イタリア盛期バロックを代表する作曲家、バイオリン奏者。独奏協奏曲様式の確立者。3月4日、サン・マルコ大聖堂付きバイオリン奏者ジョバンニ・バティスタ・ビバルディの長男としてベネチアで生まれる。聖職者としての修行を積むが、生まれつきの喘息(ぜんそく)のため親元から通う例外が許され、父のもとでのバイオリンの勉強も続けられたと考えられる。1703年司祭に叙されるが、父親譲りの髪の色のために「赤毛の司祭」とよばれた。父もまたG・B・ロッシ(赤毛)とよばれている。持病のためミサを司式することができなかったビバルディは、同年9月、ベネチアにあった孤児院兼音楽学校オスペダーレ・デッラ・ピエタ(ピエタ養育院)のバイオリン教師となる。「ピエタ」との関係は断続的ではあるが結局死の前年の1740年まで続き、当時のヨーロッパに名声をとどろかせていたそこの女性オーケストラのため、数多くの協奏曲、室内楽曲を作曲、上演した。今日知られているもっとも古い作品はトリオ・ソナタ集作品1(1705)で、その後バイオリン・ソナタ集作品2(1709)、さらには出世作となった協奏曲集『調和の霊感』作品3(1711)をはじめ、1713年までは器楽曲ばかり作曲していたようである。
1713年4月、「ピエタ」の楽長だったガスパリーニの病気退職に伴い、ビバルディは宗教音楽の作曲も始める。こうして有名な『グローリア』をはじめとするミサ曲、詩篇(しへん)、モテットなどが生まれるのである。オラトリオ『勝利のユディタ』は14年にベネチアで初演されている。10年代に、ビバルディはオペラの世界に足を踏み入れる。13年4月にビチェンツァで初演された『離宮のオットー大帝』によって初めて名声を得た彼は、ベネチアのサンタンジェロ劇場の作曲家兼興行師として活躍することになる。この劇場の地主の一人だったベネデット・マルチェロが書いた風刺的な著作『当世の劇場』(1720)は、当時のビバルディたちの仕事ぶりを生き生きと描写したものと考えられている。14年の謝肉祭(冬)のシーズンはビバルディのオペラ『狂気をよそおうオルランド』で開幕され、17年までにさらに2曲のオペラが上演されており、16~17年にはサン・モイゼ劇場のためにも3曲のオペラを書いている。
1718年以後、ビバルディの活動は各地に広がってゆく。その年の4月にマントバでオペラ『エジプト戦場のアルミーダ』を上演したのを皮切りに、20年までは同地で次々にオペラを上演し、その後はローマで活躍している。23年と24年の謝肉祭には『テルモドン川のヘラクレス』(1723)をはじめとする3曲のオペラがローマで上演されているが、P・L・ゲッツィ描く有名な風刺画もこのころ描かれたものである。アルト歌手アンナ・ジローとの関係も、このころ始まったと思われる。彼女は1724~47年、ベネチアを中心に活躍したオペラ歌手だが、ビバルディは司祭の身にもかかわらず、彼女とその妹のパウリーネをつねに身近に置いたため、指弾を受けることになる。
1726~28年、ビバルディはふたたびベネチアのサンタンジェロ劇場を中心に活躍するが、器楽曲の出版も盛んである。すでに25年には、『四季』を含む協奏曲集『和声と創意への試み』作品8がアムステルダムのル・セーヌから出版されているほか、同社からは27年には協奏曲集『ラ・チェトラ』作品9(皇帝カール6世に献呈)、28年ごろには『海の嵐(あらし)』や『ごしきひわ』を含むフルート協奏曲集作品10、29年には協奏曲集作品11、12が出版されている。
1729~33年、ビバルディはプラハをはじめとして各地に旅行し、オペラを上演しているが、33~35年にはまたサンタンジェロ劇場と、サン・サルートのグリマーニ劇場のためにも数曲のオペラを書いている。ベネチアでのオペラ活動はこのころが最後で、以後はベローナ、アンコーナ、レッジョ、フェッラーラでの興行が多くなる。38年にはアムステルダムの王立劇場百年祭の音楽監督を務めるなど、名誉と成功を得た反面、聖職者らしからぬ生活を理由に、フェッラーラからは入国を拒否されるという事件もあり、ベネチアでの評判も落ちたためか、40年には突然故郷を捨て、翌41年7月28日、旅先のウィーンで客死している。約770曲の作品中、オペラは46曲、ソナタが約90曲で、中心は約500曲を数える協奏曲である。リトルネッロ形式をおもな構成原理とする協奏曲の編成のほとんど(約350曲)は独奏協奏曲で、そのうち約230曲はバイオリン協奏曲である。約60曲の弦楽のための協奏曲は、オペラの序曲に近く、前古典派の交響曲の先駆的存在ともいえる。バッハをはじめとする当時の作曲家に与えた多大な影響も忘れてはならない。
[樋口隆一]
