モンターレ(読み)もんたーれ(英語表記)Eugenio Montale

日本大百科全書(ニッポニカ) 「モンターレ」の意味・わかりやすい解説

モンターレ
もんたーれ
Eugenio Montale
(1896―1981)

イタリアの詩人ジェノバの富裕な商家に生まれる。10代の終わりにはオペラ歌手を志していたが、私淑していた個人教授の死去と第一次世界大戦従軍のため断念。戦後の1922年から『プリーモ・テンポ』誌に詩を発表し始め、革命的自由主義者ゴベッティの勧めで処女詩集烏賊(いか)の骨』(1925)を刊行した。幼少年時代を過ごしたリグリア東海岸、とりわけ別荘のあったモンテロッソの風景が、詩想の源泉となった。海へ落ち込む断崖(だんがい)、身をよじる松の巨木瓦礫(がれき)を呑(の)んで呻吟(しんぎん)する地中海の轟(とどろ)きが、初期詩編には好んで歌われる。幼いときから「生きるという悪」の意識に苦しみ続けたモンターレの詩は、荒々しく重い韻律を響かせるため、同じく第一次世界大戦に参加し、死に囲まれた塹壕(ざんごう)の中で、いっさいの虚飾を払い落とし霰(あられ)のごとき詩を書き留めたウンガレッティの詩編と、際だった対照をみせる。また、やや遅れて第二次世界大戦の惨禍を叙情的な抵抗詩に歌った、シチリア島出身のクアジーモドとともに、モンターレは20世紀イタリア詩壇の主流エルメティズモ立役者となった。

 1925年、哲学者クローチェの提唱した知識人の反ファシズム宣言に署名。1927年にはフィレンツェに居を移して出版社ベンポラッドの編集に加わり、翌1928年にはビウシウー図書館長となったが、ファシスト党員でないため解任された。両大戦間には、ビットリーニガッダパベーゼらと『ソラーリア』誌に加わり、検閲弾圧の強まるなかで、シェークスピア、H・メルビル、T・S・エリオットら英米文学の翻訳を行った。その間に詩集『機会』(1939)を発表、反ファシズム闘争の際には行動党に所属し、解放後は、1946年から『コルリエーレ・デラ・セーラ』紙に拠(よ)って文芸時評を担当した。1948年になるとミラノに居を移し、音楽時評にも健筆を振るうようになった。詩集『嵐(あらし)とその他』(1956)、『サートゥラ』(1971)、『4年間のノート』(1977)を出版。また、散文集『ディナールの蝶(ちょう)』(1956)、『信仰証書(アウト・ダ・フエ)』(1966)、『詩について』(1976)なども発表して、1975年ノーベル文学賞を授与された。

[河島英昭]

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「モンターレ」の意味・わかりやすい解説

モンターレ
Montale, Eugenio

[生]1896.10.12. ジェノバ
[没]1981.9.12. ミラノ
イタリアの詩人,評論家。ウンガレッティ,クァジーモドと並んで,20世紀イタリア純粋詩の主流エルメティズモの代表的存在。ウンガレッティが美の結晶のような短詩を書き,クァジーモドが抵抗運動のなかで古代ギリシア風の抒情を歌ったのに比べて,モンターレはファシズムという困難な時代のなかで,いわば荒寥たる礫土の下に美を封じ込めたような,苦渋に満ちた,暗く響き渡る連作の詩篇を書いた。 1922年に G.デベネデッティや S.ソルミらと『プリーモ・テンポ』 Primo tempo誌を創刊,『ソラーリア』誌の編集にも加わったが,第2次世界大戦中は反ファシズムのゆえに職を追われた。 48年以降は『コリエーレ・デッラ・セーラ』紙の文芸欄を編集し,文芸批評と音楽批評を執筆した。 67年,終身上院議員となり,1970年代に入って一層活発にすぐれた詩作品を発表し,75年度ノーベル文学賞を受けた。主著,詩集『いかの骨』 Ossi di seppia (1925) ,『機会』 Le occasioni (39) ,『嵐とその他』 La bufera e altro (56) ,評論『ディナルド広場の蝶』 Farfalla di Dinard (56) ,『ズベーボとの往復書簡』 Lettere con Svevo (66) ,『異端宣告』 Auto da fé (66) ,『家の外で』 Fuori di casa (69) ,後期の詩集に『サートゥラ』 Satura (71) ,『71年と 72年の日記』 Diario del '71 e del '72 (73) ,『4年間のノート』 Quaderno di quattro anni (77) などがある。

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