ライン川(読み)ラインガワ(その他表記)Rhein[ドイツ]
Rhin[フランス]
Rijn[オランダ]

デジタル大辞泉 「ライン川」の意味・読み・例文・類語

ライン‐がわ〔‐がは〕【ライン川】

ライン(Rhein)

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精選版 日本国語大辞典 「ライン川」の意味・読み・例文・類語

ライン‐がわ‥がは【ライン川】

  1. ( ラインはRhein ) 西ヨーロッパを流れる大河。スイスのサンゴタール峠付近に源を発し、リヒテンシュタインオーストリア・ドイツ・フランスの国境を流れてドイツ西部にはいり、オランダを横断して北海に注ぐ。支流や運河によって地中海・バルト海・黒海に通じ、ヨーロッパの大水路網を形成。沿岸に橋頭堡(きょうとうほ)から成立したボン、マインツ、ケルンなどの都市がある。全長一三二六キロメートル。

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改訂新版 世界大百科事典 「ライン川」の意味・わかりやすい解説

ライン[川]
Rhein[ドイツ]
Rhin[フランス]
Rijn[オランダ]

アルプスに源を発し,北海に注ぐ中部ヨーロッパの河川で,西部,中部ヨーロッパではドナウ川に次ぐ流量を誇る。ドイツでは〈母なるドナウ〉と対照的に〈父なるラインVater Rhein〉と呼ばれ,古来ヨーロッパの政治,経済,文化に多大な役割を果たしてきた。

ライン川の全長は1320km(2010年に1233kmに修正),流域面積は最下流域のデルタ地帯を別にすれば15万9610km2,これを含めれば22万4400km2となる。本流はスイス,リヒテンシュタイン,オーストリア,ドイツ,オランダを通り,スイスではラインの流域は全国土の68%をも占める。またアルプス内の流域面積6123km2のうち194km2は氷河が占める。流域には便宜的な区別がなされており,最上流部の主要な2流域を前ライン(フォルダーライン),後ライン(ヒンターライン),両者の合流点からボーデン湖まで(165km)をアルプスライン,ボーデン湖からバーゼルまで(140km)を高ライン(ホッホライン),バーゼルからビンゲンまで(330km)を上ライン(オーバーライン),ビンゲンからボンまで(100km)を中ライン(ミッテルライン),ボンから河口まで(370km)を下ライン(ニーダーライン)と呼んでいる。

 前ラインはオーバー・アルプ峠付近の氷河圏谷の湖,トーマ湖(標高2344m)から流れ出す。一方,後ラインはトーマ湖の南東方約40kmのアドゥーラ山群ラインワルトホルンRheinwaldhorn(3405m)の氷河を源とする。ライヘナウ(標高600m)付近で合流した両者は,アルプスラインとなって,スイスとリヒテンシュタイン,あるいはオーストリアとの国境をなして北流し,ドイツ最大の湖,ボーデン湖コンスタンツ湖)に注ぐ。ボーデン湖は下流部の流量を調節する機能を有するとともに,湖岸地方に温和な気候を与えている。アルプスから運ばれた河床物質はここで堆積して三角州の成長をもたらす。アルプス・ラインの下流部が平坦かつ肥沃なのはこのためであり,現在の堆積が続けばボーデン湖全体が陸化するのは約1万2000年後と見積もられている。ボーデン湖から西流する高ラインはスイスとドイツ国境をなす。高ラインには幅115m,高さ23mのライン滝がかかり,多くの観光客を集めている。上ラインはバーゼルから始まり,オーバーライン地溝を北流する。バーゼルの標高はすでに252mまで下がり,マインツに至る上ライン約300km間の高度差はわずか170mにすぎない。バーゼルは北海に通ずるスイスの港でもあり,河口からここまでは2000トン級の船が航行する。ここでの貨物積替量は年間1000万トンにもなり,スイスの全輸出量の約半分がここを経由している。オーバーライン地溝は幅30~40kmに達し,かつて一連であった一大曲隆構造,シュワルツワルトボージュ山地の中央部が断層によって落ち込んで生じた。地溝底を流れるライン川は元来氾濫をくり返し,カールスルーエ付近までは網状流をなし,より下流では蛇行の激しい河川であった。このため,1800年ころから河川改修が計画され,蛇行をショートカットする工事は1817年から74年にまで及んだ。最大の支流マイン川は上ライン北端近くで合流し,フランクフルト・アム・マインはそのやや上流に位置する。

