スウェーデンの伯爵、軍人。1770年以後ドイツ諸邦、フランスなどで軍務につき、1780年アメリカ独立戦争に参加。1783年フランスに戻り、ルイ16世王妃(マリ・アントアネット)の愛人となった。1784年帰国し、グスタフ3世の寵臣(ちょうしん)となって、1788年以後その代理としてたびたびフランスを訪れ、1791年ルイ16世一家の国外亡命を手配した。1792年に帰国。1796年グスタフ4世Gustav Ⅳ(1778―1837、在位1792~1809)の信任を得、1797年使節としてラスタットに赴きナポレオンと衝突。1801年宮内相、1802年中将となった。1805年以後国王の顧問として戦争指揮に参加したが、のちに国王との対立を生じ、1809年3月の革命の際は中立を守った。革命後大将に昇進、枢要の地位を保ったが、保守的立場を堅持し、グスタフ4世の王子の擁立を主張して孤立した。1810年5月、新国王カール13世Karl ⅩⅢ(グスタフ4世の叔父。1748―1818、在位1809~1818)の養嗣子(ようしし)カール・アウグストが急死すると、フェルセンに毒殺の嫌疑がかけられ、6月20日カール・アウグストの葬儀の際、ストックホルム市民に襲撃され、殺害された。
[本間晴樹 2022年8月18日]
スウェーデンの伯爵,陸軍元帥。フランス軍の将校としてアメリカ独立戦争に従軍,帰仏後国王の外交官としてフランス事情を本国に伝え,その間マリー・アントアネット王妃の愛人となり,1791年のフランス王家の亡命を画策したが失敗した。帰国後99年にウプサラ大学学長に任命され,1810年,皇太子が急死,毒殺されたとの噂が広まり,その嫌疑をかけられ,皇太子葬儀に参列した際,暴徒化した群集に殺された。
執筆者:清原 瑞彦
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