イタリアの詩人。ダンヌンツィオと並びイタリア現代詩の出発点となった巨星。12月31日、イタリア中部の田園地帯で10人兄弟の第4子として生まれる。彼の平穏な少年時代は、11歳のとき、農場の管理人をしていた父親が狙撃(そげき)され死んだことから一挙に暗転し、翌年には長姉と母が死亡し一家は離散、数年後さらに次兄と長兄を失った。この相次ぐ不幸はパスコリの人生と芸術に深い刻印を押した(ちなみに、亡き父に捧(ささ)げられた処女詩集『ミリーチェ』では「死者たちの日」という詩が巻頭に置かれている)。そのためパスコリは家族の「巣」の再建に腐心し、1887年、妹2人を呼び寄せ、やがてはルッカに近いカステルベッキオの田園に家を購入し、そして陰に陽に彼を支えた妹マリーアとの生活が終生続いた(マリーアには大冊の伝記『G・パスコリの生涯に添って』1961、がある)。苦学してボローニャ大学へ進み、在学中、社会主義の運動に参加して逮捕、投獄された。大学卒業後、高校、大学のギリシア・ラテン語教師として国内を転々とし、1906年、恩師カルドゥッチの後任として母校ボローニャ大学のイタリア文学教授の椅子(いす)についた。12年4月6日、ボローニャにて死去。
彼の詩作品は大部分が小冊子や雑誌に片々と発表された。1891年刊行の処女詩集『ミリーチェ(御柳(ぎょりゅう)集)』(決定版1903)から、パスコリの詩の核となるモチーフは顕著であった――もっとも妙(たえ)なる瞬間を截(き)りとったような田園の風物、「鳥のはばたき、糸杉のそよぎ、はるかな鐘の響き」のなかに、あの葬儀の場景が彼のまぶたの裏に焼き付いているかのように、死の気配が忍び寄っている。そして『小詩集』(1897。のち『初期小詩集』と『新小詩集』に分かれる)、亡き母に捧げた『カステルベッキオの歌』(1903)、古典に材を求め蘇生(そせい)させた『饗宴(きょうえん)詩集』(1904)と続く詩集の刊行によって詩人として絶頂を極めた。ほかに、没後刊行のものを含めて4冊の詩集、国際コンクールで何度も栄誉に輝いたラテン語による詩の集成『カルミーナ』(没後1930刊)、散文に『暗きミネルバ』(1898)のほか『神曲』をめぐる研究三部作、論集『思念と叙説』(1907)などがある。
[古賀弘人]
『坪内章訳『ミリーチェ(抄)』(『世界名詩集大成14』所収・1962・平凡社)』
イタリアの詩人。10人兄弟の第4子として生まれたパスコリの,イタリア中部田園での平穏な少年時代は,11歳のとき,狙撃による父の死によって一挙に暗転し,翌年には母と長姉を,数年後さらに次兄と長兄を失うという相次ぐ不幸によって一家は離散した。苦学して,カルドゥッチが教鞭をとるボローニャ大学文学部に進んだ。1879年,社会主義に共鳴したパスコリは示威行動に参加して逮捕され,3ヵ月半の拘留をうけ,以後は政治活動から遠ざかった。大学卒業後は高校のギリシア・ラテン語教師として各地を転々とする。その間に,終生続くことになる妹マリアとの生活が始まるとともに,91年,処女詩集《ミリーチェ》(決定版1903)を刊行,田園の神秘と命あるものの憂愁を象徴の高みまで歌いあげたその詩編は,イタリア詩の流れに新しい時代を画した。同じころ,ラテン詩人としても国際的に認められた。1895年,終(つい)のすみかとなる,ルッカに近いカステルベッキオの家に移り住んだ。各地の大学で教壇に立ちながら,《小詩集》(1897,増補後《初期小詩集》(1904)および《新小詩集》(1909)に分冊),《カステルベッキオの歌》(1903),古典に材を求めた《饗宴詩集》(1904)を刊行し,詩人として絶頂を極めた。1907年,カルドゥッチの後継者としてボローニャ大学イタリア文学部教授に就任。晩年にはリビア戦争(イタリア・エチオピア戦争)などに際してナショナリスト的立場に近づいた。12年4月に没するまでさらに3冊の詩集を上梓した。詩集のほかには,ダンテ研究の三部作,評論集,詩論,教科書のアンソロジーがある。
執筆者:古賀 弘人
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
東海沖から九州沖の海底に延びる溝状の地形(トラフ)沿いで、巨大地震発生の可能性が相対的に高まった場合に気象庁が発表する。2019年に運用が始まった。想定震源域でマグニチュード(M)6・8以上の地震が...
12/17 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
11/21 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新