七宝(読み)シチホウ

デジタル大辞泉 「七宝」の意味・読み・例文・類語

しち‐ほう【七宝】

仏教で、7種の宝。無量寿経では瑠璃るり玻璃はり硨磲しゃこ珊瑚さんご瑪瑙めのう法華経では金・銀・瑪瑙・瑠璃・硨磲・真珠玫瑰まいかい七種ななくさの宝。七珍。しっぽう。
しっぽう(七宝)2

しっ‐ぽう【七宝】

しちほう(七宝)1」に同じ。
七宝焼き」の略。
七宝つな」の略。
紋所の名。七宝文を図案化したもの。

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精選版 日本国語大辞典 「七宝」の意味・読み・例文・類語

しっ‐ぽう【七宝】

  1. 〘 名詞 〙
  2. しちほう(七宝)
    1. [初出の実例]「七宝の露を払ひし篠懸(すずかけ)に、不浄を隔つる忍辱(にんにく)の袈裟(けさ)」(出典:謡曲・葵上(1435頃))
  3. しっぽうやき(七宝焼)」の略。
    1. [初出の実例]「後藤省三郎氏は、七宝製造のことに就き」(出典:東京横浜毎日新聞‐明治一三年(1880)四月六日)
  4. しっぽうつなぎ(七宝繋)」の略。
    1. [初出の実例]「お納戸に山形、黒に破れ格子と七宝(シッポウ)、紅掛に七宝と夏菊、紫紺に違ひ絣」(出典:風俗画報‐一一二号(1896)流行門)
  5. 紋所の名。七宝繋(しっぽうつなぎ)を図案化したもの。七宝、星つき七宝、七宝に花菱、大岡七宝などがある。
    1. 七宝@七宝に花菱@星つき七宝@大岡七宝
      七宝@七宝に花菱@星つき七宝@大岡七宝

しち‐ほう【七宝】

  1. 〘 名詞 〙
  2. 仏語。七種の宝玉。無量寿経では、金・銀・瑠璃(るり)・玻璃(はり)・硨磲(しゃこ)・珊瑚(さんご)・瑪瑙(めのう)をいい、法華経では、金・銀・瑠璃・硨磲・瑪瑙・真珠・玫瑰(ばいかい)をいうなど、種々の数え方がある。七珍(しっちん)。しっぽう。
    1. [初出の実例]「仏身裏、兄地獄、七宝上、不玉」(出典:性霊集‐一(835頃)喜雨歌)
    2. 「此の子日(ねのひ)、御前(おまへ)の物調じて、もてあそび物七ほうを尽して、し設けてこそ。装束(さうずく)いとうるはしく」(出典:宇津保物語(970‐999頃)国譲上)
    3. 「帝釈の宮殿もかくやと、七ほうを集めてみがきたるさま、目もかかやく心ちす」(出典:増鏡(1368‐76頃)一一)
    4. [その他の文献]〔法華経‐授記品〕〔白居易‐素屏謡〕
  3. 転輪聖王の持つ七種の宝。輪宝・象宝・馬宝・珠宝・女宝・居士宝・主兵臣宝をいう。〔倶舎論‐一二〕

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日本大百科全書(ニッポニカ) 「七宝」の意味・わかりやすい解説

七宝(工芸)
しっぽう

金属の素地(きじ)にガラス質の釉薬(ゆうやく)(うわぐすり)を焼き付けて装飾する工芸。通常、素地には銅が用いられるが、金、銀、タンパカ(銅と亜鉛の合金)のほか、まれに陶器やガラスが用いられる。釉薬の主成分は珪石(けいせき)、鉛丹、硝酸カリウムで、これに着色剤として金属酸化物を添加する。たとえば青は酸化コバルト、緑は酸化銅、黄は酸化クロム、茶は酸化鉄から美しい発色が得られる。

 七宝の語は、金、銀、瑠璃(るり)、玻瓈(はり)、硨磲(しゃこ)、赤珠(しゃくしゅ)、瑪瑙(めのう)をさす阿弥陀(あみだ)経など仏教経典にいう7種の宝石の意による。西洋ではエマイユémail(フランス語)あるいはエナメルenamelという。

[友部 直]

