〈象徴主義(サンボリスム)〉という語が文学用語として広く使用されるようになったのは,1880年代のフランスにおいてである。とりわけ,86年9月8日の《フィガロ》紙に,モレアスが〈文学的宣言〉と題する文章を発表し,〈芸術における創造精神の現下の傾向を妥当に示すことのできる唯一のものとして,我々は〈象徴主義〉という名称をすでに提唱してきた〉と書いたのが,この用語を定着させる大きなきっかけになった。当時,ベルレーヌを敬愛する若い詩人たちによって,〈デカダン〉と名のるグループが結成される動きもあった。それは,時代を覆っていた科学的実証主義の風潮,あるいはまた物質優位の世界観に疑いをもちながら,衰頽しつつある世界において,倦怠,憂鬱にとらえられずにいられない内面の微妙な状態を表現することが,新しい詩人の役割とする考えかたに基づいていた。そしてモレアスの宣言と同じ86年には,《デカダンLe décadent》と題する雑誌が刊行されたり(1889年まで),〈デカディスムdécadisme〉という用語が用いられたりしたこともある。しかし,結局,象徴主義という用語が優位を占め,デカダンと称したグループも,やがて象徴主義の流れのなかに含まれることになる。
モレアスが象徴主義と命名するよう提唱した傾向は,もちろんこの時期に始まったのではなく,すでにかなり長い歴史をもっていた。モレアスも真の先駆者としてボードレールの名をあげているとおり,《悪の華》をおいて象徴主義を語ることはできない。ボードレールが大きな影響を及ぼしたのは,自然の事物や日常的な光景のような具象的なものを通して,いいかえれば具体物を象徴として,超自然的な宇宙の秘密を感知し認識するという考えかたに基づいて,詩作が実践されていたからである。象徴を説く詩人の行為は,あらゆる感覚が協和する状態のもとで行われ,そのとき詩人の内面は深い喜悦に満たされる。それはまた宇宙の秘密に触れた喜びでもあるから,こうして内面(小宇宙)と外界(大宇宙)のあいだに,密接な交流状態がつくりだされることになる。《悪の華》の〈万物照応(コレスポンダンスcorrespondance)〉に,この考え方が表明されているのはよく知られているし,〈ある種のほとんど超自然的な魂の状態にあっては,いかに平凡なものであろうと,眼の前の光景のなかに人生の深みがすっかり現れることがある。それが象徴となる〉(《火箭》ⅩⅦ)という考察も,ボードレールは書きとめている。
ボードレールはしかし,さまざまな面を豊富にかかえこんだ詩人であった。ベルレーヌは象徴の詩法に感化されるとともに,ボードレールのなかの,とくに倦怠,憂鬱にとらわれた魂の状態を腑分けする面につながっている。秋の重苦しい灰色の空,雪に覆われた平原,風に吹き散らされる枯葉,弱々しい蒼白な月の光等々に託して,彼はうつろいやすい内面の感情や気分のこまかな陰翳(いんえい)を表現することに,卓越した才能を示した。また,ランボーは宇宙の生命力を直覚し,そのもとで自我を解放する状態を夢みて,それを詩作の標点とした。そこにボードレールの影が落ちていることは確実である。つまり,ランボーは,宇宙を見通す透視力をボードレールのなかに認め,それに強く魅惑されたのである。そのほか,象徴主義という名称がまだ一般化する以前に,象徴主義的な傾向と無縁でなかった詩人として,クロス,コルビエール,ヌーボーGermain Nouveau(1851-1920)の名があげられる(また,当時はまったく知られていなかったが,ロートレアモンも,象徴主義の縁辺に置くにふさわしい名である)。
1860年代,70年代を通じて,しだいに地歩を固めてきたこうした新しい文学が,多少とも広く知られる機会をつくったのは,84年に発表されたユイスマンスの《さかしまÀ rebours》である。愚劣,猥雑な現実社会に背を向け,孤独な生活にひきこもって夢想に耽り,美を享楽する人物を主人公として,それ自体が象徴主義のひとつの側面を濃厚に体現したこの小説のなかで,ボードレール,ベルレーヌ,マラルメの詩が熱烈に紹介された。それもただの紹介ではなく,適切な評価に基づいて賞賛されたのである。その前年から,ベルレーヌが発表していた一連の詩人論《呪われた詩人たちLes poètes maudits》(1884)も,新しい詩の動向を知らせる一助になったと思われる。
