戯画、風刺画、大津絵、鳥羽絵(とばえ)、狂画、カリカチュアcaricature、カートゥーンcartoon、劇画、コミックcomicなど、多様な呼称がつけられた絵画分野、あるいはその総称。
[清水 勲]
漫画とは何かをひと口で定義することは非常にむずかしい。それは自由奔放な絵画空間であり、規定されないところにその特質が隠されているといえるからである。また「漫画」ということば自体、大衆のなかに定着したのは昭和初期という比較的新しいことであった。そのことばの確立によって、写真、映画、ポスターと並ぶ近代複製美術の一大分野を形成するようになる。
したがって、漫画をあえて定義すると「遊びの心」あるいは「風刺の心」をもって描いた絵ということになる。おもしろい漫画とはこの「遊び」の精神、「風刺」の精神がバランスよく含まれた絵だといえる。現代漫画はカートゥーン(一枚絵漫画)とコミック(ストーリー漫画)に大別できる。コミックは20世紀に入って映画などの影響を受けて世界的に発展してきたストーリーのある「こま漫画」である。漫画小説、連続漫画、絵物語、劇画などとよばれてきた。
漫画に相当する絵は、人間が絵を描くことを知ったころから描かれていたと思われるが、顔料・墨・筆・紙などが発明されることにより表現法が多様化し、大量に描かれるようになった。しかし、漫画は元来、描かれて一定の目的が達せられると捨て去られるのが宿命であった。洋の東西を問わず、古代・中世の作品で残されたものが少ないのは、そうした特質も影響しているように思われる。古代エジプトの動物戯画、古代ギリシアの壺絵(つぼえ)の戯画、正倉院古文書の戯画「大大論」、京都・高山寺の『鳥獣人物戯画』などは現代に伝えられた貴重な作品である。
そうしたものは特定の人々の鑑賞のために製作されたものであるが、版画技術が発明されると様相が一変する。不特定多数を対象にした漫画が描かれるようになるのである。
中世ヨーロッパの宗教絶対社会のなかで、木版画は宗教プロパガンダの役割を果たす一方で、人間性の目覚めともいうべき宗教に対する風刺画をも登場させる。たとえば、「尼僧の部屋に出入りする僧侶(そうりょ)」といった木版画に、聖職者への不信の念が感じられる。高僧たちの遊蕩(ゆうとう)図なども数多く描かれ、そこには宗教への不信と人間批判が込められていた。銅版画では17世紀のジャック・カロ、18世紀のウィリアム・ホガース、ゴヤなどが社会に対する批判を込めた風刺画を描き出す。日本では江戸時代になると木版画技術が進歩し、そのなかで「鳥羽絵」本とよばれる木版漫画本が大坂に登場する。1720年(享保5)から刊行された『鳥羽絵三国志』『鳥羽絵欠(あく)び留(どめ)』などの版本で、京都や江戸でも人気を博した。
木版画と銅版画は原版をつくるうえに手間暇がかかり、1点当りの製作枚数にも限度があった。したがって、一つの漫画作品が大衆社会に大きな影響力を及ぼすまでにはまだ時間がかかった。そして18世紀末、ドイツのゼーネフェルダーによって発明された石版画(リトグラフ)技術は漫画の世界に革命をもたらすに至る。水と油の反発力を利用した石版画は、木版画・銅版画に比して原版製作に時間がかからず、大量に刷ることができるため、ジャーナリズムのなかに利用されるようになる。すなわち、時局風刺漫画の登場である。1829年、フランスのエミール・ジラルダン、オノレ・ド・バルザックらに後援されて創刊された週刊漫画新聞『シルエット』にはオノレ・ドーミエが石版漫画家としてデビューし、同じくフランス人のシャルル・フィリポンCharles Philipon(1800―1861/1862)が創刊した週刊漫画新聞『カリカチュール』(1830)、『シャリバリ』(1832)にはドーミエ、アレクサンドル・ガブリエル・ドゥカンAlexandre Gabriel Decamps(1803―1860)、ニコラス・トゥーサン・シャルレNicholas Toussaint Charlet(1792―1845)、アンリ・モニエ、ポール・ガバルニPaul Gavarni(1804―1866)などが石版漫画家として活躍した。
印刷技術はさらに、色彩石版印刷、写真凸版印刷、ステンシル彩色、写真網版製版、色彩写真凸版印刷、オフセット印刷と発展し、大量部数の発行が可能となって漫画新聞、漫画雑誌、新聞漫画付録、漫画本が続々と登場するようになる。日本では1877年(明治10)創刊の『団団珍聞(まるまるちんぶん)』が亜鉛凸版印刷による初の大量発行漫画誌(創刊号は5000部以上発行)となり、1905年(明治38)北沢楽天(らくてん)が創刊した『東京パック』は色彩写真凸版印刷により万単位の発行部数を誇った。そして、21年(大正10)日本最初の定期刊行新聞日曜付録『時事漫画』はオフセット印刷によって10万単位の部数を発行するに至る。現代では製版・印刷にコンピュータが駆使され数百万部という新聞並みの発行部数を誇る漫画雑誌がいくつも登場している。このように近代漫画や第二次世界大戦後の漫画は洋の東西を問わず、ジャーナリズム、マスコミのなかで発展し今日に至っている。また、1990年代以降はインターネットの普及により、パソコンで見られるカートゥーンやコミック、携帯電話で読めるコミックも登場した。