種類

技法上から次のように分けられる。

(1)有線七宝 普通、銀の細いリボンを輪郭線に用い、文様をくぎるとともに釉薬の境界線とする。輪郭線は、シラン(紫蘭)の根を乾燥して粉末にした「しらおいのり」で素地につけ、線内に各色の釉薬を充填(じゅうてん)して焼き付ける。最初から色釉薬を焼き付ける場合と、透明な釉薬をいったん焼き付けた上に色釉薬を焼き重ねる場合とがある。さらに金剛砥石(といし)、名倉砥石、椿(つばき)炭、べんがら(弁柄)などで研磨して仕上げる。西洋ではエマイユ・クロアゾンネémail croisonnéという。

(2)七宝絵 輪郭線をつくらず、異なる色の釉薬を塗り、焼き上げたもの。エマイユ・パンémail peintという。無線七宝ともいう。

(3)透明七宝 素地に線刻あるいは薄い浮彫りを施した上に、透明な釉薬をかけて焼き付けたもの。釉薬を通して素地の浮彫りや文様が見える。エマイユ・ド・バス・タイユémail de basse-tailleがこれにあたる。素地に文様を打ち出してから透明な釉薬を薄く一様にかける「鎚起(ついき)七宝」も透明七宝といえる。

 ほかに、金属を彫ったり腐食してできた凹所(おうしょ)に釉薬を焼き付ける象眼(ぞうがん)七宝、エマイユ・シャンルベémail champlevéや、有線七宝の素地を除去してステンドグラスのようなやわらかな効果を出した省胎(しょうたい)七宝などがある。

[友部 直]

日本

東洋における七宝の起源は明らかでないが、中国で七宝を意味する琺瑯(ほうろう)、大食窯(タージーよう)、鬼国窯といったことばから判断すると、西方から伝来した技法と考えられる。今日、わが国に伝わるもっとも古い七宝の遺品は、奈良県高市(たかいち)郡明日香(あすか)村の牽牛子塚(けんごしづか)古墳出土の七宝金具(6~7世紀)である。これは白色不透明な釉薬を流した亀甲形の台に、6弁の花文をつけ、これに琥珀(こはく)色の透明釉をさした小さい金具で、朝鮮三国時代末の七宝にきわめて類似している。

 本格的に完成した七宝としては、正倉院の黄金瑠璃鈿背十二稜鏡(るりでんはいじゅうにりょうきょう)が著名である。これは銀胎の鏡背面に鍍金(ときん)を施した銀線で唐花文を表し、その内部に黄褐色、明緑色、暗緑色の釉薬をさし分けた華麗な有線七宝の鏡である。しかしながら、この鏡については正倉院に入庫した時期が明らかでないことや、中国・朝鮮はもとよりヨーロッパ諸国においてすら、8世紀にこれほど高度な七宝がみられないところから、製作年代、製作地に疑問の余地を残している。もっとも『新唐書』「車服志」や『大宝令(たいほうりょう)』大蔵寮典鋳司(おおくらりょうてんちゅうし)の条に七宝についての記載があり、また技術的にはまだ未完成ではあるが、小規模な、六朝(りくちょう)時代から隋(ずい)・唐時代にかけての遺品も二、三知られており、中国唐代、日本の奈良時代に七宝がつくられなかったわけではない。

 平安・鎌倉時代は日本文化の全領域にわたって国風様式が確立し、エキゾチックな七宝は衰退して、遺品もほとんどない。

 室町時代も後半期に入ると、勘合貿易を通じて明(みん)七宝が輸入され、『蔭凉軒日録(いんりょうけんにちろく)』『君台観左右帳記(さうちょうき)』『御飾記(おかざりき)』などに、舶載の明七宝の調度を使用した記録がみられる。当時中国では景泰藍(けいたいらん)とよばれる明の景泰年間(1450~1457)に製作された七宝が著名で、こうした優れた七宝がわが国に舶載されたものと思われるが、『君台観左右帳記』に「七宝瑠璃 同前に候。当時事外沙汰(さた)なく候。象眼にもおとらず賞(しょう)くはん物にて候」とあり、当時七宝に対して、さほど関心が払われていなかったようである。