前記モレアスの宣言は,以上に概観してきたような状況のなかで書かれたものである。ボードレール以来,フランスの詩の世界にしだいに顕在化してきた動向に,こうして新しい名称が与えられることになったが,もちろんその動向は一様ではない。美学的に明確に差異をもつ種々の傾向が,そこには混在している。命名者のモレアスも,〈象徴詩は感知できる形態を“観念(イデー)”にまとわせようと努める〉と述べたが,詩人たちの共通の特質を要約するとなったら,そういう漠然とした言い方しかできなかったのも,当時としては無理からぬところもあったろう。のちにバレリーは,マラルメの言葉を援用して,〈象徴主義とは音楽から富を奪還する試み〉と定義したが,聴く者の内面にさまざまな想像を喚起する音楽と競って,詩句の音楽性を重視しようとする考え方は,この詩人たちに共通している。
象徴主義という名称が,フランス文学の世界で市民権を認められ始めた頃,さまざまな傾向が混在するなかで,とくに若い詩人たちから代表的な存在とみなされていたのはマラルメである。もちろん,マラルメが象徴主義の詩人と自称したのではない。だが,宇宙の純粋な諸関係の神秘を探り,地上世界をオルフェウス神学的に解明することをめざすという詩論は,たしかに新しい動向の核心をなしていた。対象を再現表出するのではなく,純粋観念を表現する詩的言語の組織という考え方にしても,詩句の音楽性を細心緻密に追究する詩法にしても,亀鑑と見なされるにふさわしいものがあった。また,当時はそこまでマラルメ理解は進んでいなかったが,詩を書くことは,個人の感覚,感情,思考を表出するのではなく,個人を超脱した非人称性の場において成り立つという考えも,現在においてはとくに注目に値する。象徴主義が文学の歴史に残した最大の貢献が,人間の内面世界を表現する方向に向かって文学の機軸を移したことにあるとすれば,マラルメの果たした役割はまことに大きい。
80年代後半から90年代にかけて,雑誌も数多く刊行され,若い詩人たちも競って新しい理論に基づく詩作を発表した。皮肉,諧謔,嘲笑をまじえて,衰頽と厭世の意識を歌ったラフォルグは特異な詩的世界をつくりだしたし,G.カーン,モリス,ビエレ・グリッファン,H.deレニエ等々が,象徴主義の担い手を自任して活躍した。ベルハーレン,メーテルリンク,ロデンバックら,ベルギーの詩人たちも象徴主義の文学の重要な一翼を形成した。また,伝統的な定型詩の拘束から脱する試みは,たとえば詩句から詩句への流動的持続の感覚を強化して,内面の繊細な動きをもっと効果的に表現するために,奇数脚を使用する必要ありとしたベルレーヌをはじめとして,徐々にさまざまな形で進められてきたが,この時期から,若い詩人たちのなかでは,自由詩の試みが推進されるようになったことも付け加えておくべきであろう。
そんなふうに詩人たちの活動は多彩だったが,その間,象徴あるいは象徴主義をめぐって理論が統一されることもなかったし,詩人たちがひとつの流派に結集することもなかった。むしろ,種々の解釈が交錯しあい,かえって紛糾を重ねているようにさえ見える。なかには,ジッドの《ナルシス論》のように,内面の世界の微妙な深さを測り,内面の世界に向けられた批評意識を研ぎ澄ますところに象徴の機能を求める,注目すべきエッセーも数えられるが,全体として混乱した論議の時代という感はぬぐえない。
詩の制作の面では,若い詩人たちの作品には,マラルメのような,広大な宇宙に対応しようとする宇宙論的な特質は乏しく,内面の名状しがたい微妙な消息を歌い,倦怠,不安,孤独,衰頽等々の意識や感覚をあえかに表現する傾向が目だった。あえて言うならば,そこには一種の収縮現象,退行現象を認めることができるかもしれない。