[清水 勲]
『鳥獣人物戯画』『地獄草紙』『病草紙(やまいのそうし)』『百鬼夜行(ひゃっきやこう)絵巻』などの古代・中世戯画作品は、肉筆で描かれ、一部の人々の鑑賞の対象になっていた。やがて漫画は版画で表現するという複製美術となり、大衆の享受するものになった。その出発点は江戸中期に大坂で出された鳥羽絵本である。漫画の元祖といわれていた鳥羽僧正(とばそうじょう)の名を冠した鳥羽絵は、誇張や省略の技法を使った世界的にみてかなり早い時代に生み出された木版漫画本だった。江戸初期、大津という一地方の仏画にすぎなかった大津絵は、江戸幕府がキリシタン弾圧政策を行いだすと仏教徒の証(あかし)として求められるようになり、戯画的主題が多くなってからも、その護符的性格が受け継がれて江戸庶民の人気を得た。彼らは今日の漫画を意味するものとして「大津絵」ということばを使ったほどだった。江戸後期には『北斎(ほくさい)漫画』(第1編、1814)、『漫画百女(ひゃくじょ)』(1814)といった版本が出るが、ここで使われた「漫画」は従来からあった「漫筆」から派生したことばで、今日の「スケッチ」のような意味であった。「狂歌」から「狂画」ということばも派生している。このほか江戸時代を通じて使われた漫画を意味することばとしては、文字絵、鞘絵(さやえ)(鞘写し)、もぬけ絵、判じ物、一筆(ひとふで)絵、影絵など100種以上ある。1855年(安政2)の安政(あんせい)大地震直後に売り出され、地震をおこすものと信じられていた鯰(なまず)をテーマにした鯰絵は、飛ぶように売れてその数は300種近くに達した。漫画というものが江戸の人々の生活に深く入り込んでいたことがよくわかる。
日本の近代漫画は、ヨーロッパの影響を受けてスタートする。1862年(文久2)に横浜居留地でイギリス人チャールズ・ワーグマンによって創刊された漫画雑誌『ジャパン・パンチ』の影響を受けて、幕末の日本の新聞に漫画が掲載されるようになる。1874年(明治7)には仮名垣魯文(かながきろぶん)・河鍋暁斎(かわなべきょうさい)によって『ジャパン・パンチ』をそっくりまねた『絵新聞日本地(にっぽんち)』が刊行される。日本最初の漫画雑誌(木版刷)である。明治の漫画は、浮世絵師たちによって錦絵(にしきえ)のなかにも描かれる。文明開化風俗が絶好の漫画テーマになったのである。河鍋暁斎の「暁斎楽画」シリーズ、昇斎一景(しょうさいいっけい)(生没年不詳)の「東京名所三十六戯撰(ぎせん)」シリーズ、月岡芳年(よしとし)の「東京開化狂画名所」シリーズ、小林清親(きよちか)の「清親ポンチ」「百面相」シリーズなどである。本格的な漫画雑誌は、1877年に広島県出身の野村文夫によって創刊された『団団珍聞(まるまるちんぶん)』である。まず洋画家の本多錦吉郎(きんきちろう)(1850―1921)がペンを使った漫画を初めて描き、藩閥政治を辛辣(しんらつ)に風刺して人気をよぶ。ついで小林清親が迫力ある石版漫画で自由民権運動高揚期の風俗世相を描く。ジョルジュ・ビゴーや田口米作(べいさく)(1864―1903)もこの雑誌に漫画を描いた。ワーグマンやビゴーの影響を受けた長原孝太郎(1864―1930)は森鴎外(おうがい)の主宰した雑誌『めさまし草(ぐさ)』に毎号漫画を描いた。長原は自身でも『とばえ』という不定期刊の漫画雑誌を出した。明治も30年代に入ると、北沢楽天や小杉未醒(みせい)(小杉放庵(ほうあん))のような明治生まれの人々が漫画を描き出す。楽天は当時の欧米漫画のスタイルを取り入れ、あか抜けたリアルな画風で人気漫画家になる。とくに1905年(明治38)に創刊した『東京パック』は錦絵のような大判で、全ページがカラー漫画であることで大好評を博し、富と名声を獲得する。楽天の成功によって職業としての漫画家を目ざす青年たちが出てくる。
1912年8月、岡本一平が朝日新聞社に入社、1914年池部鈞(ひとし)(1886―1969)が国民新聞社に入社、その翌年近藤浩一路(こういちろ)が読売新聞社に入社してそれぞれ漫画を描き始める。漫画家といえば新聞社の漫画担当記者といった時代だった。1915年、そうした在京の新聞漫画家が東京漫画会というグループを結成し、漫画家の仕事を世間に宣伝しだす。大正期には『トバエ』(1916)、『漫画』(1917)、『赤』(1919)、『ユーモア』(1926)といった漫画誌が創刊されるが、いずれも短命に終わる。しかし、1921年に『時事新報』が読者獲得の手段として創刊した日曜付録『時事漫画』(北沢楽天主筆)は初の定期刊行漫画付録で、楽天とその門人たちが健筆を振るい、1931年(昭和6)『漫画と読物』、1932年『漫画と写真』と改題して1933年まで続く。