 やがてこうした唐物(からもの)の影響を受けて、桃山時代末期から江戸時代初期にかけて七宝が復活する。平田彦四郎道仁(どうにん)作と伝えられる重文花雲文七宝鐔(つば)、名古屋城上洛殿(じょうらくでん)襖(ふすま)引手、東照宮の金具などは現存する近世初期の七宝として注目すべき遺品である。平田道仁は京都の金工師で、慶長(けいちょう)年間(1596~1615)朝鮮の工人より七宝の技法を修得したと伝えられる。平田家は以後11代、幕府の御用を勤めた家柄で、その作は平田七宝とよばれ珍重された。道仁とほぼ同時期の七宝師として嘉長(かちょう)の名が伝えられる。姓は不明であるが伊予松山の人で、豊臣(とよとみ)秀吉の招に応じて上洛し、堀川油小路に住したという。一説によると、小堀遠州が秀吉の輩下であったころ嘉長を知り、彼の勝色縅鎧(おどしよろい)金具に七宝を象嵌させたと伝えられる。遠州が関係した桂(かつら)離宮、大徳寺竜光院、曼殊院(まんしゅいん)などの引手や釘隠(くぎかくし)もあるいは伝承のごとく嘉長の作であるかもしれない。このころ、オランダ貿易を通じてヨーロッパ製の七宝が輸入されるようになった。1634年(寛永11)平戸侯よりオランダ総督ヘンドリック・ブラウェルへ送ってほしいと希望する品物のなかに、葵(あおい)紋入り七宝の鍔(つば)5個、同じく七宝を施した金の薬箱2個がみられる。この品々については意匠上あるいは数量上、細かな注文をつけ発注している。ヨーロッパ、あるいは明七宝の刺激を受けて、わが国の七宝は着実に発展の一路をたどっていったものと解される。

 江戸時代中期には平田家5代の就門がことに名工として名高く、「近世我が邦(くに)に於(おい)てこれを作る人多しといへども、此人に及ぶものなし、此人の作れる所、舶来のものにまされりといはんか」(『装剣奇賞』)と絶賛された。また1702年(元禄15)、5代将軍綱吉(つなよし)を迎えるに際して、前田松雲公が江戸に建てた御成(おなり)御殿の七宝釘隠(前田育徳会)は、元禄(げんろく)の華麗な時代色を盛り込んだ彫金七宝中白眉(はくび)の作品である。同期に京都では五条通りに高槻(たかつき)某という七宝師が出、その後7代にわたって家業を伝えた。その作は高槻七宝と称される泥七宝で、文久(ぶんきゅう)年間(1861~1864)に絶えたという。

 桃山末期から江戸時代後期に至る日本の七宝は、鐔・三所物(みところもの)などの刀装具や、引手、釘隠、軸先、水滴などの小品が大半を占めるのであるが、幕末に至り、尾張(おわり)海東郡の梶常吉(かじつねきち)(1803―1883)の出現によって本格的な七宝の製作が開始されるようになった。彼は1832年(天保3)にオランダ舶載の七宝を研究し、ついにその技を会得したと伝えられる。のちに常吉は尾張遠島の林庄五郎(しょうごろう)に秘伝を授け、その弟子塚本貝助(1828―1897)らによって七宝は尾張の代表的な工芸となった。1875年(明治8)東京築地(つきじ)にあったアーレンス商会は七宝の製作を手がけ、塚本貝助を工場長として招いた。さらに翌年には京都府立舎密(せいみ)局技術長ゴットフリート・ワーグナーを招き、貝助はワーグナーの助けを得て、七宝釉薬の大々的な改良に成功した。アーレンス商会は1877年工場を濤川惣助(なみかわそうすけ)に譲渡した。彼は明治20年前後に無線七宝を考案し、濃淡・ぼかしを巧みに使い、日本画の画面を七宝で写し取ったような精巧な技でもって世人を驚かせた。一方京都では、明治初年に尾張の桃井儀三郎英升(えいしょう)が移り住み、その門人並河靖之(なみかわやすゆき)は日本画の筆致を生かした繊細な七宝を編み出し、濤川惣助とともに帝室技芸員に選任せられた。さらに名古屋では、村松彦七、安藤重兵衛、服部唯三郎らの努力によって、技術と意匠の改良が進み、日本の七宝の真価が広く海外にまで認められるようになった。

