ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ハッチンソン」の意味・わかりやすい解説
ハッチンソン
Hutchinson, Thomas
[没]1780.6.3. ロンドン
アメリカ植民地時代の商人,政治家。マサチューセッツ湾植民地勅任総督。 1737~49年マサチューセッツ湾植民地議会議員,49~66年同参事会員,60~69年同最高裁判所長官,58~71年副総督,71~74年総督。イギリス本国政府の対植民地政策に不満であったが,本国政府の代表として行動し,植民地人の反感を買った。 65年の印紙税法一揆の際には法制定の黒幕とみなされたため,群衆に自宅を襲撃され,義兄弟の印紙販売官 A.オリバー宅襲撃事件とあわせて「ハッチンソン一揆」と呼ばれる。ボストン茶会事件後にマサチューセッツには軍政がしかれ,ハッチンソンは T.ゲージ将軍と総督を交代してロンドンに向った。ロンドンでは国王の対アメリカ政策遂行上の助言者となり,革命派に反対する宣伝活動を行なった。 79年ボストンおよびミルトンヒルにあったハッチンソンの時価 10万ポンドに上る財産は革命派に没収され,翌年ロンドンで客死した。
ハッチンソン
Hutchinson, Ann
アメリカの舞踊家。特に舞踊譜の権威者として知られている。 K.ヨースに学び,ミュージカルなどに出演したのち,イギリスのヨース・リーダー舞踊学校で R.ラバンの記譜法を学ぶ。帰国後ニューヨークに舞踊譜協会を開設,1940~61年同協会会長としてラバノテーションの普及に努め,またジュリアード音楽院などで教鞭をとった。夫はイギリス人バレエ史家 I.ゲストで,62年以後ロンドンに定住。ヨースの『緑のテーブル』『大都市』,G.バランシンの『水晶宮』『オルフェウス』『ブーレ・ファンタスク』などを記録している。
ハッチンソン
Hutchinson, Sir Jonathan
[没]1913.6.26. サリー,ヘーズルミア
イギリスの外科医,病理学者。先天梅毒研究の先駆者。ロンドンのセントバーソロミュー病院で学び,1859~83年ロンドン病院の外科医,79~83年ロンドン王立外科医師会教授となり,89年同会長。眼科および皮膚科疾患,特にハンセン病 (らい) の権威で,61年に先天梅毒のハッチンソン3主徴 Hutchinson's triad (歯型,角膜実質炎,内耳性難聴) を発表。ハッチンソン=ベック病 (良性リンパ肉芽腫) も研究した。
ハッチンソン
Hutchinson, George Evelyn
[没]1991.5.17. ロンドン
イギリス生れのアメリカの動物学者。ケンブリッジ大学卒業後,南アフリカのウィットウォーターズ大学を経て,1928年アメリカのエール大学に移り,同大学教授 (1965) 。 41年にアメリカ市民権を取得した。南アフリカ,チベット,北アメリカの湖沼の生態系の研究で知られ,53年,湖沼の堆積物も含めた古陸水学を提唱した。生態学全体を進歩させた功績で 86年京都賞を受賞した。
ハッチンソン
Hutchinson, John
[没]1737.8.28. ロンドン
ヘブライ語と聖書の解釈に関して特異な理論を提示したイギリスの著述家。主著は,ニュートンの『プリンキピア』に対抗して書かれた『モーセの原理』 Mose's Principia (1724~27) で,ヘブライ語神授説と,ヘブライ語を知らずに聖書を解釈する愚を説いた。
ハッチンソン
Hutchinson
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