 ビンゲンからボンに至る中ラインはライン片岩山地を深くうがつ峡谷部であり,古城とブドウ畑とローレライをはじめとする岩壁の移り変わる風景を遊覧船から楽しむことができる。峡谷部であるため急流のイメージが強いが,ボン~マインツ間100余kmの航程で高度差は40mに満たない。中ライン入口の難所,ビンゲンの浅瀬はライン片岩山地をつくる岩石が河床付近に露出していたためであり,これを取り除く爆破作業は1830-32年に行われた。上記上ラインのショートカットとともにライン改修の二大事業とされる。上ライン下流部から中ライン,さらに支流モーゼル川にかけては,ドイツワインの主産地としても有名である。ボンより下流の下ラインはオランダ国境付近までは洪積台地の間を流れ,オランダ領内では広大な三角州上を分流する(おもなものはワール川とレク川)。

 下ラインは流程370kmに対しわずか46mの高度差しかなく,ケルンまでは4000トン級の船が航行する。下ラインに沿っては,ドイツではケルンやルール工業地帯のデュッセルドルフ,ヨーロッパ最大の内陸港を有するデュースブルク,エッセンなどの諸都市が発展し,河口付近のロッテルダムはヨーロッパ最大の港である。ここから河口までの地域は1958年以来建設が続けられているユーロポートで,工業港や大規模な石油貯蔵基地や石油化学コンビナートが並ぶ。
執筆者:

ライン川の交通はローマ以前から行われていたが,ローマ時代にガリア遠征と統治の必要から盛んになった。カエサルはガリア総督時代の前55年コブレンツとアンデルナハの中間に,前53年その上流に橋を架け,これを渡ってゲルマン人を抑え,ガリア人の大反乱を鎮定した。帝政期にはアンデルナハより下流のライン川がゲルマン人地域との境界であった。ケルンのコンスタンティン橋など三つの橋が架けられ,流域にローマの屯営や兵站(へいたん)基地からシュトラスブルクストラスブール),マインツ,コブレンツ,ボン,ノイス,ケルンなどの都市が成長し,これらの都市を結ぶ船運も船運業者のギルドcollegia nautarumによって営まれていた。

 中世になると流域にはマインツ,ケルン,トリールの三大司教都市をはじめ多くの都市が栄えて,ドイツの政治,経済,文化の中心になり,ライン川はドイツの最も重要な交通路になった。13世紀にシャンパーニュの大市が衰退してからは,北イタリアや南ドイツと北西ヨーロッパとを結ぶ動脈の役割を果たした。南からはブドウ酒,木材,穀物,東方の奢侈品,手工業品が,北からは魚類,毛織物,毛皮,香料が運ばれた。シュトラスブルクの船はすでに早い時期にライン川の河口に達し,12世紀には北海航行の海船がケルンに着いている。しかし,船運が盛んになるにつれて,これまで自由だったライン川の航行が特権によって規制され,積荷はいたるところで課税されるようになった。この傾向は大空位時代(1256-73)以後著しく,ライン川の税関の数は12世紀末の19から13世紀に44,14世紀に62と増加した(1848年にも18の税関があった)。いたるところで関税を徴収されるため積荷の価格は2倍にもなったという。こうした規制は15世紀初めには都市の手に移り,有力な都市は特定区間の航行独占と指定市場権・積替強制権を獲得した。ドルトレヒト,ケルン,コブレンツ,マインツ,ウォルムス,シュパイヤー,シュトラスブルク,バーゼルはこれらの権利を持っていた。たとえばケルンの港に着いた船の積荷は,指定商品であればケルンで販売され,それ以外の商品はケルンの町の船に積み替えて次の港へ運ばれた。積荷をめあてに船を襲って略奪する盗賊騎士も13世紀には盛んであった。