村元雄]

西洋

古代のエマイユ(七宝)については、年代、地域ともに不明な点が少なくない。当時のガラス質の七宝釉の多くはすでに剥離(はくり)しており、それが加熱・融着されたものか、単にガラス片あるいはペーストとして充填・嵌入(かんにゅう)されたものか判別しにくいからである。エジプトの新王国時代の装身具の一部にエマイユと思われる遺例があるが、一般にはメソポタミア、エジプトを含めオリエント世界では、ヘレニスティック期までエマイユは知られていなかったと考えられる。一方、カフカス地方の鉄器時代の一墳墓からは明らかにシャンルベの技法による青銅製の留め金が発見されている。古代ギリシアでは、主としてイオニア地域で、金の細線を撚(よ)り合わせて区画をつくり、そこに釉薬を流し込んで融着させる一種のエマイユ・クロアゾンネが発達し、装身具類がつくられた。これらの釉薬は緑あるいは青で、当時エマイユが青金石や孔雀(くじゃく)石の代用品としての性格をもつものであったことを示している。ギリシアのエマイユ製品は南ロシアやエトルリアなどに輸出され、その地のエマイユ芸術の基礎を築くことになった。

 ヨーロッパ中部では、紀元前5世紀ごろからケルト人の装飾芸術にエマイユが現れ始める。やや遅れて前3~前2世紀ごろには、イングランドアイルランドにも伝えられた。技法はおもに青銅を地としたシャンルベで、酸化銅による真紅色がとくに美しい。ローマ時代にはさらに普及し、留め金や馬具などのほか、化粧壺(つぼ)などの小型の容器類にも応用された。

 キリスト教美術の発達とともに、エマイユは祭具、遺物箱、経典の表紙などの装飾に不可欠のものとなった。ビザンティン世界ではとくに愛好されて多くの作品が生まれた。初期の作例としては、首都コンスタンティノープルのハギア・ソフィア寺院に納められた黄金の祭壇(6世紀)が有名であるが、現存しない。しかし、現在ベネチアのサン・マルコ大聖堂にある「パラ・ドーロ」(12世紀)をはじめ、各地の教会堂に多くの優れた作品が伝えられている。ビザンティン・エマイユは金の細いリボンによるクロアゾンネを主とし、金あるいは銀めっきの素地に、浮彫りの小像や宝石類とともに装飾を施す点に特色がある。一方、西ヨーロッパではドイツ北西部やフランス中部でエマイユ美術が盛んになり、12~13世紀に絶頂に達した。フランスのリモージュの工人はリモザン派とよばれ、「ジョフロア・プランタジュネのエマイユ板」(12世紀、ル・マン美術館)が有名。またムーズ川中流地域のモザン派の名工として知られるユイのゴットフロア・ド・クレアはケルンで修業し「聖アレクサンデルの聖遺物箱」(ブリュッセル王立美術館)を残し、その弟子、ニコラ・ド・ベルダンは「クロスターノイブルクの祭壇」(1181)や「東方三博士の聖遺物箱」(1220ころ、ケルン大聖堂)を製作した。技法は銅を地としたシャンルベで、聖器類に加えて、墓碑など大型の製品もつくられている。

 中世末から、技術はいっそう発達し、釉質の均一化、透明度の増加、窯の改良などに伴って種々の新技法が生まれた。とくに1300年ごろパリの工人たちが始めたクロアゾンネ、浮彫りにされた地を透明釉で覆うバス・タイユが大いに流行した。シエナの作家ウゴリーノ・デイ・ビエリはバス・タイユの名人として名高い。

 ルネサンス以後も発展したが、彫金や彫玉の一部、あるいは補助手段として用いられる場合が多かった。チェッリーニの「黄金の塩入れ」(1539~1543)や、ミラノのサラッキ一族の製品などがその好例。エマイユ絵は15世紀末から16世紀前半にもっとも盛んで、その中心はリモージュであった。製品は多色のものと、黒地に白色で描くグリザイユ法との2種がある。作家としてはペニコーの一族(ナルドン、ジャン1世、ジャン2世ら)、レオナール・リモザン、ピエール・レイモンらが代表的である。