『パンシェルル著、早川正昭・桂誠訳『ヴィヴァルディ――生涯と作品』(1970・音楽之友社)』▽『カンデ著、戸口幸策訳『ヴィヴァルディ』(1970・白水社)』▽『コルネーダー著、馬淵卯三郎・大村典子訳『ヴィヴァルディの演奏法』(1977・アカデミア・ミュージック)』
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イタリアの作曲家,バイオリン奏者。ベネチアで生まれ育ち,1703年に司祭になったが,まもなく,ピエタ慈善院(不幸な境遇の女児を収容して音楽を教えており,事実上,音楽学校であった)の音楽の教師になった。18年(または19年)から23年まで,マントバのヘッセン・ダルムシュタット辺境伯フィリップの宮廷楽長を務めたり,ローマに滞在したりしたが,40年まで,だいたいピエタの教師をしていた。この年にピエタの職を辞してウィーンに赴いたが,その動機は不詳。ウィーンで貧窮のうちに死去,共同墓地に葬られた。
ビバルディは,オペラを40曲以上も作曲し,みずから劇団を率いて巡業したこともある。オペラ数曲のほか,3曲のオラトリオなどの宗教曲,40曲近い世俗カンタータ,アリア,500曲余のコンチェルトや90曲ほどのソナタなどの器楽曲が残されている。しかし,ビバルディは,何よりも,バイオリン協奏曲《四季》をはじめとする協奏曲の作曲家として知られている。彼は,17世紀以来の合奏協奏曲から出発しながら,急・緩・急の3楽章から成る独奏協奏曲の,バロック時代の古典的な形式を確立し,そのうえで,さまざまな組合せの楽器群を独奏群とするコンチェルトなども作曲した。彼はとくに,独奏バイオリンの演奏法を技巧的で華やかなものにするうえでも大きな貢献をした。この面では,彼自身の即興演奏などのほうが,今日知られている楽譜に見られるものより,はるかに勝っていたようである。
ビバルディのオペラの多くが失われたこともあって,声楽曲の作曲家としての側面には,まだ十分に光が当てられているとはいえないが,オラトリオ《勝利のユディタ》《スタバト・マーテル》などの宗教曲に,成熟した彫りの深い優れた表現が認められる。また,世俗カンタータにおいては,当時の常套的作法に従いながらも,陰影に富んだ味わいを出している。歌の手法を器楽に,そしてまた逆に,楽器の手法を歌に導入したのも,ビバルディの音楽の一つの特徴である。
執筆者:戸口 幸策
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…その最初の成果が1680年ころに書かれたコレリの《合奏協奏曲集》(作品6)で,二つのバイオリンとチェロからなる独奏群が弦楽合奏の合奏群と競合・協調するように作られている。他方,独奏協奏曲は,トレリの先駆的な試みを経て,ビバルディの最初の協奏曲集《調和の幻想》(作品3。1711出版)において確立される。…
…古くから数多く作曲されてきたが,とくに有名なのは,以下の作品である。(1)ビバルディのバイオリン協奏曲集《四季Il quatro stagioni》(《和声と創意の試み》(作品8,1725)の冒頭4曲)。 イタリアのベネト地方の田園生活の四季を歌いあげたソネットが付随する。…
…ワイマールでの足かけ9年間はバッハの〈オルガン曲の時代〉と呼ぶことができ,《トッカータとフーガ〈ドリア調〉》(BWV538),《トッカータ,アダージョとフーガ,ハ長調》(BWV564),《オルガン小曲集》(BWV599~644)などをはじめ,オルガン曲の名作が集中的に書かれて,作曲家としても演奏家としても名声が高まった。彼はまた楽師(1714年からは楽師長)として宮廷楽団の活動にも参加し,A.ビバルディをはじめとするイタリアの協奏曲や室内楽に接して大きな刺激を受けた。ビバルディの協奏曲をオルガンやクラビーア独奏用に編曲しただけでなく,自らも協奏曲を作曲した。…
…およそ16世紀末から18世紀前半にかけての音楽をいう。この時代に活躍した音楽家の中では,J.S.バッハ,ヘンデル,ビバルディらの名が広く知られているが,彼らは後期バロックの巨匠であり,初期を代表するモンテベルディやフレスコバルディ,中期のリュリやコレリらも見落とすことができない。同時代の美術の場合と同じく,バロック音楽を社会的に支えたのは,ベルサイユの宮廷に典型を見る絶対主義の王制と,しだいに興隆する都市の市民層であった。…
※「ビバルディ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。
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