いわゆる象徴主義の時代が終わった後,20世紀に入ってから,外なる宇宙と内面の世界との緊密な照応関係を探り,象徴主義の詩の核心の部分をよみがえらせたのはバレリー,とくに《若きパルク》のバレリーである。バレリーはまた,詩とは読者の精神に,ある特殊な状態を喚起する装置であると考え,詩作においてもそれを実践したが,そこにはマラルメの理論が反映している。また,バレリーとともに,象徴主義の後継者として記憶しておかねばならないのは,クローデルである。万物が共生する宇宙の限りない運動を創造主の天地創造のいぶきを模して表現する営みとしての詩という考えには,象徴主義からくみ取ったものが確実に読み取れる。世界のもろもろの対象に対して,それが何を言わんとするかと問いかける態度が,クローデルの詩にも劇作にも底流しているとすれば,それは,万物を根底から問い直すことを詩人の義務と考えたマラルメの教訓が,実践されているということである。さらにもうひとつ付け加えるならば,人間存在の深層に内観の視線を投げこんだプルーストの小説においても,象徴主義から学んだものは明らかに活用されている。狭義に考えるならば,象徴主義は1880年代から20世紀の初頭まで,フランスの詩の主要な動向を導いた思想ということになるし,広義にとるならば,19世紀後半のフランスの文学の世界において徐々に深く浸透し,詩のあり方,ひいては文学のあり方を革新するにいたった動向ということになるが,いずれにせよ,いま言及した例に示されているように,象徴主義が20世紀の文学を開拓する原動力となったことに変りはない。
象徴主義はフランスのみならず,各国にひろがって文学を革新する役割を果たすことになった。つまり象徴主義は国際性を帯びた文学現象ということになるが,それはフランスで胎動し始めた当初から,国際的な質を帯びていたせいであるとも考えられる。ボードレールはスウェーデンボリの神秘思想に親しんでいたし,彼の詩についての考え方が形成される上で,ポーの影響が絶大であったことは疑う余地がない。人間の魂の神秘に洞察の眼を向け,想像力の世界に詩的形象の魅惑を繰りひろげながらその神秘を表現したポーの詩,あるいはまた細部まで明晰な知的思考と鋭い批評意識で組織された詩論は,ボードレール以後も,マラルメをはじめ多くの詩人たちにとって,大きな道標となった。音楽では,R.ワーグナーの音楽が,象徴主義の詩人たちを魅惑したことはよく知られているし,ショーペンハウアー,K.R.E.vonハルトマンなどドイツの哲学は,象徴主義の理論の形成に少なからぬ寄与を及ぼした。
ともあれ,象徴主義が各国にひろがってゆく土壌は象徴主義の内部に用意されていたともいえる。イギリスではA.W.シモンズが熱心な紹介者となり,W.B.イェーツやT.S.エリオットが象徴主義から大きな養分をくみ上げ,イギリスの詩に新しい領域を開いた。ドイツでは,ゲオルゲが象徴主義的な詩風を創始し,オーストリアではリルケやホフマンスタールのある種の作品のなかに,象徴主義の影が見てとれる。ロシアにおいては,一方ではV. S.ソロビヨフの神秘主義思想に導かれたりしながら,事物の隠された本質を探るフランスの象徴主義に共鳴する詩人が輩出したが,優れた作品を残した者としてベールイ,ブロークがいる。日本では,上田敏の訳詩集《海潮音》におけるフランスの象徴詩の紹介と並んで,明治末期から大正にかけて,蒲原有明,北原白秋,三木露風らが象徴詩を試作した。
→デカダン派
執筆者:菅野 昭正
今日,〈象徴主義的〉ないしは〈象徴的〉の語は,古代から現代にいたるさまざまなそのような種類の演劇をさしてしばしば用いられるが,少なくとも〈象徴主義演劇〉あるいは〈象徴派演劇〉といった場合には,それは単に象徴的な演劇でも,広義の象徴主義にのっとった(あるいはその原理の認められる)演劇でもなく,特定の時代の特定の演劇上の思潮,すなわち19世紀の80年代後半にフランスで前衛的文学流派となった〈象徴派Les Symbolistes〉の主張した演劇,あるいはそれに基づく舞台の実践を指す。マラルメとビリエ・ド・リラダンを師と仰ぐ象徴派の若い詩人たちには,〈世紀末〉の唯物思想に対する観念論的・神秘主義的反動と,R.ワーグナーの楽劇に対する熱狂が一種の共通の了解としてあり,文芸とくに演劇に関しては,約15年先輩のÉ.ゾラとその自然主義に対立していた。詩・小説・批評と多方面に才筆をふるったモークレールCamille Mauclair(1872-1945)は1892年に《象徴的劇作術試論覚書》で,同時代演劇の三つの新風として,H.