ヌレーエフ

百科事典マイペディア 「ヌレーエフ」の意味・わかりやすい解説

ヌレーエフ

ロシア(ソ連)出身の舞踊家,振付家。両親はタタール人といわれる。はじめウラル山脈に近いウファのアマチュア民族舞踊団で踊り,のちにバレエの個人レッスンを受ける。1955年からレニングラード(現サンクトペテルブルグ)のワガノワ舞踊学校でバレエを学び,キーロフ劇場(現マリインスキー劇場)バレエ団に入団する。1961年同バレエ団のパリ公演の際に亡命。1962年英国のローヤル・バレエ団に招かれ,フォンテインの相手役として数多くの作品を踊り,人気を得る。その後,世界各地のバレエ団で踊り,男性舞踊手の地位向上に大きな貢献を果たした。1982年オーストリア市民権獲得,1983年―1990年パリのオペラ座舞踊監督を務めた。亡命直後から振付も始め,《ラ・バヤデール》(1963年),《眠れる森の美女》《ドン・キホーテ》(1966年),《くるみ割り人形》(1967年)などの古典バレエ改訂や,《マンフレッド》(1979年),《テンペスト》(1982年)などの創作作品も残している。1963年初来日。→マクミラン
→関連項目森下洋子ルルーシュ

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改訂新版 世界大百科事典 「ヌレーエフ」の意味・わかりやすい解説

ヌレーエフ
Rudolf Nureyev
生没年:1938-93

ソ連出身の舞踊家,振付師。はじめアマチュア・グループで民族舞踊を踊り,私塾でバレエを勉強した。1955年レニングラード国立舞踊学校8年級に編入。58年同校卒業後,キーロフ・バレエ団(レニングラード・バレエ団)に入る。直ちに主演者の座を与えられるが,周囲および上層部との軋轢(あつれき)に堪え切れず,61年同バレエ団のパリ公演の際に政治亡命した。以来,イギリスのローヤル・バレエ団をはじめ世界各地のバレエ団に招かれて踊り,最も人気の高い舞踊家となった。82年オーストリア市民となり,83年からパリのオペラ座の舞踊監督に就任。その踊りは野獣のしなやかさと燃える魂を具現するといわれ,舞台上の存在感は比類がない。ニジンスキー再来ともいわれ,またヌレーエフによって19世紀以来はじめて舞台の中心が舞姫から男性舞踊家へと移り,その傾向は現在もつづいている。当り役に《海賊》《ジゼル》《ドン・キホーテ》などの古典の改訂上演があり,また,チャイコフスキーの《マンフレッド》(1979),《テンペスト》(1982)に振付けしている。自伝《ヌレーエフ》(1961)を著した。1963年初来日。
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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ヌレーエフ」の意味・わかりやすい解説

ヌレーエフ
ぬれーえふ
Рудолф Нуреев/Rudolf Nureev
(1938―1993)

ロシア出身のバレエ・ダンサー。イルクーツクに生まれる。ダッタン系のダンサーで、跳躍力に優れ、野性味もあり、ニジンスキーの再来といわれた。レニングラード(サンクト・ペテルブルグ)・バレエ学校でA・プーシキンに学んだのち、レニングラード(キーロフ)・バレエ団に所属したが、1961年パリ公演のときにオルリー空港で劇的な亡命をし、それ以来西ヨーロッパにとどまった。M・フォンティンから森下洋子まで多くのパートナーと踊り、P・テーラー、M・グレアムらのモダン・ダンス作品も踊っている。振付師としても『ドン・キホーテ』『ライモンダ』『バヤデール』など多くの改訂版を上演した。パリ・オペラ座の芸術監督を1989年まで務めた。1982年、オーストリア国籍取得。映画出演では『バレンチノ』(1977)などがある。1973年アメリカ・ダンスマガジン賞受賞。

[市川 雅・國吉和子]

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