日本大百科全書(ニッポニカ) 「フーケ)」の意味・わかりやすい解説
フーケ(Nicolas Fouquet (Foucquet))
ふーけ
Nicolas Fouquet (Foucquet)
(1615―1680?)
フランスの政治家。父は国王参議官。パリ高等法院官職を取得して昇進。高等法院旧貴族の、マザランに対する反抗を契機にほぼ全国に波及したフロンドの乱のとき、マザランの腹心として活動。1653年財務長官となり、徴税請負人を利用して財政を立て直したが、同時に莫大(ばくだい)な資産を築き、豪壮なボーの城館を造営して、ラ・フォンテーヌやモリエールなどの芸術家を招いて学芸保護者をてらった。また、大西洋岸のベル・イル島を入手し城塞(じょうさい)を築いたりした。このため、ルイ14世と政敵コルベールに憎まれ、1661年公金横領と王権奪取の陰謀の容疑で逮捕され、裁判ののちピニュロールの獄に終身拘禁された。しかし、それは政略の暗黒裁判によるものとされ、その死没年も正確ではない。
[千葉治男]
フーケ(Jean Fouquet)
ふーけ
Jean Fouquet
(1420ころ―77/81)
フランスの画家。トゥールに生まれ、同地で没。早くから画家として名高く、1447年以前にイタリアへ赴いた際、教皇エウゲニウス4世(在位1431~47)の肖像を描く。帰国後トゥールに工房を開く。宮廷でも重用され、1475年の記録で「王の画家」の称号を得る。エマイユの小型メダルに北方で初めて署名入り自画像を残す。彼の作とされる代表作に、『シャルル7世の肖像』をはじめ、現在アントウェルペン王立美術館とベルリン絵画館に二分される『ムーランの二連祭壇画』(その一枚アントウェルペンの『ムーランの聖母子』のモデルは1450年に没する同王の寵妾(ちょうしょう)アニュス・ソレル)などの板絵、線遠近法の処理がみられる『エティエンヌ・シュバリエの時祷書(じとうしょ)』、唯一当時の記録からフーケの作品と確認される『ユダヤの古代』の写本挿絵がある。国際ゴシック様式が支配的で、またネーデルラントの写本画家が主流であったフランスに初めてイタリア・ルネサンスの理念を導入し、さらに独自の様式を展開させて15世紀後半のフランス絵画に多大な影響を及ぼした。
[保井亜弓]