バーゼル公会議(読み)バーゼルこうかいぎ

ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「バーゼル公会議」の意味・わかりやすい解説

バーゼル公会議
バーゼルこうかいぎ
Council of Basel

1431年教皇マルチヌス5世が死の直前に招集スイスバーゼルで開かれた教会会議。司教以外の議員が多く,教皇庁対立的であった。先のコンスタンス会議で断罪されたフス派はチェコ民族主義運動となり,教皇はこれに対して十字軍を発したが敗北したので,公会議は教皇の意向を無視して 33年フス派とプラハ協定を結んだ。しかし講和が破られるや,すでに 31年に公会議の解散を命じていた後任教皇エウゲニウス4世は会場をイタリアのフェララへ移すように命じたが,会議はコンスタンス会議の採決した公会議首位説を楯にこれを拒否し,教皇も譲歩し,33年解散令をも撤回した。さらに公会議は教皇権は公会議権に従属すると議決し追打ちをかけた。たまたま正教会との合同の議が起り,同教会が公会議よりも教皇と直接に交渉したので,力を得た教皇は 38年公会議場をフェララに移した。大多数は従ったが残りの議員は抵抗し,39年対立教皇フェリクス5世を擁立して会議を続けた。しかし俗権の利用するところとなり,49年フェリクスの退位によって消滅した。

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「バーゼル公会議」の意味・わかりやすい解説

バーゼル公会議
ばーぜるこうかいぎ

カトリック教会の第17回公会議。教皇マルティヌス5世(在位1417~31)により招集され、次のエウゲニウス4世(在位1431~47)のとき、1431年にスイスのバーゼルBaselで開会した。教会改革問題などが議題となったが、コンスタンツ公会議以来強化されてきたコンキリアリスム(公会議首位説)の影響下に、公会議側と教皇権が鋭く対立した。公会議側は、教皇の権限および経済力の削減を図り、公会議の最高指導権の確認を求めた。両者の対立は、東方正教会との合同公会議の開催地をめぐって激化。1437年、教皇は公会議をフェッラーラに移転し、さらに2年後にはフィレンツェに移して東方正教会との合同会議を開催したが、公会議の多数派はバーゼルに残留。教皇エウゲニウス4世を異端者として廃位することを決議し、かわってサボイア大公アマデウスを教皇に選出した(対立教皇フェリクス5世)。しかし、この過激なバーゼル残留派はやがて勢力を失うに至る。

[梅津尚志]

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