ベックに代表される〈現代生活の心理を描く劇〉と,メーテルリンクの〈未知なるものを前にした魂の悲惨〉を語る〈形而上的対話〉と,ビリエ・ド・リラダン,ワーグナー,マラルメらに代表される演劇,すなわち〈宇宙の理念的ビジョンと象徴変容法から生まれ〉,〈哲学的・知的本質存在〉を〈超人間的登場人物〉によって体現させ,それらが〈感情や観念を象徴する〉と同時に〈純粋理念〉の輝きをはらむ〈神話〉を再現する役割を担わされているような〈象徴的劇作術〉とを挙げた。このうち,第2と第3のものが,象徴主義演劇の具体的な内実をなす。モークレールの試論は,マラルメが1885年以来語ってきた〈未来の群集的祝祭演劇〉のビジョンの通俗化であるが,そのことも含めてそれは象徴派演劇の基本的志向を要約してもいる。それは自然主義演劇の目ざす〈人生の一断片〉(J.ジュリアン)という日常的現実の忠実な再現の対極に立ち,神話のもつ普遍的な象徴機能を体現した詩的言語と観念的物語による暗示的・寓意的な演劇である。ビリエ・ド・リラダンの《アクセルAxel》(1890)はその代表とみなされた。〈夢〉がこのような演劇の特権的な空間と考えられる限りにおいて,それはしばしば〈夢幻的な劇〉の相を帯び,その意味で,メーテルリンクの《マレーヌ姫》(1889)と《ペレアスとメリザンド》(1893)も,作者自身の説く〈いささかめしいた夢遊病者〉の生きる〈日常性のなかの悲劇性〉によって,象徴派に歓迎された。
A.アントアーヌの自由劇場がゾラの自然主義演劇論を根拠にした前衛運動であったように,詩人フォールPaul Fort(1872-1960)の〈芸術劇場Théâtre d'Art〉(1890創設)と,次いでリュニェ・ポーの〈制作座Théâtre de l'Œuvre〉(1893創設)は,象徴主義演劇の神殿たろうとした。背景幕だけの抽象的舞台で,時代や場所に制約されない普遍的な〈魂の劇〉を詩句によって表現しようとするリュニェ・ポーの美学は,イプセン(《ロスメルスホルム》)など北欧作家の上演と相まって,非現実的・夢幻的演戯を生んだ。リュニェ・ポー自身が制作座を一時閉鎖するに当たって述べたように,1880年代から90年代にかけての象徴派演劇は,少数の例外を除いて実践としての優れた舞台は残さなかった。しかし,それはヨーロッパ演劇における最初の〈解体の演劇〉であり,マラルメの問題意識の射程の長さは,現代の演劇についてのラディカルな問いを予告していた。またこの土壌が生んだクローデルの劇作は,当時上演されなかったものの,象徴主義演劇の潜在的可能性を豊饒な演劇的宇宙につなげていたし,リュニェ・ポーが初演してスキャンダルを巻き起こしたジャリの《ユビュ王Ubu roi》は,一方でイェーツのアイルランド土着神話への回帰と,他方で20世紀初頭のダダとシュルレアリスムの先駆をなすものであった。のちのコポーのビュー・コロンビエ座の運動もマラルメを指標としたし,アルトーさえ,ある意味では象徴派の開いた地平で思考している。チェーホフの《かもめ》でトレプレフがニーナに演じさせる前衛劇はまさに象徴派演劇の集約のような作品だが,《かもめ》におけるのと同様,この演劇は現実における挫折と,それにもかかわらずそれが開いた潜在的地平によって,20世紀演劇を準備したのであった。
執筆者:渡辺 守章
西洋美術における象徴的表現は,いつの時代にもありえた。たとえば絵画では,19世紀に写実主義や印象主義が現れるまで,むしろこの方が主流であった。すなわち,画面に幼児を抱いた母親が描かれるとき,それは単なる母子像である以上に,母性の象徴であり,イエスとマリアである場合が多かった。しかし,象徴的表現がはっきり意識された上で,芸術創造が行われるようになるのは,19世紀後半のことである。
1886年モレアスが〈文学的宣言〉を書いたとき,それは主としてボードレール以降のマラルメ,ランボー,ベルレーヌらの詩人たちの創作活動を踏まえたものであったが,〈理念に感覚的な形をまとわせる〉という彼の主張は,他の芸術分野,とくに造形芸術の分野に十分適応しうるものであった。事実,〈象徴主義〉的作風をすでに実践している芸術家もいた。イギリスでは1850年前後からラファエル前派が,象徴に満ち満ちた中世伝説の世界を描いていた。一方,フランスのG.モローは,写実主義や印象主義と同時代を生きた画家であるが,〈見えないもの,感じるものだけを信じる〉という信条の下に神話・伝説の神秘的世界を描き続けた。彼は絵画を,文字で表記される音声言語に対して〈造形言語〉であると考え,自己の観念を表現する媒体として用いた。また,ルドンも,現実にないものの表現に憑かれた画家であった。彼の処女版画集(1879)は《夢の中で》と題され,夢や幻影を視覚化することにより,内なる世界の表明を試みている。