 近世以降はふたたび小型の装飾品が主となり、ルオーらの例外を除き、絵画的な作品は製作されなくなった。近世の工匠では、17世紀後半に瀟洒(しょうしゃ)な作品を生んだトゥタン、19世紀後半にロシアの宮廷で製作したカレル・ファベルジェらがとくに名高い。

[友部 直]



七宝(愛知県の地名)
しっぽう

愛知県西部、海部郡(あまぐん)にあった旧町名(七宝町(ちょう))。現在はあま市の南部を占める地域。1966年(昭和41)町制施行。2010年(平成22)、甚目寺(じもくじ)町、美和(みわ)町と合併、市制施行してあま市となる。名古屋鉄道津島線が通じる。近くに東名阪自動車道の名古屋西、蟹江(かにえ)インターチェンジがある。名古屋市の近郊農村であったが、住宅化、工業化が進み人口も増加している。海抜ゼロメートル地帯で地盤沈下が著しい。特産に尾張七宝焼(おわりしっぽうやき)があり、製品はアクセサリー類50%、そのほか花瓶30%、額縁20%。七宝焼の中心は遠島(とおしま)地区で入口に七宝焼原産地の碑がある。尾張七宝焼の歴史は、1832年(天保3)梶(かじ)常吉がオランダ七宝の技法をくふうし、当地出身の林庄五郎(しょうごろう)らに伝え、七宝焼の特産地となった。尾張七宝焼は1995年(平成7)に国の伝統的工芸品の指定を受けた。

[伊藤郷平]

『『七宝町史』(1976・七宝町)』

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改訂新版 世界大百科事典 「七宝」の意味・わかりやすい解説

七宝 (しっぽう)

七宝焼の略。ホウロウ(琺瑯)ともいい,英語のエナメルenamel,フランス語のエマイユémailにあたる。金属の素地にガラス釉(ゆう)を焼きつけて装飾する工芸。ふつう素地の金属には銅を用いるが,青銅,金,銀,磁器なども用いられる。その素地の上に薄く扁平な金,銀や銅の針金で模様の輪郭線をつくり,シランの根からとった白及糊(しらおいのり)で接着させる。これにガラス釉を施して,1000℃前後で焼くと釉は焼きしまる。さらにその上に透明釉をかけて焼成し,冷却後に表面を金砂で研磨して仕上げをする。これがエマイユ・クロアゾンネémail cloisonné(有線七宝)で,胎の上に銀や銅線で模様をつくらず,ガラス釉を絵具のように塗りつけて焼成するものを無線七宝という。また完成したものに硫酸と硝酸の混合液で胎を溶かし去ったものを省胎七宝,透明な色釉を用いて焼いたものを透明七宝という。ほかに素地の金属を彫りくぼめて模様をつくり,釉薬を焼きつけるエマイユ・シャンルベémail champlevé(彫金七宝)はヨーロッパではポピュラーな技法である。また素地に模様を彫り,それが見えるように透明釉を施したものをエマイユ・ド・バス・タイユémail de basse-tailleという。