1923年、『アサヒグラフ』の連載『正チャンの冒険』(織田小星(しょうせい)(織田信恒、1889―1967)文・樺島勝一(かばしまかついち)画)、『報知新聞』連載の『ノンキナトウサン』(麻生豊(あそうゆたか)(1898―1961))が人気を博し、国民的な漫画ヒーローが登場するようになる。そして新たに児童漫画というジャンルが脚光を浴び、昭和に入ると講談社や中村書店がその分野で話題作を次々と刊行していく。『長靴の三銃士』(牧野大誓(たいせい)(1894―1964)文・井元水明(いもとすいめい)(1893―1953)画)、『のらくろ』(田河水泡(すいほう))、『冒険ダン吉』(島田啓三(1900―1973)、以上講談社)、『魔法の昭(しょう)ちゃん』(謝花凡太郎(しゃかぼんたろう)(1892―1963))、『火星探険』(旭太郎(1901―1940)作・大城(おおしろ)のぼる(1905―1998)画)、『坊やの密林征服』(芳賀たかし(1909―1963)、以上中村書店)などである。横山隆一の『フクちゃん』(『朝日新聞』連載)も第二次世界大戦前・戦中の人気漫画となった。
大正末期から登場しだした児童漫画の出版は、1933年から1938年までがピークで、以後は急速に減少していく。それに1938年の国家総動員法の施行により、児童漫画に規制が加えられたからである。同年秋に発表された内務省図書課の「児童読物、並(ならび)に絵本に関する内務省指示事項」には、付録漫画や低俗漫画を廃止すること、雑誌のなかの漫画の量を減らすこと、とくに長編漫画を減らすことなどが記されている。『少年倶楽部(くらぶ)』の人気漫画であった「のらくろ」などの連載もこの指示で消えていく。
第二次世界大戦後のいわゆる戦後漫画は、何度かのブームを経ながらストーリー物(劇画・コミック)の比重を増大させていく。最初のブームは1946年(昭和21)の漫画雑誌創刊ブームである。『クマンバチ』(東京赤い星社)、『VAN』(イブニング・スター社)、『新漫画』(臼田(うすだ)書店)など数十種が創刊された。このブームは3年ほど続く。この間、手塚治虫(おさむ)のアニメ化を意識した映画的表現手法の児童漫画が人気を博し、そのスタイルは第二次世界大戦後の漫画に大きな影響を与える。続いて1954年末に創刊された『漫画読本』(文芸春秋社)が人気をよび、第二次漫画ブームが到来する。このころ貸本屋も隆盛の時代を迎え、貸本漫画誌として『影』(1956、日の丸文庫)、『街』(1957、セントラル出版社)などが創刊される。そしてそこに描かれる青少年を読者対象にしたリアルな描写のストーリー漫画に「劇画」という名称がつけられる。1959年、白土三平(しらとさんぺい)(1932―2021)が『忍者武芸帳』(全17巻、三洋社)を刊行しだすと話題をよび、劇画ブームがやってくる。1959年、初の少年週刊漫画誌『少年サンデー』(小学館)、『少年マガジン』(講談社)が創刊される。前者は「オバケのQ太郎」(藤子不二雄(ふじこふじお))などで、後者は「巨人の星」(梶原一騎(かじわらいっき)(1936―1987)作・川崎のぼる(1941― )画)などで人気を得る。1966年、『少年マガジン』は100万部を突破した。1978年には「がきデカ」(山上たつひこ(1947― ))の人気で『少年チャンピオン』(秋田書店)が200万部を突破する。1980年には、少年週刊誌5誌の新年号発行部数が計1000万部を突破する。1994年(平成6)には、『少年ジャンプ』(集英社)は653万部発行を記録した。これは『ドラゴンボール』(鳥山明(とりやまあきら)(1955―2024))連載終了直前の現象であった。漫画雑誌は子ども向き、少女向き、青年向き、女性向きからさらには中年世代向きまで現れるが、1990年代なかばの年間19億冊(漫画雑誌と漫画本の合計)発行をピークに減少傾向となる。
その背景には少子化、ゲームや携帯電話やインターネットなどに金と時間を消費する傾向があげられるが、漫画喫茶や新古書店といわれるリサイクル型古書店の盛況は、漫画ファンが減少しているわけではないことを示している。しかし、漫画喫茶や新古書店の登場は、漫画本の売上げを減らし、出版社や漫画家に大きな影響を与えている。
1970年代から日本のテレビアニメは世界中で人気を博し、1984年(昭和59)の宮崎駿(はやお)による『風の谷のナウシカ』の登場によって、劇場用アニメも世界で注目されるようになる。そして、1990年代にはゲームやアニメなどとファンを共有する、いわゆるメディアミックスのエンターテインメントが登場、その象徴的な作品『ポケットモンスター』(任天堂・ゲームフリーク・クリーチャーズ)が日本および世界でヒットする。
漫画やアニメのキャラクターは商品の宣伝、販売促進にも利用されだし、人気キャラクターのなかには「アンパンマン」など、毎年億単位の使用料を得るものがいくつも出てきている。巨大な利益を生み出すキャラクター・ビジネスの隆盛は、著作権をより厳格にする傾向を生み出し、1998年、アメリカ議会は著作権保護期間を、作品発表後75年間を95年間に、作家の死後50年間を70年間に延長する法律を可決した。そのため作家の死後50年間としている日本との差が生じてきた。
また、コンピュータ・グラフィクスによる漫画製作、インターネット上の漫画作品配信など、技術革新は漫画の世界も変革しようとしている。1990年代のコミック作家は4000人を超え、アシスタントを2万人抱える産業になった。
