ボッカッチョ(読み)ぼっかっちょ

改訂新版 世界大百科事典 「ボッカッチョ」の意味・わかりやすい解説

ボッカッチョ
Giovanni Boccaccio
生没年:1313-75

イタリアの文学者。トスカナ出身の商人ボッカッチョ・ディ・ケルリーノがパリ滞在中フランス貴族出のジャンヌという未亡人に生ませた私生児。母の死後父とともにフィレンツェに戻る。1328年ごろ父は少年の彼を商人にするためバルディ商会(バルディ家ナポリ支店に勤めさせたが,商売よりも華やかなナポリ宮廷に出入りして,古典文学に熱中し,擬古的な叙事詩を作っただけでなく,ナポリ王の庶子で高官の夫人だったマリア・ダッキーノと熱烈な恋をして,小説《フィアンメッタ》を書く。しかしバルディ商会が破産したため40年フィレンツェに引き揚げてからは,もっぱら古典文学研究と創作に力を注いだ。48年のすさまじいペスト大流行を見て,《デカメロン》を書き始め,50年詩人ペトラルカと会って親交を結んでからは,古代の思想,芸術,文化に対する熱情を高めて,ラテン文学だけでなく,古代ギリシア文学の研究にも志した。ホメロスの《イーリアス》の完全なギリシア語原典の写本を初めて修道院の図書館から掘り出したうえ,ラテン語訳本を見つけたのは彼であった。62年ジョアッキーノ・チアーニが突然彼のところへ現れてシエナのチェルトーザで少し前に亡くなった隠者ピエトロ・ペトローニから彼に〈死は遠くないぞ。生活を改めよ。世俗的文学を焼き捨てよ〉と忠告するように頼まれてきたといった。これを聞いて彼は自分の口語作品全部を焼き払おうとした。しかし,ペトラルカの熱心な慰めと勧めのおかげで,《デカメロン》その他の作品は火中に投ぜられないですんだ。ボッカッチョは,その後,経済的に苦境に陥って3回もナポリ王国で適当な役職につこうとしたが,幻滅を味わっただけに終わった。彼を誰よりも暖かに援助したのは,ベネチアにいたペトラルカの娘だった。晩年は父の故郷チェルタルドに隠棲したが,73年フィレンツェ市政府の委嘱に応じて,修道院においてダンテの《神曲》の公開講義と注釈とを行った。この講義は,ボッカッチョ老衰と病で倒れるまで続けられた。

 彼の著作は若いころの口語文学,晩年のラテン語作品の2種がある。口語文学には《詩集》のほかに年代順にあげれば,《ディアナの狩り》《フィロコに》(一名《恋のパイオニア》)《フィロストラート》《テセイダ》《アメトのニンフ》《恋の幻》《フィアンメッタ》《フィエゾレのニンフ》《デカメロン》《大鴉》(一名《恋の迷路》)《ダンテの生涯》などがある。そのなかで《デカメロン》は別として,《詩集》もたいしたことはなく,ナポリ時代の若書きは,古代の神話や中世伝説を口語で書いただけで,すばらしい魅力のある作品とはいいがたい。ただ,口語の小説がほとんど見られぬ時代にいち早く口語で恋愛小説を書いたことは,イタリア文学史としては注目されるし,とくに《デカメロン》制作の試作という意味がなくはない。そのなかで,《フィアンメッタ》正確には《恋をする女性たちにフィアンメッタが物語るフィアンメッタの哀歌》は,散文として書かれているけれど,若い愛人に背かれた年増の人妻が,初めての出会いから,男の熱烈な口説き,恋の進行,さらに男の裏切りを嘆き悲しむ抒情詩といってよい。モデルは彼とマリア夫人の恋の経緯といわれ,事実はマリア夫人が彼を振ったのだという説もあるが,ともかく自伝的要素も濃厚で,日本語に翻訳すれば500ページになりそうな多情多恨な長々しい告白は,西欧文学としても稀有な例ではなかろうか。もう一つ《ダンテの生涯》は晩年の作だが,最初のダンテ伝として評価されているだけでなく,ダンテに寄せる彼の敬愛の情を汲むことができる。

 ラテン語の著作も量的にはかなり多い。代表的なのはアダムから傭兵隊長アテネ公までの伝記を集めた《名士列伝》,イブからナポリのジョバンナ女王までの伝記や逸話を集めた《著名婦人列伝》があるが,文学的価値に乏しい。
デカメロン
執筆者:

