ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「バーゼル公会議」の意味・わかりやすい解説
バーゼル公会議
バーゼルこうかいぎ
Council of Basel
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出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
カトリック教会の第17回公会議。教皇マルティヌス5世(在位1417~31)により招集され、次のエウゲニウス4世(在位1431~47)のとき、1431年にスイスのバーゼルBaselで開会した。教会改革問題などが議題となったが、コンスタンツ公会議以来強化されてきたコンキリアリスム(公会議首位説)の影響下に、公会議側と教皇権が鋭く対立した。公会議側は、教皇の権限および経済力の削減を図り、公会議の最高指導権の確認を求めた。両者の対立は、東方正教会との合同公会議の開催地をめぐって激化。1437年、教皇は公会議をフェッラーラに移転し、さらに2年後にはフィレンツェに移して東方正教会との合同会議を開催したが、公会議の多数派はバーゼルに残留。教皇エウゲニウス4世を異端者として廃位することを決議し、かわってサボイア大公アマデウスを教皇に選出した(対立教皇フェリクス5世)。しかし、この過激なバーゼル残留派はやがて勢力を失うに至る。
[梅津尚志]
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…そして,このようなローマ教会体制の動揺の中から,いくつかの宗教的な改革理念が生まれてきた。 第1は,教会大分裂の克服,教会統治の刷新をめざして開かれた,コンスタンツ公会議(1414‐18),バーゼル公会議(1431‐49)の両公会議に表現される,改革公会議運動である。これは,司教階層が中心となって,教会統治体制を,従来の教皇絶対主義から一種の立憲君主制に変えようとするものであり,15世紀中葉におけるガリカニスム(フランス国民教会主義)の成立が示すごとく,国王による中央集権化の努力とそれに伴う萌芽的なナショナリズムがこれと結びついていた。…
…1427年以降は,フス派軍はボヘミアに隣接するドイツ,ポーランド,スロバキアなどに外征し,数多くの教会,領主の城館を破壊した。33年,バーゼル公会議は,平信徒の聖杯を認め,フス派に妥協的態度を示したが,これはフス派の内部分裂を促進させた。ウトラキスト派は,徹底的な現状破壊をめざすタボル派を打倒すべく,教会と連合した。…
※「バーゼル公会議」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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