リルケ(読み)りるけ(英語表記)Rainer Maria Rilke

日本大百科全書(ニッポニカ) 「リルケ」の意味・わかりやすい解説

リルケ
りるけ
Rainer Maria Rilke
(1875―1926)

旧オーストリア・ハンガリー帝国領ボヘミアの首府プラハに生まれた詩人。ドイツ詩史上有数の詩人で、20世紀前半においてはゲオルゲホフマンスタールと、また同時代のヨーロッパ詩史においてはT・S・エリオット、バレリーと並び称される。青年期以降特定の地に居を定めずヨーロッパ各地を転々とし、土地土地の文化を貪婪(どんらん)に吸収するうちにおのずと備わったコスモポリタン的な性格、および、反時代・反通俗の姿勢を終生崩すことなく人間存在のあり方を凝視し続けた批判の精神、それらが絡み合って作品の根底を形づくっている。

[檜山哲彦]

幼・青年時代

病弱のゆえに軍隊を退き民間鉄道会社の職に甘んじて鬱々(うつうつ)としていた父親、社交界にあこがれ、ひとり息子が5歳になるまで女児の格好をさせていた見栄(みえ)っ張りで夢みがちな母親、リルケ9歳のころ離別することになるこの両親のもとでの幼年時代は、かならずしも幸福なものではなかったという。父の夢を継ぐべく入れられたものの神経を傷めるだけに終わった陸軍の学校を中退するころから詩作を始め、19歳のとき処女詩集を出版。プラハ大学、ミュンヘン大学在学中には詩、散文、戯曲、評論などを盛んに書き、何冊かの本を出したが、いずれの作品も新ロマン派、自然主義、ユーゲントシュティル(ユーゲント様式)など、当時代・前時代の様式の模倣にとどまり、独自の輪郭をもつものではなかった。1897年ミュンヘンで知り合い、生涯にわたって好誼(こうぎ)を絶やすことのなかったルー・アンドレーアス・ザロメとつきあううちに個性のある仕事がなされ始める。ルネサンス絵画に目を開かれたイタリア旅行のあいだルーにあてて書き続けた『フィレンツェ日記』(1898)、ルーと同行した2回のロシア旅行の成果である『時祷(じとう)詩集』(1905)、また短編集『神さまの話』(1900)などがこの時期の代表作で、放縦なロマン的・神秘的感受性に基づく汎神(はんしん)論的な世界把握の仕方があらわである。またチェコ民族独立運動への共感を示す短編集『プラハ二話』(1899)には、後の作品には表だつことがなくなる社会的・政治的な関心もうかがえる。

[檜山哲彦]

新たな展開

1900年、ブレーメン郊外ウォルプスウェーデの芸術家村における同時代芸術との出会いが、人生と仕事のうえでの新たな展開を促した。同地の彫刻家クララ・ウェストホフと結婚し、画家評伝『ウォルプスウェーデ』(1903)を仕上げたのち、『ロダン論』(1902/07)の執筆を依頼されてパリへ赴くのである。すでに『形象詩集』(1902、増補第二版1906)のいくつかの詩においても、それまでの無限定な情感の流露を逃れようとする即物的な表現が試みられていたが、さらにロダンのもとで学んだ手仕事の重要さと「見ること」に基づいて、『新詩集』(1907、別巻1908)の詩が書き継がれていく。一般に「事物詩」とよばれる彫塑風の造型性の強いこれらの詩は、自我と対象とを同一視し感情を客体化しようとする意志産物であり、大都市パリが生み出す現代社会の生存の不安への対抗物として意図されたものである。同時期の『マルテの手記』(1910)もまた、不安のなかで新たな現実性を得ようとする意志によっている。

[檜山哲彦]

晩年の到達点

これ以降10年余の間に発表された詩集は『マリアの生涯』(1913)のみであるが、『マルテの手記』完成直後および自らも軍務についた第一次世界大戦中を除いて、創作力は衰えることがなかった。『新詩集』の詩の形式性を超える新たな詩作法を模索し、そこでは個々の形象に託されていた生の不安をじかに存在の問題としてとらえ直していきつつ、アフリカやスペインへの旅行、ピカソの絵やヘルダーリンの詩への親炙(しんしゃ)、バレリーの詩との出会いなどによって蓄えられた精神の糧(かて)をもとにして『ドゥイノの悲歌』(1923)が成った。同時に書き上げられた『オルフォイスへのソネット』(1923)と『ドゥイノの悲歌』においては、生と死を貫く「開かれた空間」という独自な詩と存在の空間が示唆され、さまざまな形象によってそれを喚(よ)び起こそうとする。またこれら両大作以降の最晩年には、「開かれた空間」自体の実現とみなしうる詩が多く書かれ、リルケの到達した地点を示している。

 実存主義にも通じうる内容のゆえに、リルケの詩はしばしば哲学的な考察の対象となった(ハイデッガーなど)。ともすれば閉ざされた自己の神話圏を形づくるとみえなくもない「思想」の内容はさておき、その詩作の価値はなによりもまずドイツ語の表現能力を高め、詩語の表現しうる領域を拡大した点にある。それは、従来の様式ないし言語表現によっては把握不可能となった近代都市の生活感覚に対して、ひたすら身体感覚自体を知性化することをもって応じようとした表現意志の成果である。とくに後期の詩にみられるような、それ自体肉体性を備えたことばに基づいて詩の世界をつくりあげてゆく詩法は、ヨーロッパ近代のロゴス中心主義を脱し、詩を状況化し、見通しえなくなった現実の再構成を図ろうとする現代詩の方法に直接つながっていくものである。

[檜山哲彦]

『富士川英郎監訳『リルケ全集』全7巻(1973~78・弥生書房)』『塚越敏・後藤信幸訳『リルケ書簡集』全4巻(1977~88・国文社)』『神品芳夫著『リルケ研究』(1982・小沢書店)』『塚越敏・田口義弘編訳『リルケ論集』(1976・国文社)』

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「リルケ」の意味・わかりやすい解説

リルケ
Rilke, Rainer Maria

[生]1875.12.4. プラハ
[没]1926.12.29. バルモン
ドイツの詩人。新ロマン派風の詩で出発したが,ロシア旅行 (1899,1900) を契機に生れた『時祷詩集』 Das Stunden-Buch (05) で独自の詩境を開拓した。 1902年からパリでロダンに師事。言語による彫刻ともいうべき「事物詩」 Dinggedichteに挑み,『新詩集』 Neue Gedichte (07~08) にその成果を示すとともに,この都会生活を通じて人間実存の不安に迫り,小説『マルテの手記』 Die Aufzeichnungen des Malte Laurids Brigge (10) を書いた。以後アフリカ,スペイン,イタリア,フランスなどを遍歴したのち,19年からスイスに住み,同地で没した。完成に 10年を要した大作『ドゥイノの悲歌』 Duineser Elegien (23) は人間存在の肯定を希求する芸術精神の苦闘の跡を示し,同じ基盤から湧き出た『オルフェウスによせるソネット』 Sonette an Orpheus (23) とともに 20世紀詩の頂点といわれる。以後フランス語で作詩したり,バレリーの翻訳をして,晴れやかな晩年を過した。

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