[清水 勲]
先史時代から始まる絵画の歴史のなかで、その出発点となっている絵画類は戯画的描法をとっているから、戯画と一般絵画との区別はつけにくいが、呪術(じゅじゅつ)的あるいは宗教的意味で描かれた絵画以外の絵、たとえば寓意(ぐうい)画のなかに戯画の出発点があるように思える。古代エジプトの動物戯画などがその例である。古代ギリシアでは人間の所業が戯画テーマとして登場してくる。中世社会では絶対的権力をもっていた宗教に対して、その重圧を跳ね返さんとする欲求から宗教風刺画が描かれる。ルネサンス期になると人間の内面をより深く見つめた風刺画が描かれるようになる。そしてレオナルド・ダ・ビンチ、ヒエロニムス・ボス、ピーター・ブリューゲル、ジュゼッペ・アルチンボルドなど西洋漫画の基盤をつくる人々が登場する。
17世紀に入るとフランスのジャック・カロが、当時流行した即興仮面劇や道化芝居の形式を踏んで人間社会の現実を描き出した。彼の銅版画シリーズ「戦争の悲惨と不幸」はのちにゴヤに影響を与える。18世紀にはイギリスのホガース、トマス・ローランドソンThomas Rowlandson(1756―1827)、ジェームズ・ギルレーJames Gillray(1756/1757―1815)、スペインのゴヤなどが優れた風刺画を描き近代漫画の基盤をつくりだす。とくにホガースが議会に諮って著作権法を制定させたことは、漫画の歴史にとってきわめて意義深いことである。19世紀に入ると石版刷の導入という印刷技術の進歩により漫画新聞・漫画雑誌・漫画本が盛んに刊行されるようになり、フランスのドーミエ、モニエ、ガバルニ、イギリスのジョージ・クルークシャンクGeorge Cruikshank(1792―1878)、リチャード・ドイルRichard Doyle(1824―1883)、ドイツのウィルヘルム・ブッシュなどが活躍した。19世紀に発明された写真は、画家のみならず漫画家にも大きな影響を与える。肖像写真の表現する迫真性に対抗するため、顔に力点の置かれた似顔絵漫画が誕生するのである。『レクリプス』『リュヌ』『リール』などの漫画雑誌の巻頭にそうした肖像漫画が描かれた。
19世紀末、フランスでスタンラン、ジャン・ルイ・フォランJean-Louis Forain(1852―1931)、ロートレックなどが風俗漫画を描いていたころ、アメリカでは新聞に連載漫画が登場し始めた。『ザ・ワールド』紙に載ったリチャード・フェルトン・アウトコールトRichard Felton Outcault(1863―1928)の『イエロー・キッド』がその最初で、コミック・ストリップの歴史がここから始まる。20世紀は連載漫画やストーリー漫画が花開く。そして、その描写は映画の表現方法からも数々の影響を受ける。また漫画を動かして見せるアニメーションも20世紀に入って急速に発展していく。
20世紀の最大の悲劇である二つの世界大戦には、多くの漫画家が風刺漫画を描く。第一次世界大戦中、オランダのルイス・レーメーカーLouis Raemaekers(1869―1956)は激しい反ドイツ漫画・反戦漫画を描き、ドイツ皇帝から賞金付きで行方を追跡される。この大戦後、敗戦国ドイツからゲオルゲ・グロッスが登場し、反戦・反軍国主義の風刺画を描く。グロッスの画風は下川凹天(へこてん/おうてん)(1892―1973)、柳瀬正夢(やなせまさむ)などの日本の漫画家に大きな影響を与える。第二次世界大戦では、ロシアのククルイニクスイKukryniksy(クプリヤノフMikhail V. Kupriyanov(1903―1991)、クルイロフPorfiri N. Krylov(1902―1990)、ソコロフNikolai A. Sokolov(1903―2000)の3人からなるグループ名)、イギリスのローなどが優れた風刺画を描いた。
第二次世界大戦後の漫画家として世界的に知られるのは、フランスのシネ、サンペJean-Jacques Sempé(1932―2022)、アンドレ・フランソア、レイモン・ペイネ、シャバル、デュブウ、イギリスのロナルド・サール、ジェラルド・スカーフ、スイスのジョバネッティ、デンマークのヤコブソン、ロシアのククルイニクスイ、エフィモフ、アメリカのソウル・スタインバーグ、ロバート・オズボーンRobert Chesley Osborn(1904―1994)、オットー・ソグローOtto Soglow(1900―1975)、バージル・パーチ、チャールズ・アダムスCharles Samuel Addams(1912―1988)などの人々である。チック・ヤングChic Young(1901―1973)の『ブロンディ』、キャラクターのスヌーピーで有名なチャールズ・M・シュルツCharles M. Schulz(1922―2000)の『ピーナッツ』、スコット・アダムズScott Adams(1957― )の『ディルバート』などアメリカの人気こま漫画は、世界各国の新聞に掲載されて世界中に愛読者をもつようになる。政治漫画でもアメリカのラナン・R・ルリーRanan Raymond Lurie(1932―2022)、フランスのジュゼッペ・ザッカリアGiuseppe Zaccaria(1930―1985)、シンガポールのヘン・キムソン(1963― )などはその作品が世界各国の新聞に転載されている。