 近代のライン川の歴史は航行制限を廃止し,流域諸国の共同管理のもとで航行の自由を実現する過程であった。流域の4選帝侯(ケルン,トリール,マインツの大司教とファルツ宮廷伯)は1557年ライン川共同管理の会議を開いて共同の関税財団を設けた。1648年の列国会議は航行自由化を議し,ミュンスター条約85条で通過船を拘留して貢租を徴収することを禁止したが,これは関係諸国の承認を得られなかった。フランス革命後1803年の帝国代表者会議で航行自由化問題が再燃し,翌04年これまでの領邦ごとの関税に代えて,積荷の重量に応じて計算された統一航行料Oktroiが導入され,これを管理する国際機関として監督局がマインツに設けられた。船運業者の許可や順航制の規制も監督局の仕事になった。15年ウィーン会議の結果バーゼルから北海までの航行の自由が流域諸国に認められたが,協定の解釈をめぐって河口を領有するオランダと上,中流域のドイツ諸国との間に争いが生じ,結局,ライン川の航行の自由が実現したのは30年のベルギー独立でオランダが打撃を受けた31年であった。同年バーデン,バイエルン,フランス,ヘッセン,ナッサウ,オランダ,プロイセンの流域諸国はマインツでライン川航行に関する協定(〈マインツ協定〉)を結び,指定市場権,積替権,船運業者ギルドの特権の廃止,航行の自由を宣言した。この協定は1868年の〈マンハイム協定〉によって補充され,1963年に再度修正されて現在までライン川航行自由の法的根拠となっている。こうしてバーゼルから公海までのライン川の航行はあらゆる国民の船舶に認められ,航行料の徴収は禁止され,流域諸国の共同の問題の解決に当たる国際管理機関として〈ライン川航行中央委員会Zentralkommission für die Rheinschiffahrt〉(ZKR)がストラスブールに設置された。中央委員会にはドイツ,ベルギー,フランス,オランダ,スイスが参加,各国の第一審航行裁判所の判決に対する控訴裁判所の機能を果たしている。

 今日ライン川は農業用水,工業用水,発電,水運などに利用されているが,とくに水運では全長1320kmのうち883kmが航行可能で,支流のネッカー川,マイン川,モーゼル川をはじめ運河網(ライン・マイン・ドナウ運河ミッテルラント運河など)によってドナウ川,北海地方,ベルリンとも接続し,ヨーロッパ内陸水路網の中心を占めている。19世紀の工業化過程でルール地方の石炭の積出しと製鉄業への鉱石供給に大きな役割を果たし,戦後はヨーロッパ経済共同体(現,ヨーロッパ連合)の成立によってその意義はますます増した。ラインフェルト~エメリッヒ間(西ドイツ領)の貨物輸送量は1974年約2億t(内およそ半分が外国船による)で,ドイツの内陸水路輸送の約80%に当たる。おもな貨物は砂利,土砂,石炭,石油,鉱石,粗鋼,圧延製品,穀物などである。ライン川諸港の荷扱高では河口のロッテルダムを除けばデュースブルクが断然多く,ストラスブール,ケルン,マンハイム,バーゼル,ルートウィヒスハーフェンが続いている。ライン川は貨物輸送ばかりでなく旅客(観光客)の多い川でもある。観光地としてのライン川は中流のビンゲン~コブレンツ間の両岸に並ぶ25の古城と特産のワインによって知られている。ドイツワインの11の特産地のうち,ライン中流,ラインガウ,ラインヘッセン,ファルツ,モーゼル・ザール(以上ラインワイン),アール,ナーヘ,ヘッセン地方ベルクシュトラーセ,バーデンの9ヵ所はライン川流域にある。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ライン川」の意味・わかりやすい解説

ライン川
らいんがわ
Rhein

ヨーロッパ中部を流れ、北海に注ぐ川。フランス語名ランRhin川、オランダ語名レインRijn川、英語名ラインRhine川。Rheinはドイツ語名。流長1320キロメートル、流域面積22万4000平方キロメートルで、ヨーロッパ(ロシアを除く)ではドナウ川に次ぐ大河である。

[浮田典良]

流路

源流はスイスのアルプスにあり、サン・ゴタルド山塊の東側に発する「前ライン」とアドゥラ山地に発する「後ライン」が合流して「アルペンライン」となり、ボーデン湖東端部に流れ込む。アルペンラインの下流部はほぼスイスとオーストリアの国境をなしている。ボーデン湖西端部から流れ出た「高ライン」は、スイスとドイツの国境をなしつつ西流して、バーゼルで北へ転じ、「上部ライン」となってライン地溝帯を北北東へ流れる。この地溝帯南半部ではライン川がドイツとフランスの国境をなすが、北半部では両岸ともドイツである。地溝帯北端のビンゲンからは「中部ライン」となってライン板岩山地に峡谷をうがちつつ北西へ流れ、ボンのすこし南で北ドイツ低地へ出て「下部ライン」となり、北西へ流れてオランダに入ったのち、ワール川とレック川に分かれ、西流して北海に注ぐ。おもな支流は、右岸ではネッカー川、マイン川、ラーン川、ジーク川、ルール川、左岸ではアーレ川、ナーエ川、モーゼル川などである。

