間が子宮で,形はないとする考えもあった(《統道真伝》)。パラケルススは3種の子宮を説く。…

【自然真営道】より

安藤昌益の主著。題名は,自然なる世界の根元をなす〈真〉(または〈活真〉)が営む道,すなわち自然界の法則性を意味する。…

【統道真伝】より

安藤昌益著。4巻5冊から成る1部が慶応義塾図書館に所蔵されている。…

※「安藤昌益」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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