これらの,いわゆる象徴主義の画家たちが,眼前の現実世界からの逃避を目ざした背景には,19世紀後半,着実に進行していた産業革命に伴う科学万能主義や物質主義への反発があった。すなわち,芸術家たちは描かれたものを想像力の出発点として,かなたの世界へ飛翔することを願ったのである。その際,図像の源泉には,考古学的調査・発掘や交通の発達により当時豊富に手に入るようになったエジプト,ギリシア,オリエントなどの資料や中世の美術が大きな役割を果たした。こうした資料は,すでに19世紀前半,ロマン主義の旺盛な想像力にも刺激を与えていた。象徴主義は主題の多くをロマン主義に負っている点で,ロマン主義の,より衒学的な孫ともいえる。夢,アルカディア,憂愁,女(ファム・ファタルfemme fatale),死,幻想といった主題は,そのまま象徴主義の主要テーマとして受け継がれてゆく。
象徴主義の流れは,19世紀末には全ヨーロッパにひろがる。ベルギーの〈レ・バン(二十人組)〉,ウィーンとミュンヘンの〈ゼツェッシオン(分離派)〉,ロシアの〈青い薔薇Golubaya roza〉等,象徴主義芸術家グループが活動を始め,スイス,オランダ,ノルウェー,イタリアなどにも象徴主義的な画家が現れた。眼前の光景に拘泥することから出発したフランスの印象派とその周辺の画家たちも象徴主義に接近し始める。たとえば,ゴッホは意図して色彩を象徴的に用いようとしたし,純粋科学から出発したスーラの点描,ディビジヨニスムもふしぎな神秘的雰囲気を醸し出すにいたり,ベルギーの〈レ・バン〉やイタリアのセガンティーニに影響を及ぼした。91年,フランスの美術批評家オーリエGeorges Albert Aurier(1865-92)は,初めて絵画に対して〈象徴主義〉という言葉を用いたが,その主張の根拠になったのはゴーギャンであった。ゴーギャンは主題よりも画面構成や色彩によって象徴主義を実践しようとし,ベルナールÉmile Bernard(1868-1941)らとブルターニュのポンタベンでクロアゾニスムcloisonnismeを創始した(ポンタベン派)。これは,画面の事物を線で区切り,その中を平塗りする技法である。これにより,画面は装飾性を増し,アール・ヌーボーを暗示するにいたる。ベルナールは後にナビ派に参加し,宗教的主題を印象主義的色彩で描いた。またフランスでは,主題のみを重視し,神秘主義や耽美主義の性格を強めた〈薔薇十字サロン〉のような動きも見られた。
→世紀末
執筆者:隠岐 由紀子
出典 株式会社平凡社「改訂新版 世界大百科事典」改訂新版 世界大百科事典について 情報
サンボリスム、シンボリズム。狭義には、1885年ごろから世紀末にかけてパリを中心に、高踏派や自然主義の文学への反発からおこった文学運動。だが広義には、19世紀後半から20世紀前半に及ぶ一つの文芸思潮と考えられる。象徴主義は文学を出発点としたものであったが、その影響は絵画、音楽、演劇など、あらゆる芸術分野に及んだ。
20世紀の代表的な象徴派の詩人ポール・バレリーは「象徴主義は一つの流派ではない」といったが、象徴主義をひとことで定義づけることはむずかしい。『象徴主義 挿話と思い出』(1903)の著者で詩人のアドルフ・レッテAdolphe Retté(1863―1930)も、象徴派の詩人たちに個別に質問すれば、「質問された人間の数と同じだけの定義が戻ってくる」と語っている。こうした意味で、レミ・ド・グールモンの「芸術における個人主義の表現」(『仮面の書』1896~98)という定義は、もっとも正鵠(せいこう)を射ているように思われる。
19世紀に入るとフランスではボードレール、ベルレーヌ、ランボー、マラルメなどに私淑する青年詩人が輩出した。マラルメ門下のジャン・モレアスは1886年9月18日の『フィガロ』紙に、「一つの文学宣言」として象徴主義宣言を発表した。しかし、モレアスの宣言は時代錯誤的な尚古趣味に偏ったものであり、具体性にも欠けていたので、象徴主義の純然たるマニフェストとはなりえなかった。モレアス自身、やがて象徴主義に背を向け、古代・中世の世界に隠遁(いんとん)した。