中国での七宝の歴史は明らかではないが,隋・唐ころに西域から持ち込まれたと推定される。その後衰えていたが,明・清代に盛んになり,乾隆時代には華麗な模様の花瓶などがつくられている。中国,朝鮮を経て日本では,正倉院宝物中に〈瑠璃鈿(るりでん)背十二稜鏡〉が残されるが,奈良県明日香村の牽牛子塚(けごしづか)古墳から出土した〈亀甲形七宝飾金具〉が最古の遺品であろう。これは朝鮮で新羅時代の芬皇(ふんこう)寺から発見された遺品ときわめて似ている。次に平安時代には平等院鳳凰(ほうおう)堂の扉の七宝鐶(かん)がある。その後,遺品的には空白の時代になるが,桃山末~江戸時代初めに朝鮮人から七宝の技術を学んだ京都の平田彦四郎道仁(どうにん)(1591-1646)が〈花雲文七宝鐔(つば)〉など注目すべき遺品を残した。平田一派は江戸幕府御抱え七宝師となり,〈平田七宝〉として鐔,小柄(こづか),目貫(めぬき)などの刀剣装飾に腕を振るった。また粋を極めた桂離宮の襖の引手などに施された小道具は注目すべきものである。江戸中期には京都に高槻(たかつき)七宝が7代つづき,また加賀七宝,近江七宝なども知られている。幕末天保(1830-44)のころには,尾張国服部村の梶常吉(かじつねきち)(1803-83)がオランダ七宝を研究し,その技を会得した。のちこの付近は七宝町(現,愛知県あま市)と呼ばれて存在している。梶の出現で七宝工芸は大きく飛躍し,彼の弟子の塚本貝助(1828-97)は,明治初年来日したドイツ人ワーグナーGottfried Wagner(1830-92)の指導でその技術を大きく改良させ,さらに東京の濤川惣助(なみかわそうすけ)(1847-1910)は無線七宝を考案,京都では並河靖之(なみかわやすゆき)(1845-1927)が日本画風の七宝に特色を出し,名古屋では安藤重兵衛(1876-1953)らが出て盛況を呈した。
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古代における七宝については不明な点が多い。メソポタミアでは七宝は用いられていなかったらしいが,エジプト新王国時代の宝石細工には七宝技法が用いられていた可能性がある。一方カフカスでは,鉄器時代のクバンの墳墓で発見された青銅製バックルなどに,エマイユ・シャンルベが用いられている。西方ではケルト人が前5世紀以来,装身具や武器に七宝を嵌装しており,古代ローマ時代を通じ,ローマ帝国の北方の属州でクロアゾンネ,シャンルベの両技法を展開させていた。

 七宝が全盛期を迎えるのは,中世キリスト教社会においてであり,教会の典礼用具や聖遺物箱などは,七宝で豪華に飾られた。ビザンティン帝国では,イランから導入されたといわれるエマイユ・クロアゾンネが中心をなし,地金は通常金で(ときには銀と銅も用いられた),十字架,聖杯,聖遺物箱などの装飾に七宝が用いられた。代表的遺例は,現在ベネチアのサン・マルコ大聖堂にある〈パラ・ドーロpala d'oro〉(1105。2.1m×3.5m)である。西欧においては,11~12世紀にエマイユ・シャンルベが栄え,フランスのリモージュと,ライン・マース(ムーズ)川流域のモザン地方(モザン美術)とが,二大中心地をなした。リモージュでは静かな濃紺が支配的であり,〈ジョフロア・プランタジュネの七宝板〉(12世紀。ル・マン美術館)のような大型のものが制作された。モザン地方では,ゴドフロア・ド・クレールGodefroid de Claire(?-1173)や,ニコラ・ド・ベルダンなどが活躍した。とくにニコラ・ド・ベルダンの51枚のパネルからなる〈クロスターノイブルクの祭壇〉(1181)は有名である。ゴシック時代には七宝は貴金属細工と密接に結びついて発展を見,13世紀末になるとエマイユ・ド・バス・タイユが用いられ始め,14~15世紀に主としてイタリア(シエナ,フィレンツェ)とフランスで支配的になった。ジャンヌ・デブルーによって1339年にサン・ドニ修道院に奉献された《聖母像》はその代表作である。

 ルネサンス以降は,中世に確立された諸技法を基礎にしながら,全般に七宝は副次的なものになっていった。15世紀末に,銅板の表面にエマイユで直接描いて焼成した〈エマイユ絵émail peint〉が行われ,16世紀にはこの新技法が一般的になった。代表的作家としてペニコーPénicaud家,レオナール・リムーザンを始めとするリムーザン家(いずれもリモージュで活動)らが知られる。さらに17~18世紀には,16世紀に始まる青味をおびた黒地の上に白いエマイユで描くグリザイユ技法émail en grisailleがリモージュを中心に流行し,18世紀にはとくに腕時計やタバコ箱など小型の貴金属細工に使用された。
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七宝 (しっぽう)

