日本大百科全書(ニッポニカ) 「ブールデル」の意味・わかりやすい解説
ブールデル
ぶーるでる
Emile-Antoine Bourdell
(1861―1929)
フランスの彫刻家。モントーバンに生まれる。13歳のときから、家計を助けるため、家具職人の父の仕事場で家具の彫刻を手がけたが、まもなくその素質が高く評価され、モントーバン市から奨学金を受けてトゥールーズの美術学校に入学。さらに7年後、23歳でパリに出て、エコール・デ・ボザールでファルギエールに師事した。しかし、アカデミズムに飽き足らず2年後に中途退学し、ダルーのアトリエで働いたのち、1893年よりロダンの助手となった。ここでの15年間は彫刻家としてのブールデルの成長に大きな影響を与えたが、彼はロダンに感動しながらも追随することはなかった。ともに激しい情熱にあふれた生命を表現しながら、ブールデルの彫刻の組立ては、ロダンの法則と異なっていたからである。
ブールデルは確固たる骨組み、均衡のとれたマッス、単純化された面によって、モニュメンタルで構築性に富んだ堅固なフォルムのなかに、あふれるばかりの熱情と力動感を凝縮させた。この様式の出発点となるのが、ロダンがその彫刻的美しさに感動し、「君は私から離れて行く」と羨望(せんぼう)を込めて語ったと伝えられる『アポロンの首』(1900)であり、その頂点にたつと考えられるのが『弓をひくヘラクレス』(1910)である。この作品は彫刻界に大きなセンセーションを巻き起こし、ロダン、マイヨールと並んで、近代彫刻史におけるブールデルの位置を確固たるものとした。1929年10月1日、パリ近郊のル・ベジネで亡くなるまで、『アルベアル将軍記念碑』(1925)、『ミスキエビッチ記念碑』(1929)など、その様式にふさわしい多数の優れた記念碑を制作し、モニュメントの作家としての名を不朽のものとしている。そのほかの代表作に『果実』(1906)、『ペネロープ』(1909)、『瀕死(ひんし)のケンタウロス』(1914)、『サッフォー』(1925)、そして1888年から没年まで続いたベートーベンの肖像連作がある。パリのアトリエは現在ブールデル美術館となっている。
[黒田亮子]
『富永惣一解説『現代世界美術全集5 ロダン/ブールデル』(1971・集英社)』