[窪田般彌]
象徴主義の先駆的詩人としては、ビニー、女流詩人のマルスリーヌ・デボルド・バルモール、サント・ブーブ、ネルバルなどをあげることができるが、とくに重要な詩人はボードレールである。彼の『悪の華』には象徴主義の詩論ともいうべき「万物照応」の一編があり、「自然は一つの神殿」という宇宙感覚と、「香りと色と響きがこたえ合う」共感覚の詩法が歌われている。ボードレールによれば、「詩人は普遍的類推の解読者」でなければならない。これはロマン派の心情吐露や高踏派の描写の拒否であり、その意図するところは、映像および音楽的表現による暗示である。新聞記者ジュール・ユレJules Huret(1864―1915)の質問に対して、マラルメはこう答えた。「これ物象を明示するは詩興4分の3を没却するものなり……暗示はこれ幻想にあらずや。這般(しゃはん)幽玄の運用を象徴と名づく」(上田敏(びん)訳)。
こうした内面の暗示は、ランボーの「見者の美学」やベルレーヌの「音楽」と無縁なものではない。「ことばの錬金術」に没頭したランボーは、感覚を錯乱させることによって「未知のもの」に到着しようとしたし、「雄弁をつかまえ、その首をねじあげよ!」と叫ぶベルレーヌは、「何よりもまず音楽を」と、奇数脚と陰影の「音楽」を奏でることを提唱した。これら3人の先駆者のことばを要約すれば、オスモン夫人Mme Osmontが指摘しているように、象徴主義は「映像および音楽によって暗示を求める創作」である。アメリカの批評家エドマンド・ウィルソンもポーのことばを借りて、「音楽の不定性」に近づくことが象徴主義の主要な目的であると述べている。要するに、象徴派の意図は、「音楽から詩人たちの富を取り戻す」というバレリーの簡潔なことばに要約される。
[窪田般彌]
アルベール・チボーデは、象徴主義の功績として、自由詩の誕生、純粋詩の確立、先鋭なる前衛主義(アバンギャルド)の自覚の3点をあげている。とくにギュスターブ・カーンGustave Kahn(1859―1936)やラフォルグによって推進された自由詩は、20世紀に継承され、アポリネールを先頭とする現代詩の起点となった。
象徴主義の影響は大きく、単にフランス一国だけにとどまらず、全ヨーロッパ的なものとなった。このことは、マラルメの「火曜会」に集まった多彩な顔ぶれや、多くの外国人の参加をみるならば、十分な証(あかし)となるだろう。わが国においても、上田敏の訳詩や蒲原有明(かんばらありあけ)の創作詩によって、明治から大正にかけて象徴主義的風土が確立された。
[窪田般彌]
19世紀末から20世紀初頭へかけて(1890~1910)ロシア文壇の主流であった流派。他の芸術文化のさまざまな分野と深くかかわり合いながら、世紀初頭のロシア文化の高揚をもたらした。19世紀のロシア文学に支配的であった、芸術の功利性、政治・社会性、「文学の社会への奉仕」というイデーを排し、芸術の自律、手段そのもの、形式の練磨を目ざして、ロシア詩法を一新した。一方、世紀末の危機意識、時代の終焉(しゅうえん)への予感は、未来の世代のための「虚空(こくう)に架け渡された橋」(メレジコフスキー)、捨て石に自らを擬する、自己犠牲的な使命感を生んだ。19世紀中葉以降のロシア散文の隆盛のなかで影の薄かったロマン主義詩人たちを再評価しよみがえらせ、その伝統を受け継いだことによって、ドイツ・ロマン主義の系譜のうえにもたつ。また哲学者ソロビヨフやニーチェの影響も大きかった。したがって、詩的表現の新しい形式の探求から「純粋詩」へ至るフランス象徴主義とは違って、ロシア象徴主義は哲学的、思弁的であり、神秘的魔術(テウルギー)、神知学(テオソフィー)へ至る傾きを有した。
ロシア象徴主義は普通2期に分けて考えられており、前期に属するのはブリューソフ、バリモント、メレジコフスキー、ギッピウス、ソログープ、後期に属するのは20世紀初頭以降に登場するブローク、ベールイ、V・I・イワーノフ、アンネンスキー、ボローシンらの詩人である。なお、とくに前期詩人たちを「デカダン派」とよんで区別する場合がある。もともとはその難解さ、とっぴさ、非道徳性に対する罵(ののし)りことばであった。