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百科事典マイペディア 「ボッカッチョ」の意味・わかりやすい解説

ボッカッチョ

イタリアの作家。父はフィレンツェ近郊出身の商人。ナポリへ商業の見習に行き文学に熱中,ナポリ王の庶子マリア(?)との恋をうかがわせる寓意的な恋物語を韻文,散文で書く。これは帰郷後にも《アメート》《フィアンメッタの悲歌》などと続くが,やがてペストで荒廃したフィレンツェを背景とした《デカメロン》を著し,イタリア散文文学の代表的作家となる。ほかに人文主義的研究の著作《名士列伝》や《ダンテ伝》,フィレンツェ市の招きで《神曲》講義などの仕事を残した。
→関連項目戸川秋骨ペトラルカラ・フォンテーヌ

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「ボッカッチョ」の意味・わかりやすい解説

ボッカッチョ
ぼっかっちょ

ボッカチオ

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世界大百科事典(旧版)内のボッカッチョの言及

【イタリア語】より

…ダンテは前にも触れた《俗語論》のなかで,詩文学に用いられる理想的な〈俗語〉はいかなるものであるかを論じたが,自らの詩作にあたって彫琢を加えた言葉は生れ故郷フィレンツェの方言であった。《神曲》の成功に続き,ペトラルカ(1304‐74)とボッカッチョ(1313‐75)がフィレンツェ方言の文学的威信を高めるのに貢献する。だが一方,ラテン語は書き言葉として依然大きな勢力を保ち,ラテン語のイタリア語に対する優位を主張する人文主義者も少なからずいた。…

【イタリア文学】より

…俗語で書かれた壮大なこの叙事詩は,中世神学の確固たる世界観と宇宙観を示すことによって,もはや卑しい俗語による詩的な試みの域をはるかに超え,むしろ古代ギリシアからラテン,そして中世文学における数多の登場人物と,同時代の史実とを網羅し,キリスト教の愛の哲学に則してそれらの事件を秩序だてることにより,中世文学を締めくくったのである。
[近代の誕生]
 このように,ダンテの文学が本質的に過去への展望をはらんでいたのに対して,ほとんど同時代に生きながら,F.ペトラルカとG.ボッカッチョとは,彼らの文芸思想と文学作品の両面において,イタリア文学を大きく近代へ向かって用意した。ペトラルカは俗事詩抄《カンツォニエーレ》において,ラウラへの〈愛〉を軸に,まさに完璧な抒情詩の世界をつくりあげ,〈ペトラルキズモ〉はその後数百年間にわたって詩史に君臨し,現代詩にいたるまで強い影響を与えている。…

【デカメロン】より

…ジョバンニ・ボッカッチョ作の短編小説集。《十日物語》と訳される。…

【トスカナ[州]】より

…14世紀の初頭,ギベリン党の有力者であるウグッチョーネ・デラ・ファッジョーラとカストルッチョ・カストラカーニがフィレンツェ軍を破ったが,その勢力拡大を阻止するにはいたらなかった。フィレンツェは国際的金融業や毛織物工業によって繁栄し,さらにダンテ,ボッカッチョ,ジョットなどの出現によって文化的にも優位に立つようになった。その他の都市が文化的に衰退してしまったわけではなく,ルッカ,ピサ,シエナなどはその後も高い水準の文化的伝統を維持していた。…

【ペトラルカ】より

…翌48年ヨーロッパ全土を襲った黒死病のためにラウラが天に召された。なおこのときのフィレンツェの惨状を背景に語られるのが《デカメロン》であるが,その作者ボッカッチョとは50年に初めて祖国の土を踏んだ際出会って深い友情を結び,以後たびたび訪問を受けた。53年新教皇との不和を機にプロバンスを去ってイタリアに帰る決意をし,ボッカッチョらの反対にもかかわらず,ミラノの専制君主ビスコンティ家の招きを受け入れた。…

【笑い】より

…〈笑わない人=病人〉だからであって,笑いに精神的な治療の力をみていたからだろう。ボッカッチョの《デカメロン》(1353)には,笑いに対するこのような考え方が生かされている。100の笑話の語り手はペストを逃れて田舎にやってきた人々である。…

※「ボッカッチョ」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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