[浮田典良]

流量・水運

流れはきわめて緩やかで、河口のロッテルダムから370キロメートルさかのぼったボンで標高60メートル、そこからライン峡谷を125キロメートルさかのぼったマインツで80メートル、さらにライン地溝帯を360キロメートルさかのぼったバーゼルで245メートルにすぎない。また流量の季節的変動も比較的少なく、バーゼルでの河況係数(1年間の最大流量と最小流量の比)はわずか14である。そこで古来ライン川は、中部ヨーロッパにおける南北の重要な交通路として利用され、ローマ時代、ローマの勢力はこの川に沿って北上し、沿岸にウォルムス、マインツ、ケルンなどの都市が建設された。現在では河口部の分流の一つに沿うロッテルダムを起点として、ヨーロッパ内陸部へ向かう水上交通路として重要であり、「ヨーロッパ船」と称する内陸水運用の標準船(長さ80メートル、幅9.5メートル、喫水2.5メートル、積載1350トン)が、スイスのバーゼルまでさかのぼることができる。海運と内陸水運の中継地点であるロッテルダム港は、第二次世界大戦後、積み込み・積み下ろし貨物量において、ニューヨーク港を抜き世界第1位となった。さらに河口部には埋立てと掘込みによりユーロポートが建設され、港に接して石油精製所や石油化学工場などが立地している。沿岸の河港としてもっとも重要なのは、ルール地方の門戸であるデュースブルク港であり、そのほか工業の盛んなルートウィヒスハーフェンやマンハイムの港も重要である。

 支流のモーゼル川、マイン川、ネッカー川も、古くから水運に利用されている。いまでは「運河化」が進み、所々堰堤(えんてい)でせき止められて、静水の人造湖の連続のような状態になり、堰堤の一端に設けられた閘門(こうもん)を通じて船が上下している。モーゼル川ではコブレンツからフランスとの国境まで240キロメートルの河道に12の堰堤が設けられ、マイン川はバンベルク付近のレグニッツ川合流点まで384キロメートル(堰堤数35)、ネッカー川はシュトゥットガルト南東のプロヒンゲンまで201キロメートル(堰堤数21)が運河化されている。ライン川はまた他の河川と運河によって結ばれており、そのおもなものは、ライン・ローヌ運河(320キロメートル)、ライン・マルヌ運河(313キロメートル)、ライン・ヘルネ運河(46キロメートル)、ウェーゼル・ダッテルン運河(60キロメートル)、ダッテルン・ハム運河(47キロメートル)、ドルトムント・エムス運河(271キロメートル)、アムステルダム・ライン運河(72キロメートル)などである。また支流のマイン川はマイン・ドナウ運河によってドナウ川と接続しており、バンベルクからニュルンベルクを経てレーゲンスブルク南西でドナウ川に連絡している。

[浮田典良]

輸送物資・観光

ライン川はいわゆる国際河川であって、本・支流沿岸のオランダ、ドイツ、ベルギー、フランス、スイスの船が自由に通航できる。川船による輸送物資は、重量が大で急を要しない物資が主であり、19世紀前半までは穀物がもっとも重要な輸送物資であったが、産業革命後、鉄鉱と石炭がそれにかわり、第二次世界大戦まではこの両者がもっとも重要であった。第二次世界大戦後は土木建設資材(自然石、砂利、セメント)が第1位を占め、また内陸水運用タンカーが急速に増えて石油が石炭をしのぎ、近年はコンテナ船も増えている。

 貨物船のほかに、数は少ないが観光客用の遊覧船も上下する。ことにライン峡谷の部分は、ハイネの詩で名高いローレライの岩や、多くの古城があり、沿岸斜面にはブドウ畑が広がるなど、美しい風光に恵まれ、多くの観光客が訪れる。マインツとケルンを結ぶ定期遊覧船は、下りは約10時間、上りは約14時間を要し、水中翼船は下り3時間40分、上り4時間10分である。

[浮田典良]