[小平 武]
美学的には、象徴、寓意(ぐうい)、アトリビュート(属徴、表徴)などの手法によって、本来、形象化しえない超自然的な世界、あるいは内面、観念などをイメージによって伝達する方法をさす。したがって、宗教的図像の多くは象徴主義的であり、とくにキリスト教中世は象徴主義的表現の全盛期であったといえよう。しかし近年、美術史的には、19世紀後半、印象主義などの実証的表現への対立と抵抗という形で現れ、広範囲な芸術表現に及んだ傾向を、漠然とではあるが、象徴主義、象徴派の名でよぶのが普通である。狭義には、象徴派の批評家アルベール・オーリエがゴーギャンとその周辺の画家たちを美術上の象徴派とみなし、ナビ派のモーリス・ドニもまた自らのグループを象徴派とみなしたことから、いわゆる総合主義とほとんど同義に用いられる場合もある。
19世紀象徴主義は、実証と進歩に導かれた合理主義、写実主義を社会的原則としたこの時代の精神の側面に内在していた「個」の内面的、情緒的世界への探索の要求に対応する。ロマン派は、いわば情熱を外化することによって「個」を確認したが、しかし他方では、神秘的な内面への沈潜をも用意していた。ドイツのカスパー・フリードリヒ、ナザレ派、そしてイギリスのラファエル前派などが、こうしたロマン主義から象徴主義への道を開いている。
生と死、不安、愛、性などさまざまなテーマがここでは取り上げられる。たとえばゴーギャンの『われらいずこより来たり、いずこへ行くのか、われらは何であるか?』、クリムトの「水蛇」、ホドラーの『夜』、ムンクの『叫び』などである。一方、やはり象徴派の先駆者の一人ホイッスラーは、主題ではなく、色彩や筆触の音楽的情調のみに象徴性をみいだそうとした。この考え方はマラルメたちの方法にも対応している。ゴーギャンもしばしば、自分の絵が象徴主義的であるのは、主題によってではなく、画面の形態や色彩の音楽的配置にあると説明し、ドニもまた同じことを語っている。したがって19世紀象徴主義は、主題的、文学的な側面からと、純粋造形的な構成という、一見対立しあう二つの観念によって両面からとらえられなければならない。それにもかかわらず象徴主義は19世紀後半、とくに1880年代から20世紀初頭にかけて、「世紀末」「アール・ヌーボー」と複合しつつ、非常に広範囲に波及していった。ゴッホ、ゴーギャンの場合はもちろんのこと、晩年のセザンヌやモネに象徴主義的な側面をみいだすこともできる。しかしおもな潮流としては、フランスではピュビス・ド・シャバンヌ、ルドン、モローなど、ベルギーでは「薔薇(ばら)十字」のグループ、スイスではホドラー、オーストリアではクリムト、イギリスではラファエル前派の後期の制作、北欧ではムンクたちをあげることができる。この種の傾向は1910年代まで残存するが、20世紀初頭には、フォービスム、キュビスムの出現によってしだいにその力を失っていった。
[中山公男]
『ピエール・マルチノ著、木内孝訳『高踏派と象徴主義』(1969・審美社)』▽『アルベール・マリ・シュミット著、清水茂・窪田般彌訳『象徴主義』(白水社・文庫クセジュ)』▽『「フランス象徴派覚書」(『鈴木信太郎全集 第4巻』所収・1973・大修館書店)』▽『松室三郎著「象徴主義の成立・系譜」(『フランス文学講座3』所収・1979・大修館書店)』▽『アンリ・ペール著、堀田郷弘・岡川友久訳『象徴主義文学』(白水社・文庫クセジュ)』▽『黒田辰男著『ロシヤ・シンボリズム研究』(1979・光和堂)』▽『ハンス・H・ホーフシュテッター著、種村季弘訳『象徴主義と世紀末芸術』(1970・美術出版社)』
出典 株式会社平凡社百科事典マイペディアについて 情報
出典 ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典について 情報
1880年代のフランスに始まった文学運動。自然主義,写実主義に反発して,言葉の持つイメージと音楽性により感覚や心的状態の微妙な陰影を暗示しようとする。ボードレールの影響を受けてヴェルレーヌ,ランボー,マラルメにより詩の分野で実現されたこの運動は,19世紀末の退廃の詩人たちに引き継がれ,また,クローデル,ヴァレリ,プルーストら20世紀の作家に深い影響を与えた。
