バルガス
Getúlio Dorneles Vargas
生没年:1883-1954
ブラジルの政治家。南部のリオ・グランデ・ド・スル州のサン・ボルジャに生まれた。軍人の父の後継を志して果たせず,ポルト・アレグレ法科大学卒業後政界に入った。コントの実証主義を信奉し,州議会議員,下院議員,蔵相,リオ・グランデ・ド・スル州知事を歴任し,1929年大統領候補となる。コーヒー生産地サン・パウロと牧畜のミナス・ジェライスが交互に大統領を送り込んだ伝統が世界恐慌でゆらいだ時期に,地方の諸勢力(エリート,中間層,下級将校)の支持を得て登場したバルガスは,大統領選挙に敗れたあと,30年の無血革命に成功し,臨時大統領に就任した。彼は統一国家建設を目標に定めて,サン・パウロの反乱を鎮圧し,34年に中央集権的でファッショ色の強い憲法を制定した。直ちに正式大統領に選出されたバルガスは次にイデオロギーの面で国家統一を図った。まず人民戦線戦術を採用した共産党(民族解放同盟)の反乱を鎮圧(1935)し,37年には左翼の脅威を口実に軍の協力のもとにクーデタによって議会を閉鎖し,新国家Estado Novoを樹立して独裁体制をしいた。ついで新国家樹立に尽力した極右のインテグラリスタ党を解散に追い込んだ。
新国家は,労働者の保護と規制,ブラジル化政策(資源の国有化,有色移民の制限)などを規定した組合国家的憲法のもとで労働者を体制化し,強力な統一国家の形成,工業化・自主外交の確立を目ざした体制であり,しだいに対米協調路線を明らかにした。南アメリカ進出の拠点をブラジルに求めたナチス・ドイツと,アメリカ州を自己の勢力圏とみなすアメリカとの経済・外交戦は,新国家期のブラジルを舞台に展開した。バルガスは巧みに両国を牽制しつつアメリカから製鉄所建設資金を引き出し,慎重に第2次大戦参戦を決意し,44年にイタリア戦線に派兵した。
戦後,立憲政治復活の気運にこたえて,バルガスは一連の民主化政策を実施して共産党に接近したため,45年軍部の圧力で辞任に追い込まれた。しかし彼はその年のうちに上院議員に選出され,50年の大統領選挙にはブラジル労働党などの支援を受けて大統領に返り咲いた。彼は民族主義的・ポプリスタ(ポプリスモ)的姿勢で都市労働者や中間層を引きつけたが,すでにバルガスの時代も戦後の好況期も終わっていた。労相の人事をめぐって軍部の支持を失ったバルガスは追いつめられ,〈国際資本グループ〉の圧力を示唆する遺書を残して自殺した。
沈着で俊敏なバルガスは,家父長的ポプリスタとしてアルゼンチンのペロン大統領と並び称される政治家であり,現代ブラジルの基礎を築いた。とくに組合国家的権威主義体制と規定される〈新国家〉は64年に始まる軍事政権のモデルとなった。時代の差は大きいものの,体制の起源,発展過程のみならず,イデオロギーや政策の面で両体制は共通点をもっており,後進的依存型社会の近代化は,権威主義的政治体制と組合国家的社会関係に結びつきやすいことを示している。
執筆者:乗 浩子
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バルガス
ばるがす
Getúlio Dornelles Vargas
(1883―1954)
現代ブラジルの基礎を築いた政治家。南部のリオ・グランデ・ド・スール州の農場主の子に生まれる。ポルト・アレグレ大学で法律を学んだのち政界に入り、州や連邦の議員、連邦政府の蔵相、出身州の知事を歴任。1930年の大統領選挙に出馬し敗北したが、同年10月、軍部の革新派将校に担がれてクーデターによって政権を掌握した。1934年に中央集権的な新憲法を公布し、そのもとで正式の大統領となり、1935年から1936年にかけて共産党や左翼を厳しく弾圧して政敵を排除した。
1937年には政情混乱を背景に軍事力を用いて新国家(エスタード・ノボ)とよばれるファシズム的色彩の濃い独裁政権体制を樹立し、そのもとで民族精神を高揚させて国民的統合を目ざすとともに、工業化と労働者階級保護の政策を進めて、伝統的地主階級と新興産業資本家層、および労働者階級の利益の調和を図った。第二次世界大戦では連合国の側にたって参戦し、イタリア戦線に派兵した。1945年に軍部の圧力で大統領を辞任したが、1950年の選挙でふたたび大統領に就任した。しかし、世論や軍部の支持を失って1954年8月自殺を遂げ、劇的な形で生涯の幕を閉じた。
[加茂雄三]
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バルガス
ブラジルの政治家。南部のリオ・グランデ・ド・スル州知事から,地方の諸勢力の支持を得て台頭し,1930年無血革命で臨時大統領に就任。1934年中央集権的でファッショ色の強い憲法を制定,大統領に選出される。1937年には軍の協力のもとに議会を閉鎖し,〈新国家〉の名のもとに独裁体制をしいた。また労働者を体制化し,強力な統一国家の形成,工業化,自主外交の確立を目指した。イタリアやドイツの全体主義に近かったが,しだいに対米協調路線を明らかにした。第2次大戦後の民主化の気運のなか,1945年軍のクーデタで辞任。しかし1950年大統領に返り咲き,民族主義的,ポピュリスト的姿勢で都市労働者や中間層を引きつけた。しかし軍の支持を失って追いつめられ,自殺。組合国家的権威主義体制と規定される〈新国家〉は1964年に始まるブラジルの軍事政権のモデルとなった。
→関連項目クビチェック|ブラジル
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バルガス
Vargas, Getúlio Dornelles
[生]1883.4.19. サンボルジャ
[没]1954.8.24. リオデジャネイロ
ブラジルの政治家。リオグランデドスル州議会,連邦議会議員を経て,1926~27年蔵相,28~30年リオグランデドスル州知事をつとめた。 30年大統領選挙に出馬したが落選。選挙の不正を理由に軍部の革新将校と連携して蜂起し,成功して臨時大統領に就任,34年正式に大統領に選出された。多くの社会立法を行い,経済の開発に努める一方,37年新憲法を制定し,議会を解散,7年間の独裁体制をしいた (→エスタード・ノーボ ) 。 45年 10月クーデターで追放されたが,50年再び大統領に選出され,54年8月軍部の圧力により拳銃自殺をとげた。
バルガス
Vargas, Luis de
[生]1502
[没]1568
スペインの画家。スペイン,セビリアにおいてフランドル画派の影響と東バレンシア地方のイタリア画派の影響を受けたセビリア派初期の画家。作品『牧者礼拝』 (スペイン,セビリア大聖堂) など。
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世界大百科事典(旧版)内のバルガスの言及
【アジア的生産様式】より
…さらに,1964年以降,論争は国際的規模で再開された。この年フランスの《パンセLa pensée》誌上で,J.シェノー(フランス),テーケーF.(ハンガリー),塩沢君夫(日本)らがアジア的生産様式の再評価を提案し,同じ年にソ連の経済学者E.バルガもアジア的生産様式論争の復活を提唱し,論争はフランス,東欧,ソ連,日本をはじめ世界的なひろがりとなった。それは,アジア,アフリカ,ラテン・アメリカの民族解放闘争やその独自の発展を背景にし,また世界史発展の基本法則確立の視点から,この概念を抹殺してきたことへの反省が背景になっていたものと思われる。…
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出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」