1980年、読売新聞社が創設した読売国際漫画大賞は、世界各国から毎年1万点余りの応募がある世界最大のカートゥーンコンテストとなっている。1992年、イギリスの漫画雑誌『パンチ』が151年の歴史を閉じたが、1996年に復活した。しかし、かつての世界の漫画界に影響を与えた風刺の勢いは失われている。
[清水 勲]
中国において記録のうえで漫画が登場した最初は11世紀(宋(そう)代)の石恪(せきかく)筆『玉皇朝会図』の画中に描かれた風刺画だという。しかし、近代に至るまでは日本に比して漫画や風刺画の作品は少なく、傑出した漫画家や漫画作品が出ていない。1875年ごろから『香港(ホンコン)パンチ』などの漫画雑誌が登場するが、「漫画」は大正時代に日本から輸入されたことばであった。漫画が活発に描かれるようになるのは辛亥(しんがい)革命(1911)前後からである。反帝反封建を目ざす民主革命が多くの風刺画を生み出し、漫画が独立した美術分野になる。その背景にはジャーナリズムの発展があり、そのなかに漫画が発表されたのである。1909年に『寓意画』と題する初の漫画集が刊行され、1918年には『上海(シャンハイ)パック』が創刊される。この雑誌は北沢楽天の『東京パック』の影響を受けたものだと思われる。1928年には週刊漫画雑誌『上海漫画』が創刊される。日中十五年戦争時代には抗日漫画が盛んに描かれ、1949年の新中国誕生以降は革命思想の普及と国家建設の教宣に漫画は大いに利用される。現在は『漫画』『風刺と幽黙』という漫画専門誌が定期刊行されている。また、1990年代に入り、中国でも日本や香港、台湾の影響を受けてコミック誌が出されるようになった。
[清水 勲]
朝鮮も中国同様に古代から漫画は存在したと思われるが、その歴史はあまり明らかでない。近代以降、日本の支配下では『京城パック』『漫画朝鮮』といった漫画雑誌が出された。第二次世界大戦後、韓国ではジャーナリズムの発展のなかで漫画が数多く描かれ、金星煥(きんせいかん/キムソンファン)(1932―2019)の四こま漫画『コバウ』(『東亜日報』・『朝鮮日報』などに連載)は国民的人気漫画となっている。インドネシアでは1920年代なかばから1930年代初頭にかけての民族運動時代から漫画が登場してくる。1970年代から『コンパス』紙の『パシコムおじさん』(G・M・スダルタ)が人気をよび、日本にも1985年、単行本になって紹介された。フィリピンでは第二次世界大戦後のマルコス政権末期、政治風刺画が禁じられる時代が続いた。シンガポールのヘン・キムソンの政治漫画は世界各国の新聞に転載されている。アジア諸国は総じて、戦後のジャーナリズム発展とともに漫画が開花したといえる。1996年より、日本、韓国、台湾、香港のコミック作家たちの交流の場である「東アジアMANGAサミット」が開催され始めた。また、国際交流基金が毎年主催する「アセアン漫画家展」(1990~1994)、「アジア漫画展」(1995~)は、日本各地およびアジア諸国に巡回され、漫画を通じての交流の場となっている。
[清水 勲]
『作田啓一・多田道太郎・津金沢聡広著『マンガの主人公』(1965・至誠堂)』▽『須山計一著『漫画博物志・世界編』(1972・番町書房)』▽『畢克官著、落合茂訳『中国漫画史話』(1974・筑摩書房)』▽『G・ブランシャール著、窪田般彌訳『劇画の歴史』(1974・河出書房新社)』▽『片寄みつぐ著『戦後漫画思想史』(1980・未来社)』▽『呉智英著『現代マンガの全体像』(1986・情報センター出版局)』▽『清水勲著『「漫画少年」と赤本マンガ』(1989・ゾーオン社)』▽『竹内オサム著『戦後マンガ50年史』(1995・筑摩書房)』▽『南和男著『江戸の風刺画』(1997・吉川弘文館)』▽『朝日新聞社編・刊『アエラムック24 コミック学のみかた。』(1997)』▽『清水勲著『大阪漫画史』(1998・ニュートン・プレス)』▽『林田遼右著『カリカチュアの世紀』(1998・白水社)』▽『清水勲編著『図説漫画の歴史』(1999・河出書房新社)』▽『清水勲著『マンガ誕生――大正デモクラシーからの出発』(1999・吉川弘文館)』▽『清水勲著『日本近代漫画の誕生』(2001・山川出版社)』▽『アジアセンター編『アジアINコミック展』図録(2001・国際交流基金)』▽『中野晴行著『マンガ産業論』(2004・筑摩書房)』▽『夏目房之介著『マンガ学への挑戦――進化する批評地図』(2004・NTT出版)』▽『松本零士・日高敏編著『漫画大博物館』(2004・小学館クリエイティブ、小学館発売)』▽『清水勲著『漫画の歴史』(岩波新書)』▽『清水勲編『近代日本漫画百選』(岩波文庫)』▽『清水勲著『江戸のまんが 泰平の世のエスプリ』(講談社学術文庫)』
笑わすことを意図した絵。一枚物もあり,続物の形もある。