出典 山川出版社「山川 世界史小辞典 改訂新版」山川 世界史小辞典 改訂新版について 情報
出典 旺文社世界史事典 三訂版旺文社世界史事典 三訂版について 情報
…しかし一方ではアカデミズム以外にも,この運動に対する批判が同時代からすでにあった。印象派があまりにも目に見える現実のみを映すことで精神的内容を看過している,とする立場(モロー,ルドン)は象徴主義と呼ばれる傾向を生み,また後期印象派と名づけられた一群の作家たちもこの反省のうえに立っていた。また新印象主義は印象主義の本能的な部分を乗り越えようとし,科学的・理論的にこれを体系づけた。…
…レビは主著《高等魔術の教理と祭儀》(1856)によって同時代に衝撃を与え,その影響下からパピュスの〈マルティニスト協会〉が生まれた。レビやパピュスの理論は,ユイスマンス,M.バレス,ペラダンのような文学者をはじめ,〈薔薇十字団サロン展〉に参加した画家たち(ゴーギャン,G.モロー,ナビ派など)をも魅了し,フランス象徴主義に文学的芸術的表現を見いだした。イギリスではW.W.ウェストコットがオカルト結社〈黄金の暁教団〉を組織し,D.フォーチュン,クローリー,S.L.M.メーザーズのような魔術師を傘下から生み出し,また詩人W.B.イェーツに霊感を与えた。…
…原詩の気息を生かした柔軟な翻訳で,ルコント・ド・リールの〈象〉など高踏派の壮麗な詩体は雅語を連ねた重厚な調べに移され,G.ダヌンツィオの華麗な〈燕の歌〉,R.ブラウニングの清新な〈春の朝〉,カール・ブッセの浪漫的な〈山のあなた〉など,いずれも名訳の誉れが高い。しかしこの集の意義は何といっても象徴主義の紹介にあり,序文ではE.ベルハーレンの〈鷺の歌〉を例にして象徴詩論が試みられており,これは以後日本の象徴詩の指標となった。作品ではC.ボードレールの〈薄暮(くれがた)の曲〉,S.マラルメの〈嗟嘆(といき)〉,P.ベルレーヌの〈落葉(らくよう)〉など,いずれも原詩の情趣をよく伝え,訳詩の極致とされている。…
…1880年から85年にかけて,マラルメの〈火曜会〉に列席する青年たちがしだいに数を増してき,他方ではカフェを中心として,数多くのクラブが設立されたり小雑誌が刊行されたりして,デカダンスの美学を公然と口にする者がふえてきた。その際,彼らが師表として仰いだ先輩詩人はボードレール,ビリエ・ド・リラダン,ベルレーヌ,マラルメであったから,その運動は象徴主義(サンボリスム)のそれと重なり合うことになった。象徴主義が一定の文学理念を表現する言葉であるのに対して,デカダンスはむしろその心情的,ムード的な側面をあらわしているといえよう。…
…また歴史家ミシュレ,近代批評の基礎を築いたサント・ブーブも,19世紀前半の文学を多彩にした才能として忘れてならない名前である。
[レアリスムと象徴主義]
19世紀の後半になり,〈ロマン主義〉が退潮するとともに,小説の世界ではレアリスムが台頭する。現実生活のもろもろの情景を客観的に提示することを目ざすこの文学思潮の背景には,コントの創始した実証主義の流れがあるが,レアリスム小説の主張は,直接にはテーヌの影響を受けているといわれる。…
…19世紀末の魔術運動にみずから参加したJ.K.ユイスマンス,A.マッケン,B.リットンらの作家は,魔術そのものを文学の主題に据え,儀式魔術の美学的特性を大いに喧伝した。またタロットが新しくデザインされ,ラファエル前派やフランス象徴主義が隆盛を極めたのもこの時期にあたる。フランスではJ.ペラダンを中心に薔薇十字主義の芸術サロンが生まれ,E.サティの音楽などが作られている。…
※「象徴主義」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
年齢を問わず、多様なキャリア形成で活躍する働き方。企業には専門人材の育成支援やリスキリング(学び直し)の機会提供、女性活躍推進や従業員と役員の接点拡大などが求められる。人材の確保につながり、従業員を...
10/29 小学館の図鑑NEO[新版]動物を追加
10/22 デジタル大辞泉を更新
10/22 デジタル大辞泉プラスを更新
10/1 共同通信ニュース用語解説を追加
9/20 日本大百科全書(ニッポニカ)を更新