仏教の経典に説かれる7種の宝石のこと。〈しちほう〉ともいう。それらの名称は経典によって多少の相違があり,たとえば《法華経》では金,銀,瑠璃(るり),硨磲(しやこ),瑪瑙(めのう),真珠,玫瑰(まいかい)の七つを掲げるが,《大無量寿経》では金,銀,瑠璃,珊瑚(さんご),琥珀(こはく),硨磲,瑪瑙,また《阿弥陀経》では金,銀,瑠璃,玻瓈(はり),硨磲,赤珠(しやくしゆ),瑪瑙,などとなっている。これらの相違は,多くは翻訳時の原語の解釈の相違によるものと考えられる。しかし,これらの宝石が具体的に何を指すかを含め,不明な点も少なくない。なお,インドの理想的な帝王である転輪聖王がもつとされる七宝は別の伝承であり,金輪(こんりん)宝,白象(びやくぞう)宝,紺馬(こんめ)宝,神珠宝,玉女(ぎよくによ)宝,居士(こじ)宝(大蔵大臣),主兵(しゆびよう)宝(元帥)の七つをいう。
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七宝 (しちほう)

七宝(しっぽう)


七宝(旧町) (しっぽう)

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百科事典マイペディア 「七宝」の意味・わかりやすい解説

七宝【しっぽう】

金属にガラス釉(ゆう)を焼き付ける複合工芸。ホウロウともいう。正倉院宝物に唐代の作と推定される〈瑠璃鈿(るりでん)背十二稜鏡〉があり,当時すでに技術が進んでいたらしく,日本にもこれらの技法が奈良時代に伝えられた。平安時代まで作られたが,のち衰退。慶長年間に平田道仁が朝鮮の工人から技法を学び,幕府の七宝師となってから復活,江戸〜明治に西欧の技法をもとり入れて盛んになった。濤川(なみかわ)惣助並河靖之らの研究により精巧なものが作られ,日本の特産として海外で珍重された。→エマイユ
→関連項目あま[市]梶常吉七宝[町]

七宝[町]【しっぽう】

愛知県西部,海部(あま)郡の旧町。名古屋市の西に接する濃尾平野の近郊農業地域にあり,米作が盛ん。遠島(とおじま)と安松を中心に七宝を特産。2010年3月海部郡美和町,甚目寺町と合併して市制施行,あま市となる。8.33km2。2万2869人(2005)。
→関連項目梶常吉

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ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典 「七宝」の意味・わかりやすい解説

七宝
しっぽう

愛知県西部,あま市南西部の旧町域。名古屋市の西郊に位置する。1966年町制。2010年美和町,甚目寺町の 2町と合体してあま市となった。米作を主とするが,北部の遠島と中西部の安松を中心とする七宝焼で全国的に有名。花瓶,皿,カフスボタン,ネクタイピンなどを生産する。七宝焼は嘉永3(1850)年尾張藩の技芸御雇林庄五郎が始め,「尾張七宝」といわれて農閑期を利用した家内工業として発展した。近年は都市化が進み,住宅地の増加も著しい。

七宝
しっぽう
enamel; émail

七宝焼の略語。英語でエナメル,フランス語でエマイユと呼ばれる。金属面に加飾しようとする文様の輪郭を金属細線でかたどったり,表面をくぼませたりして,ガラス質の色釉 (エナメル) を詰めて加熱,溶着させたもの。西方では古代メソポタミアや古代エジプトに始ってビザンチン時代に栄え,近代になるに従って衰えた。中国では西周時代に興り,明・清時代に最盛期に達した。日本では古墳時代に始って奈良時代に一時栄えたが,その後中断して桃山時代に復活。江戸時代以降は刀装具,建築装飾金具,置物類などに応用され,幕末~明治年間には花器,ふた物などの器物が量産された。多く海外に輸出され,日本の特産品として有名。

七宝
しちほう

仏典中に列挙される7種の宝。7種は必ずしも一定しないが,代表的なものとしては,金,銀,瑠璃,玻璃 (はり。水晶) ,しゃこ (貝) ,珊瑚,瑪瑙 (めのう) 。

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日本の企業がわかる事典2014-2015 「七宝」の解説

七宝

正式社名「株式会社七宝」。卸売業。昭和47年(1972)設立。本社は香川県三豊市豊中町岡本。タマネギ種子の品種改良・販売会社。国内需要の約半量を供給。生産は七宝玉葱採種組合に委託。北海道に試験農場を持つ。

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世界大百科事典(旧版)内の七宝の言及

【七宝[町]】より

…大正年間に始まった桂地区を中心としたエゾマツ,ゴヨウマツ,ヒメリンゴなどの盆栽の生産は有名で,全国各地に出荷される。特産の七宝は江戸末期からの地場産業で町名の由来となった。遠島・安松地区を中心に花瓶,皿,カフスボタンなどを生産する。…