漫画は絵と笑いの結びつきとともに古い。エジプトの記念碑の一つに,貴婦人が酒宴の後で吐いているのを侍女が介抱する図柄が彫り込まれており,漫画がすでに古代エジプトにあったことがわかる。パピルスにも鳥や獣のこっけいな絵が描かれている。ギリシア時代にはこっけいな似顔絵で知られたパウソンという漫画家がいたという。中国では今残っているものとしては,漫画よりも漫画彫刻であり,前漢の将軍霍去病(かくきよへい)の墓には,匈奴を踏みつける馬の石彫があり,馬が威風堂々としており,踏みつけられる人間は,体面を忘れてもがいているところに漫画的誇張の手法をとっている。漢代の俑(よう)などにもおかしげな誇張がみられる。メキシコのテオティワカンの壁画にも現代の漫画の先駆と思われる,ふきだし内にせりふを書きこむ手法を用いたものが残っている。
日本では,初期の漫画は落書(らくがき)として残っている。世界最古の現存の木造建築法隆寺には,奈良時代に描かれた人の顔の落書が,人目につかぬ天井裏の板にあり,同じく奈良時代に建てられた唐招提寺の梵天像の台座の裏にも人物像の落書がある。正倉院に納められている写経の中にも,議論をしている仲間を描いたおかしな絵が残っている。経文を写すという単調な仕事をしている青年僧が仕事に飽きて,別の目で自分たちの仕事を見るとき,漫画が生まれた。それは気晴しになり,同時に目前の用途から切り離されたまなざしで自分たちの現在を見ることを可能にした。落書ではなく,本式の作品として笑いをさそう目的で描かれたものに,平安朝の烏滸絵(おこえ)の流れがあり,現存の作品として平安末期の《鳥獣戯画》がある。人間社会の約束事が,猿,カエル,ウサギの交渉に置き換えられて,自由な目でとらえられている。作者は天台座主となった鳥羽僧正覚猷(かくゆう)と伝えられ,それがほんとうかどうか分からぬなりに,江戸時代に入って巻物4巻に仕立てられて,その影響は鳥羽絵という様式を生んだ。また《信貴山(しぎさん)縁起絵巻》には,修行僧の托鉢用の器の上に米倉が乗って飛ぶ場面があり,空飛ぶ米倉の目の位置から世間をながめて,米の出し惜しみをする長者や,驚き騒ぐ村人が描かれて,漫画映画のような力がある。《鳥獣戯画》と《信貴山縁起絵巻》には,現代のW.ディズニー以後の漫画映画(アニメーション映画)に共通するおもむきがある。
法隆寺の落書は字を写す作業の筆休めという形で,同じ筆で画を描くところから生まれた。この場合,まじめな労働として書く字が漢字であって形が絵に近いということ,道具が筆であるので太くも細くも濃くも薄くも自在に描けるということが加わって,字から絵へ,労働から遊びへの間髪を入れない転換が可能となった。絵と字とが並行するものとして心中に存在し,気分に応じて相互転換しうる文化の中に日本人は生きてきた。この文化にはぐくまれて,長い鎖国時代に,葛飾北斎の《北斎漫画》13編が生まれた。きまじめな家老職を務めた渡辺崋山も《一掃百態(いつそうひやくたい)》のように,漫画風に寺子屋風景などを描いた作品を残している。
ヨーロッパのルネサンス期は,イタリアのボッカッチョの《デカメロン》,フランスのラブレーの《ガルガンチュアとパンタグリュエルの物語》,イギリスのチョーサーの《カンタベリー物語》のように,ユーモアをもって社会を見る文学を生み出した。この時代の気分は当然に絵画の領分にも漫画をもたらす。イタリアのレオナルド・ダ・ビンチ,フランドルのH.ボス,P.ブリューゲル(父)の作品の中に黒いユーモアのあるものが見られる。この時代には宗教上の権威や世界像が笑いの的にされたが,やがて王権が的にされるようになり,イギリスでは王の権威を引きずりおろすわいせつな文句を書き連ねた漫画が盛んだった。中国では,1465年に明の成化帝朱見深が,儒教・道教・仏教の信奉者がたがいに教義を越えて談笑する〈虎渓三笑〉の故事にもとづいて《一団和気図》という,3人が集まって一つの顔をつくる漫画を残した。グーテンベルクによる活字印刷の発明は,民衆の批判精神と結びついて15世紀なかばから強い影響をもち,言葉つきの漫画が広く迎えられる時代をつくった。フランスのJ.カロ,イギリスのW.ホガース,スペインのゴヤ,フランスのH.ドーミエのすぐれた漫画がある。メキシコのJ.G.ポサダ(1852-1913)は,今起こったばかりのできごとをよみ込んだ歌と組み合わせて漫画を印刷してビラをつくり,革命の進展の中で次々と送りだした。彼はスペインの侵入前からメキシコにあった骸骨への関心をとおして政治を見る。この視点から革命運動の首領もまた骸骨として描かれる。20世紀のロシア,ドイツ,また日本の革命運動の中で生まれたアジ・プロ漫画とは異質のものである。骸骨の平等をとおして人生を見る方法はヨーロッパの中世からルネサンスにかけてもあったし,日本では禅僧の一休宗純が,1457年(長禄1)に著した《骸骨》(《一休骸骨》)は,骸骨のさまざまなしぐさを絵に描いて,道歌・法語と組み合わせ,その見方にはポサダの版画に通じるところがある。ポサダの影響は,彼の死後にアメリカで起こった漫画映画に及ぶ。ポサダの名版画《骸骨の舞踏》はディズニーに示唆を与え,音楽付きの漫画映画として,〈シリー・シンフォニー〉シリーズ中の《骸骨おどり》に復活した。ディズニーの漫画映画は手塚治虫(おさむ)に影響を与え,戦後日本のテレビ文化の中で発展し,やがて手塚の《鉄腕アトム》はディズニーとポサダの国である南北アメリカに逆に輸出される。