歴史

すでにローマ時代以前から交通路として利用されていたが、カエサルのガリア征服(前58~前50)以降、ライン西岸までがローマの支配圏となったため、沿岸各地に置かれた軍隊駐屯基地から都市が発展し、ライン地方はローマ帝国のなかでももっとも経済的に繁栄した地域の一つとなり、ライン川の交易路としての重要性も飛躍的に増大した。民族大移動によりライン地方の繁栄は中断するが、11世紀以降の遠隔地商業の復活に伴い、かつてのローマ都市は中世都市として再生し、ライン川もその重要性を取り戻した。舟運を規制するため各地に税関が置かれたが、中世後期にはその数は著しく増加し(最盛期には60以上といわれる)、盗賊騎士たちの略奪と相まって、交易上の障害となった。大空位時代以降、ライン諸都市を中心に幾度か結成された都市同盟は、これに対抗するものであった。近代に入ると、ライン川を国際管理の下に置き、舟航の自由を保障する方向が模索された。共同管理の試みは、1557年のケルン、トリール、マインツ各大司教、ライン宮廷伯の4選帝侯協定に始まるが、自由航行を保障する国際管理が確立したのは1831年のマインツ協定で、現在(1963年以降)では、ドイツ、ベルギー、オランダ、フランス、スイスが参加する「ライン川航行中央委員会」が管理にあたっている。

 ライン川はしばしば政治上の国境線ともなった。その最初はローマ帝政時代で、ローマ領とゲルマン民族の定住地(自由ゲルマニア)とはライン川を境とした。また、一時はリーメス(堡塁(ほうるい))を築いて東方に拡大したこともある。ついでフランク王国の三分割に際し、ベルダン条約(843)により東フランク王国と中部フランク王国の国境となったが、その後メルセン条約(870)により中部フランク王国が東西両フランク王国(この両国がのちにドイツ、フランスに発展する)に分割された結果、国境は西方に移動した。三十年戦争によりフランスはアルザスを獲得、ライン上流がふたたびドイツとフランスの国境となり、ナポレオン時代にはフランスはライン左岸を併合したが、ウィーン会議ではアルザス・ロレーヌ地方のみの領有を認められた。プロイセン・フランス戦争によりドイツはこの両地方を奪回したが、第一次世界大戦の敗戦でふたたびこれを失い、第二次世界大戦以後も両地方はフランス領となったので、現在でもライン上流はドイツとフランスの国境となっている。

[平城照介]

『小塩節著『ライン河の文化史』(1982・東洋経済新報社)』『マーク・スモーリー著、岡本さゆり訳『ライン川』(1995・偕成社)』『V・ユゴー著、榊原晃三編訳『ライン河幻想紀行』(岩波文庫)』


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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「ライン川」の意味・わかりやすい解説

ライン川
ラインがわ
Rhein

スイス東部のアルプスに源を発し,中部ヨーロッパをほぼ北流して北海に注ぐ川。オランダ語で Rijn,英語では Rhine,フランス語ではラン Rhin。Rheinはドイツ語。全長 1238.8km(うちドイツ領 695.5km),流域面積約 22万km2。ライン川の全長は 1930年代以降,長らく約 1320kmとされてきたが,2010年に訂正された。源流はスイス,グラウビュンデン州西部を流れる前ライン(フォルダーライン)および奥ライン(ヒンターライン)で,同州中部ライヘナウで合流してアルペンラインとなり,クールを過ぎて北流,スイス=リヒテンシュタイン,スイス=オーストリアの国境をなしつつボーデン湖に入る。以後はほぼスイス=ドイツ国境をコンスタンツ,下湖(ウンターゼー)を経て,シュタインからバーゼルまで高地ライン(ホーホライン)として西流。バーゼルからは上流部ライン(オーバーライン)となりライン地溝帯を北流,カルルスルーエ付近まではドイツ=フランス国境をなし,その後はドイツのラインラントファルツ州東縁をマンハイムマインツ付近を経てビンゲンにいたる。ビンゲンからボンまでは中流部ライン(ミッテルライン)と呼ばれ,全流路中で最も景観の優れた区間で,特にコブレンツまで約 60kmの船旅は観光コースとして有名。伝説で知られるローレライの岩もこの区間のほぼ中央にある。ボンの下流は川幅の広い下流部ライン(ニーダーライン)で,ケルンジュッセルドルフを経てエンメリヒの東で国境を越え,オランダ領に入ると間もなくワール川,ネーデルライン川に分かれ,マース川(ムーズ川)などと広大なデルタ地帯を形成,複雑な河川・運河網によって北海およびアイセル湖に注ぐ。
すでにローマ時代から交通路として利用され,中世には沿岸諸都市を結ぶ物資輸送の重要ルートとなっていたが,19世紀以後は改修や運河化が進み,国際河川としての航行の自由に関する協定が結ばれて,産業用水路としての重要性が高まった。今日ではヨーロッパで最も重要な内陸水路で,バーゼル上流のラインフェルデンまで各国の船が遡航する。また支流のネッカー川,マイン川,ラーン川,モーゼル川,ルール川などと,ライン=マルヌ運河,ライン=ローヌ運河,ライン=ヘルネ運河,ウェーゼル=ダッテルン=ハム運河などにより,北西ヨーロッパの各地を結ぶ広範囲の水路網を形成し,建設資材,石油,鉱石などを運ぶ,文字どおり産業の動脈としての役割を果たしている。マルヌ=ドナウ運河の完成によって北海からライン川,マルヌ川,ドナウ川を経て黒海にいたる水路となっている。