【七宝】より

…しかし,これらの宝石が具体的に何を指すかを含め,不明な点も少なくない。なお,インドの理想的な帝王である転輪聖王がもつとされる七宝は別の伝承であり,金輪(こんりん)宝,白象(びやくぞう)宝,紺馬(こんめ)宝,神珠宝,玉女(ぎよくによ)宝,居士(こじ)宝(大蔵大臣),主兵(しゆびよう)宝(元帥)の七つをいう。【岩松 浅夫】。…

【七宝】より

…七宝焼の略。ホウロウ(琺瑯)ともいい,英語のエナメルenamel,フランス語のエマイユémailにあたる。…

【真珠】より

…また《日本書紀》仲哀天皇の条に,神功皇后が竜宮からこれらの珠を得たと述べられている。仏教に浄土信仰が生まれると,極楽浄土は七宝荘厳(しつぽうしようごん),つまり七つの宝で飾られた美しい世界であると説かれ,法華経などには七宝の一つとして真珠が数えられている。古代の真珠として現存し,容易に見られるものでは,奈良三月堂の不空羂索(ふくうけんさく)観音像の白毫(びやくごう)と宝冠に用いられたものや,正倉院,東大寺の遺宝のなかで宝冠,鎮壇具,刀子(とうす)飾,数珠などに用いられたものがある。…

【鎮壇具】より

…奈良時代には,宮殿,官衙,邸宅などの造営に際しても同様な供養が行われている。この時代に行われた供養は《陀羅尼集経》にもとづいたようであり,ここに示された埋納物は金,銀,真珠,珊瑚(さんご),琥珀(こはく),水晶,瑠璃(るり)などの七宝とされている。 平安時代以降,仏教では密教によって供養が行われ,三鈷輪宝(さんこりんぽう)や橛(けつ)などの法具が用いられる。…

【金属工芸】より

…これに続いて横谷宗珉,土屋安親,奈良利寿(としなが)などの名工が現れた。引手や釘隠には当時流行した七宝流しを用いて,斬新な意匠を施したものが多くみられ,京都の醍醐寺三宝院,桂離宮のものは有名である。ことに桂離宮のものは文字や植物,器物などをかたどって巧妙に意匠されている。…

【ビザンティン美術】より

…古代にモザイクがなかったわけではないが,多くは床に敷きつめられ,材料も大理石その他の石片を用いるのが普通であった。中世に入って壁面装飾にモザイクが用いられ,しかもその材料は七宝(エマイユ)や色ガラスであり,透明体を通して色彩が輝くためひじょうに華麗な効果を発揮し,またその色彩は壁画のそれのように変色したり,いたんだりすることはない。〈永遠の絵画〉と呼ばれたゆえんである。…

【平田道仁】より

…江戸初期の七宝師。美濃国に生まれ,京都に出て装剣金工に従事した。…

【モザン美術】より

… この地方は,すでにカロリング朝末期より芸術の中心地の一つとして栄え,象牙彫,写本画(《フロレッフの聖書》大英博物館)の領域に,優れた作品を生んだ。11~12世紀のロマネスク時代には金工やエマイユ(七宝)が繁栄し,多くの工芸家が輩出する。彼らの均衡にみちた芸術は,次代のゴシック美術の成立に,多大の貢献をした。…

【リモージュ】より

…初代司教聖マルシャルの墓上に9世紀に創設されたサン・マルシャル修道院は,その聖遺物のゆえに重要な巡礼地となり,リモージュはサンチアゴ・デ・コンポステラへの巡礼路の宿駅をなした。ロマネスク様式の付属教会堂(フランス革命期に破壊)はリムーザン地方の中心的存在であり,11~13世紀には修道院工房から優れたエマイユ(七宝),金属工芸,写本画などが産み出された。特にエマイユでは,クロアゾネ技法に代わってシャンルベ技法を豊麗な色調をもって駆使し,モザン派やライン派と並ぶ大中心地となった。…

※「七宝」について言及している用語解説の一部を掲載しています。

出典|株式会社平凡社「世界大百科事典(旧版)」

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