明治期に日本で活躍したフランスの画家。パリのエコール・デ・ボザール卒業後,ゾラの小説《ナナ》の挿絵を描いたりしていたが,ゾラや美術批評家L.ゴンスらとの交際を通じてジャポニスム(とくに浮世絵)の影響を受け,日本に関心を抱いた。1882年1月,日本美術研究のため来日,同年10月から2年間,陸軍士官学校の画学教師を務める。85年《団々(まるまる)珍聞》に漫画を寄稿,また日本をテーマにした3冊の銅版画集を出版した。とくに大版の《日本素描集Croquis japonais》(1886)は練達な画技と細緻な観察眼をよく示している。91年,芸者の生活を描いた石版画集《東京芸者の一日》を刊行。一方,1887年から横浜居留地で漫画雑誌《トバエTôbaé》をはじめとする数々の風刺雑誌,風刺画集を刊行し,条約改正や日本をめぐる内外の政局,日本人をしんらつに風刺した漫画を描き,官憲に注意人物と目された。日清戦争にはイギリスの雑誌《ロンドン・グラフィック》の特派員として朝鮮に従軍。95年,日本女性と結婚し一子をもうけたが,99年6月,条約改正による居留地廃止や官憲の弾圧をおそれて帰国,晩年はパリ郊外に住んだ。
執筆者:清水 勲
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フランスの画家。パリに生まれ、エコール・デ・ボザールに学ぶ。ゾラやフェリックス・ビュオらとの交際によりジャポニスムの影響を受け、日本に関心をもつ。ビュオに銅版画技術を学び、1882年(明治15)1月、日本美術研究のため来日。当初は横浜で画塾を開くが、同年10月から2年間、陸軍士官学校の画学教師を務め、83年から86年にかけて四冊の銅版画集を刊行。87年ころ帰国を決意するが、西欧ジャーナリズムの通信員の仕事を得て長期滞在するようになり、同時に『トバエ』(1887~90)などの風刺雑誌や風刺画集を刊行し始めるが、条約改正、内外政局、日本人の辛辣(しんらつ)な風刺で官憲にマークされる。日清(にっしん)戦争にはイギリスの新聞『グラフィック』の特派画家として従軍。94年に日本女性佐野マスと結婚して息子モーリスをもうけるが、条約改正による「居留地廃止・官憲の弾圧」を恐れ、マスと離婚し、99年6月モーリスを伴って帰国。パリ郊外ピエーブルに没。
[清水 勲]
『清水勲著『明治の諷刺画家・ビゴー』(1978・新潮社)』▽『清水勲著『絵で書いた日本人論――ジョルジュ・ビゴーの世界』(1981・中央公論社)』▽『清水勲編『ビゴー日本素描集』(岩波文庫)』
(佐藤道信)
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1860.4.7~1927.10.10
明治期のフランス人風刺漫画家。パリ生れ。5歳でその画才が人々を驚かす。パリの美術学校を中退,新聞や雑誌の画の仕事をうけるうち日本美術に魅せられる。1882年(明治15)に来日,陸軍士官学校の画学教師を2年勤める。日本と日本人の生活を描きつつ,雑誌「トバエ」などを創刊,日本の新聞・雑誌にも時局風刺漫画を数多く発表した。治外法権が撤廃される直前の99年6月,離日した。
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… 明治以後の日本ではしばらく江戸末期の遊びの精神は衰え,まじめに一直線に西洋近代に学ぶことに関心が集中した。明治以前からの漫画を描き続ける河鍋暁斎(かわなべぎようさい)のような作家はいたが,明治以後の漫画はむしろドーミエやホガースの漫画をヨーロッパからひきよせて,民衆に対していばりちらす日本の成上り官僚の姿をおかしく描いた,イギリス人C.ワーグマンとフランス人G.ビゴーによって新しくおこされた。イギリスの漫画雑誌《パンチ》にならって,ワーグマンの発行した日本最初の漫画雑誌《ジャパン・パンチThe Japan Punch》(1862創刊,87廃刊)は,〈ポンチ絵〉という名を日本に残した。…
※「ビゴー」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
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