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山川 世界史小辞典 改訂新版 「ライン川」の解説

ライン川(ラインがわ)
Rhein

スイスに源を発しドイツ西部を貫流して北海に注ぐ。全長1320km。ローマ帝国はこの川を国境として左岸の各地に要塞を築いた。民族移動以後ライン川はゲルマンの川となり,特に「父なるライン」としてドイツの民族感情と結びついた。遠隔地商業の発展とともにライン川は商業,交通の大動脈となり,流域の諸都市は繁栄をみせた。やがて国際貿易構造の変化,三十年戦争などによってライン諸都市も衰退するが,産業革命とともに豊富な鉱物資源を埋蔵する下ライン(ボンから下流)の流域は工業地帯として発展し,ドイツ経済の心臓部となった。

出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報

世界遺産情報 「ライン川」の解説

ライン川

父なるラインと呼ばれる、ドイツ人の心の故郷がライン川です。スイスアルプスのトマーゼ湖に端を発し、ドイツ・フランスの国境を北に向かい、ドイツ国内を流れ、オランダ国内へと入ったあと、ロッテルダムから北海に注いでいます。全長約1,320km、そのうちドイツを流れるのは約698km。ライン川流域のマインツからコブレンツの間は「ロマンチック・ライン」と呼ばれ、多くの古城が点在しており、ユネスコ世界文化遺産に登録されました。古城を眺めながらのクルーズは、時間を忘れさせるほどの魅力があります。

出典 KNT近畿日本ツーリスト(株)世界遺産情報について 情報

旺文社世界史事典 三訂版 「ライン川」の解説

ライン川
ラインがわ
der Rhein

アルプス山脈に源を発し,アルザス−ロレーヌの東を流れ,ラインラント工業地帯を貫流してオランダで北海に注ぐ川
全長1320㎞。ローマ帝国の対ゲルマン国境,中世ドイツの遠隔地商業の動脈,産業革命以後の国際河川として,その流域とともに多彩な歴史を展開した。ドイツ国内では峡谷美(ローレライの岩)をつくっていることでも有名。

出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報

世界大百科事典(旧版)内のライン川の言及

【オランダ】より


【自然】

[地形]
 この国の地形の大部分は第四紀に形成されたが,東部の西ドイツ国境沿いに第三紀層がわずかにみられ,南東部に突出したリンブルフ州南部台地は白亜紀の岩石からなる標高90~300mの丘陵地(最高点は321mのファールセルベルフVaalserberg)を形成し,地表近くに石炭紀の地層をもつ。国土の骨格を形づくる地形は,オランダを東から西,北へ貫流するライン川,マース(ムーズ)川の新旧の堆積地形であり,その広い中央部はライン川の三角州で河成粘土からなる。ライン川はオランダに流入するとワールWaal川とネーデルライン川に分かれ,後者はアルンヘムの東方でエイセルIJssel川を分流し,さらに下流はレックLek川と呼ばれる。…

【橋】より

…1604年完成のパリ,セーヌ川のヌフ橋(ポン・ヌフPont Neuf)はその代表的な例である。棒状部材を組み立てたトラスは,このころイタリアのA.パラディオにより考案されたが,実際に初のトラス橋をつくったのは1757年,スイスの大工グルベンマン兄弟Hans Ulrick & Johannes Grubenmannで,彼らはその後もライン川に支間100mを超す木造トラス橋を架けている。 産業革命を契機として,橋の材料も人工の鉄が大量に使えるようになり,1779年イングランド,セバーン川の上流に世界初の鉄の橋コールブルックデール橋が建設された。…

※「ライン川」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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