明治以後の日本ではしばらく江戸末期の遊びの精神は衰え,まじめに一直線に西洋近代に学ぶことに関心が集中した。明治以前からの漫画を描き続ける河鍋暁斎(かわなべぎようさい)のような作家はいたが,明治以後の漫画はむしろドーミエやホガースの漫画をヨーロッパからひきよせて,民衆に対していばりちらす日本の成上り官僚の姿をおかしく描いた,イギリス人C.ワーグマンとフランス人G.ビゴーによって新しくおこされた。イギリスの漫画雑誌《パンチ》にならって,ワーグマンの発行した日本最初の漫画雑誌《ジャパン・パンチThe Japan Punch》(1862創刊,87廃刊)は,〈ポンチ絵〉という名を日本に残した。ビゴーは日本の明治以前の漫画の作風に学ぶところがあり,1887年に創刊した漫画雑誌を《トバエTôbaé》と名付けた。90年には《日本人の生活》,93年には漫画雑誌《ル・ポタン》を発行した。英仏漫画家の政治風刺は,日本人に刺激を与え,《団々珍聞(まるまるちんぶん)》に本多錦吉郎,小林清親の時事漫画があらわれ,《時事新報》の北沢楽天(1876-1955)が,1905年に漫画雑誌《東京パック》を創刊するに至って,政治風刺を主眼とする漫画の流れがあらわれた。その際に,《鳥獣戯画》をはじめ《地獄草紙》《餓鬼草紙》《病草紙》,江戸時代に入っての浮世絵,大津絵,鳥羽絵,さらに南画,禅画等における漫画的手法が掘り起こされて,大正時代に入っての岡本一平,近藤浩一路,池部鈞,前川千帆,宮尾しげをの漫画があらわれる。岡本一平が1921年に《朝日新聞》に連載した《人の一生》は漫画入り小説として日本最初の作である。
マス・コミュニケーションと結びついて発達したのが,現代社会での漫画の形である。アメリカでは1894年のアウトコールト作《ホウガンズ・アレー》(〈イェロー・キッド〉とよばれた)に始まって,新聞の興亡をかけた大衆芸術の様式となった。何人もが組んで一つの漫画作品を描くという仕事ぶり,シンジケートを通して各地の新聞に同じ作品を載せるという配給のしかた,新聞だけでなく映画,テレビ,キャラクター商品などをとおしてマルチ・メディアに同時進出するというありようは,すべて20世紀のアメリカで始まり,日本にも入ってきた。
第1次大戦後の平和会議を報道するために派遣された朝日新聞記者鈴木文史朗は,アメリカ経由でヨーロッパにむかい,その途上で漫画の重大性に気づいた。日本にもどった後,1923年1月創刊の《アサヒグラフ》の編集長になったとき,彼はアメリカの新聞連載漫画マクマナス作《親父教育》を翻訳連載するとともに,自分で腹案をたてて部下の織田信恒に文を,樺島勝一に絵を頼んで日本最初の連載漫画《正チャンの冒険》を始めて,成功をおさめた。続いて麻生豊の《ノンキナトウさん》《只野凡児》,宮尾しげを《団子串助漫遊記》,下川凹天《男やもめの巌さん》,田河水泡《のらくろ》,島田啓三《冒険ダン吉》,横山隆一《フクチャン》があらわれた。新世代の漫画家近藤日出造,横山隆一,杉浦幸雄は32年に〈新漫画派集団〉をつくり,漫画界の主流となった。戦争の下で漫画は衰え,大政翼賛漫画という形で続きはするが,内実は,絶滅に近かった。ファシズム下のイタリア,ドイツにおいても,漫画は栄えなかった。共産主義国家ソビエト・ロシアにおいても漫画は栄えなかった。これまでのところ共産主義政権が成立したところで漫画が栄えた例はない。漫画は共産主義政権の性格について考える一つのいとぐちとなる。共産主義政権下の中国で1962年に鄧拓が《燕山夜話》を著して政権を批判したとき,中国に漫画の伝統があったということから説き起こしてやがて反党・反社会主義として批判されたのも,〈全体主義〉と漫画が両立しにくいことを示す。ファシズムに対抗する際の共産主義運動は,《無産者新聞》にアジ・プロ漫画を描き続けた柳瀬正夢(やなせまさむ)(1900-45)のように,すぐれた作品を生み出した。
1945年の敗戦は大正時代の漫画を復活させた。伊藤逸平主宰の漫画雑誌《Van》が創刊された。加藤芳郎,横山泰三,手塚治虫など新しい世代の漫画家があらわれた。独特の筆づかいで清水崑(こん)(1912-74)が海外にまで迎えられたのもこの時代である。経済復興の後は,大正時代とはけたはずれの規模の漫画が印刷されて,量として日本の出版物の主要部分を占めるに至った。77年に漫画は日本の総出版物の28%に達した。こどもだけが漫画を読むという状態は,1960年代に入って大きく変わり,大学生が漫画を読むことが現代風俗の一部となった。劇画という新しい流れが漫画からはみだして発展した。昭和の初めに盛んだった紙芝居が,戦中のトンネルをくぐって敗戦後に2度目の全盛期を迎えた。しかしテレビに押されて衰えていくと,紙芝居の作家たちは貸本屋むけの単行本を描いた。彼らのもっている黒い怒り,虚無的な感情は,農村から都会に移ってきて孤独な暮しをしいられている少年・青年に訴え,戦後日本の復興のしかたに異議をもつ大学生たちの心をとらえた。紙芝居と貸本文化から出てきた絵物語作家は,笑わせることを目的とせず,むしろ怒りの表現として長大な物語を紡いだ。白土三平の《忍者武芸帳》《カムイ伝》を頂点とする劇画があらわれた。そのよりどころとなったのは長井勝一の主宰する《ガロ》(1964年9月創刊)という漫画雑誌である。水木しげる《河童の三平》,つげ義春《ねじ式》は同じく劇画とよばれるが,そこには超現実的なユーモアがある。それはアメリカの新聞漫画の影響からほど遠く,むしろ中国明末の八大山人や清代の揚州八怪の墨絵に通ずる作風であり,日本社会の高度の西洋化,工業化への反動としてアジアの伝統に回帰する心のむきをつたえる。
1960年代の劇画に続いて70年代から80年代にかけて少女漫画が創作の中心となった。女性漫画家として長谷川町子が,戦後最も広く愛された長編連載《サザエさん》を描いた。1970年代以後,池田理代子《ベルサイユのばら》,萩尾望都(もと)《ポーの一族》,竹宮恵子《風と木の詩(うた)》,樹村(きむら)みのり《菜の花畑のむこうとこちら》,山田紫《しんきらり》,高野文子《絶対安全剃刀》,山岸凉子《日出処(ひいづるところ)の天子》があらわれて,男性漫画家をしのぐ活動によって男女の区分を超える広い読者に支持されている。すぐれた漫画創作の根源が高度成長以後の日本においては女性作家に移っている。その時代の有力漫画家が女性の間からむらがってあらわれたことは日本の歴史上はじめてであり,世界の歴史にも珍しいことである。
1960年代以後の日本では教育制度の整備とともに幼稚園のレベルから上位学校の入学試験のための競争が激しくなり,生徒はきびしい管理の下におかれるようになった。親と学校によるこのような管理から自由になろうという衝動が漫画興隆の背景にある。赤塚不二夫《天才バカボン》,山上たつひこ《がきデカ》のような,反道徳的な漫画キャラクターの似姿をなぞって落書をすることが,少年少女にとって自由への衝動のはけぐちとなっている。
→カリカチュア →劇画 →政治漫画 →風刺画
執筆者:鶴見 俊輔
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出典 図書館情報学用語辞典 第4版図書館情報学用語辞典 第5版について 情報
…図書・雑誌などを期限を定めて有料で貸し出す職業をいう。貸本店ともいう。貸本屋は,江戸時代寛永年間(1624‐44)以降,しだいに民衆向けのかな書き中心の小説,実用書,娯楽読物が出版されるようになり,それらを売り歩く行商本屋の兼業として始まったとみられる。1703年(元禄16)刊の雑俳集《すかたなそ》に〈借り本の書出しか来ル年堺イ〉とあり,江戸中期以後は全国的に広がり,小説類,浄瑠璃本,歌舞伎脚本,軍談,実録などは貸本屋を通じて読まれるのが一般的になった。…
…対象の特徴を鮮明に示すために誇張・省略された形,あるいは本来の意味から逸脱して利用された形をもつ絵画(まれに彫刻)。戯画,漫画,場合によっては風刺画と呼ばれる。諧謔(かいぎやく)や風刺を目的とする点で,表現主義芸術や図式化・単純化された形,あるいは信仰や神話に関連する人獣合体した異様な姿などとは区別される。…
…英語では,この種の絵画用下図をカートゥーンcartoonと呼び,一方の厚紙の意味でのみ用いられるカートンcartonと区別する。(3)英語のcartoonは,さらに時代が下って風刺画や漫画の意味を持つにいたるが,そのわけは次のごとくである。ロンドンの新国会議事堂を飾るフレスコ壁画のcartoonのコンペが行われ,その応募作品の展覧会が,1843年にウェストミンスター・ホールで開かれた際に,この催しを風刺する漫画(ジョン・リーチ作)が雑誌《パンチ》に掲載され,それ以来,漫画のことがcartoonと呼ばれるようになる。…
…1959年辰巳ヨシヒロ,さいとう・たかをらを中心とする〈劇画工房〉の宣言にはじまる。社会生活の苦しい面,むごい面をえがく長編絵物語は,もはや漫画というたのしい絵物語とちがうため,新しい名前を必要とした。 劇画と新しい名で呼ばれた様式はもっと前からあった。…
…
[歴史]
神学関係の著述,キリスト教正典のテキスト,文学や歴史的物語などの中世写本には,その余白に人物や動物のモティーフが自由奔放に描かれることがある。それらは本文を補う意味の図像もあるが,ときにはそれとはまったく関係のない滑稽で笑いを誘うような漫画,対象を揶揄(やゆ)し,道化化した戯画がみられる。たとえば,修道士が糸巻棒でふいごを操れば,それに合わせて人妻が踊る,といった2人の仲を揶揄した作例(がそれである。…
※「漫画」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」
米テスラと低価格EVでシェアを広げる中国大手、比亜迪(BYD)が激しいトップ争いを繰り広げている。英調査会社グローバルデータによると、2023年の世界販売台数は約978万7千台。ガソリン車などを含む...
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